10話:贖罪の時
ここまでお読みいただきありがとうございます。
本作はアリエルの一人称視点の小説になります。彼女の主観による事実と、客観的な真実は必ずしも一致しません。
この先もどうか彼女を見守っていただけますと幸いです。
「アリエル。君は服の見立てはできるかい?」
ベッドの上に腰掛けた私に、ルイスが問いかけた。
私は今日、執務室で赤毛の給仕人―ソフィー―に謝罪した。高いヒールで無理に立ち上がったことで、強張った足の甲。その痛みが、少しだけ、ほんの少しだけ私の罪悪感を和らげていた。
彼は、私の細い足首を恭しく膝の上に乗せた。私の足を、親指で時間をかけて丹念に揉みほぐしていく。腱と骨の間を追いかける指先の動きは、正確で、そして献身的だった。
「ええ。淑女としての嗜みですので」
私の声は、まだ冷静さを保っていた。指圧の痛みの後に訪れる解放感が、安らぎをもたらす。それが却って、私の罪の意識を濃くした。
痛みは贖罪にならないと、突きつけられているようだった。
「明日ソフィーの新しい給仕服を仕立てる予定だったんだ。君が彼女に最高のものを選んでくれないか?」
赤い紅茶で濡れた彼女の真っ白な給仕服と、血の気が引いた青白い表情を思い出す。
私が服を贈ることが、本当に償いになるのだろうか。ソフィーは、私の顔など二度と見たくないのではないか。
けれど、手から伝わる体温が、大丈夫だと告げていた。強張っていた足の緊張は緩んでいった。
「……承りました。私に選ばせてください」
私が承諾した瞬間、彼の指先に熱が灯った。
彼は足首を掴み、土踏まずの窪みを指の先端でなぞった。急な変調に、私は顔を枕に押し当てて、掠れた呻き声を押さえ込んだ。
そして、彼は赦しを与えるように、足裏の私の最も弱い場所を、無慈悲に強く押した。その瞬間、脳天から爪先まで通された一本の弦がピンと張った。声帯が撥音を奏でて停止する。弦が緩む頃には、私の全身は抗いがたい安堵によって覆い尽くされていた。
「おやすみ。僕の愛しいアリエル」
高貴な石鹸の香りが遠ざかる。彼は椅子から立ち上がり、扉へと向かっていた。
静まり返った夜の王宮。彼は、やはりジャケットを着たままだ。この後も、公務へと戻っていくのだろう。
私は、小さく息を吸って、残り香を吸い込んだ。それから、立ち去る背中に消え入るような声で囁いた。届いてほしい、届いてほしくない声。
「ルイス様、おやすみなさい」
彼は、心なしか目を見開いて微笑んだ。
翌日の夜、私が向かったのは、王宮敷地内にある、王室お抱え仕立て屋の別邸だった。そこは、採寸や仮縫いを行うための私的なサロンとして使われている。
「ソフィー、入っても大丈夫かい?」
「殿下……!? す、少しだけお待ち下さい!」
部屋の中から慌ただしい気配に混じって、上ずった声がした。しかし、数十秒と待たずに、ソフィーに招き入れられる。
「どうぞお入りください!」
私は頑なに床に下ろされなかった。
彼が私の腕を、ポンと軽く合図するように叩く。私は渋々両手を彼の首筋に回し、身体を密着させた。
彼は片手で私を抱き上げたまま、もう一方の手で扉の取っ手をひねり、重厚な扉を開いた。
壁は落ち着いた群青色のビロードで覆われ、柔らかなシャンデリアの光が、磨き上げられた黒檀の床に複雑な模様を描いていた。中央には、巨大な真鍮製のトルソーが、まるで無言の貴婦人のように佇む。
その周囲には、様々な光沢を持つシルクやベルベットの生地見本が、煌めく宝石のように陳列され、乾いた布地の匂いが空気に溶け込んでいた。
片隅には、重厚な革張りのソファが向かい合うように四つ。その間の繊細な彫刻が施された小ぶりのティーテーブルが落ち着いた雰囲気を醸し出す。
そこに彼女の姿はなく、試着室のカーテンの奥から、衣擦れの音が聞こえた。
「恐れながら、着替えの途中で失礼いたします。殿下を外にて長らくお待たせするよりは、こちらのほうが宜しいかと思い……」
ソフィーの声が徐々に萎んでいく。
「ああ。君の心遣いに感謝するよ」
彼は落ち着いた声で答えながら、私を生地見本の近くにあった椅子に座らせた。
やがて、試着室の厚いカーテンが静かに開いた。ソフィーが赤毛を揺らして彼の顔を見上げる。
「給仕服の仕立ては問題なさそうだね」
彼の言葉に、彼女は胸元で両手を重ねて頭を垂れた。その動作には、恋慕の情はなく、ただ主君への忠誠と尊敬の念だけが滲んでいた。
顔を上げた彼女は、私の存在に気づいた。彼女は後退り、ルイスと私の顔をおずおずと見比べた。
彼は、安心させるようにわずかに顎を引き口元を綻ばせて言った。
「ソフィー、僕は君を高く評価している。重要な会合や他国との会談でのお茶出しを、君にも任せたい」
彼女の肩が、微かに震えた。それは畏れではなく、誇りにも似た感情だろう。彼の申し出は、給仕人にとって最高の栄誉を意味するはずだ。
(そうか、私が選ぶのは——。)
「給仕服の他に、相応の装いが必要になる。彼女が、君の品位に最も相応しいものを選んでくれる」
彼女は言葉を失い、胸元を掴むように指を食い込ませて歓喜の声を抑えこんでいた。
その血のような鮮やかな赤毛に、私は釘付けになっていた。どんな色が彼女には似合うだろう。
これまで祖国で、数多くの社交の場に出てきた。その中でも、彼女ほど洗練された動きは見たことがない。彼女の品格に見合った奥ゆかしい給仕服を私が選ぶのだ。
「私は目利きには自信がある。貴女の誇りを映す一着……。私にも選ぶのを手伝わせてもらえないかしら?」
彼女は私から目を逸らして、ぎこちなく頷いた。
ルイスは、片隅のソファに移り、ペンを走らせていた。彼が傍にいること、そして、その視線を感じずに済むことが、私を贖罪に集中させる手助けとなった。
私は、テーブルを埋め尽くす生地見本に手を伸ばした。
「まずは、ソフィーの希望を聞かせてもらえる?」
ソフィーは依然として畏縮していたが、私の真剣な眼差しを見て、恐る恐る口を開いた。
「色や柄は、私にはわかりません。ただ……膝を曲げてお辞儀しても裾が邪魔にならず、素早く動いても布が擦れる音が控えめだと助かります」
彼女の希望は、いずれも職務の遂行に関するものだった。私はそのプロ意識に敬意を覚えると共に、自分の卑劣さを痛感させられた。
私は、数ある生地を順番に、指先で触れて質感を確かめた。そして、奥深くから光沢を抑えたディープ・フォレストグリーンの厚手のシルクジョーゼットを選び出した。
ふと思った。これは、彼女と似た彼の赤い髪色にも似合うだろうなと。これは私には似合わないだろうなとも。
胸の奥に、一瞬、ちくりとした痛みが走った。
けれど、私はその感情をねじ伏せて、隣室に控えていた仕立て屋を呼び出した。
昼間に彼の執務室で用意したスケッチの内の一つを見せる。肩からウエストまでを美しく見せ、裾にかけて控えめに広がるAライン。給仕の邪魔にならないよう、装飾は襟元に共布のパイピングを施すだけに留めた。
続けて、私は仕立て屋と打ち合わせをしながら、裏地の色まで入念に選び抜いた。
ソフィーはそんな私の様子を、じっと見つめていた。彼女の瞳から警戒心と恐れが薄れるにつれて、その場所を困惑と、純粋な驚きが占めていくようだった。
半刻後、基本的なラインを縫い合わせた仮縫い用のドレスを仕立て屋が作り上げた。
試着室のカーテンが開き、彼女が姿を現す。
深い緑の生地が、彼女の赤毛を見事に引き立てる。そのコントラストは息を呑むほど美しく、主賓を立てる慎ましさと確固たる存在感を同居させていた。加えて、布地の光沢は彼女の肌と調和し、しとやかさを十全に引き出した。
彼女は、壁に立てかけられた大きな鏡へゆっくりと歩み寄った。
鏡の中の自分を見つめるソフィーの唇が震え、彼女は慌ててそれを手で覆った。そして、破顔したような笑顔で振り向いた。
「アリエル様……!」
彼女は、私に向かって給仕の作法に則った完璧な角度でお辞儀をした。
「このような素晴らしい装い、生まれて初めてです。この恩義は、給仕人としてお返しいたします」
彼女の言葉で、瞳に薄い膜が張るのを感じた。これが、ルイスが私に求めた贖罪の形だったのかもしれない。
「あの日の非礼を償えたとは思っていないけれど。貴女の笑顔が見られて良かったわ」
不意に、私の肩に彼の重みが加わった。いつの間にか、隣にはルイスが立っていた。
「君によく似合う素晴らしい給仕服だ」
彼は、彼女の新たな装いへの賛辞を惜しまなかった。それから、壁掛け時計を見て言った。
「……もう夜も遅い。ソフィー、先に彼女を送り届けたら、迎えに戻るよ。着替えが終わったら一緒に帰ろうか」
「滅相もございません! 私は一人で大丈夫です!」
迷わず身を翻してカーテンの奥へ消えていく彼女を見送り、私たちは帰路へと着いた。




