32話:視察の時
——同日、昼下がり。
私はルイス本人不在の執務室で、語らいを楽しんでいた。
扉をノックする音と共に、老紳士が姿を現した。
「マヤ殿。殿下がお呼びです。」
彼女は静かに頷くと、老紳士と入れ替わるようにして執務室を速やかに立ち去った。
目だけを動かして、老紳士の顔をのぞき見る。彼は先日国王陛下の傍にいた、確か名前は——。
「ジェラルド様、少々お待ちください。お茶をご用意いたします。」
ソファから立ち上がろうとするソフィーを、ジェラルドは制止した。
「どうぞお構いなく。ソフィー殿もマヤ殿が戻り次第、殿下のもとへ伺ってください。」
「私が、ですか?……承知いたしました。」
彼女はわずかに首を傾げた。
マヤだけでなくソフィーも、となると何の用だろう。
わずかに重たくなった空気の中、ジェラルドは部屋の片隅に佇んでいる。年の割に真っすぐに伸びた背筋と、鋭い眼差し。その眼光が、”妙なことはするな”と語っている。
だけど、ちょうど良い機会だ。ルイスに長く仕えているらしい彼に、訊きたいことがあった。
彼に向けて問いかける。
「昨日ルイス様に変わったことはなかったかしら?」
「貴方様との旅を控えて、浮足立っているご様子でした。」
彼は、デスクを一瞥して答えた。
まともに話す気のない相手に食い下がるほど暇じゃない。私はため息をついて、ティーカップに手を伸ばした。
気まずい沈黙を破ったのはソフィーだった。
「あ、アリエル様!どちらへ行かれるのですか?」
「ええ。”雷の国”へ。」
「もしかしたら、間近で稲妻をご覧になれるかもしれませんね!」
それから暫く、彼女ととりとめのない話をして過ごした。
彼女の口元は自然な弧を描き、目尻には柔らかな光が宿っていた。話の合間に、軽く持ち上げた手が抑えきれない笑い声と共に胸元で小さく揺れる。その笑い声は高すぎず、鈴のような心地よい音色だった。
——2日後。
私たちは三人で早朝から馬車に乗り、目的地を目指していた。
向かいには、マヤが背筋を伸ばした完璧な姿勢で座っている。昼食の終わり際、彼女が尋ねた。
「殿下。本日のご用命は、まだ教えていただけないのでしょうか?」
彼女は護衛のため、ルイスの公務のスケジュールを把握している。当然、今日は予定が空いていたことも知っているはずだ。
「ああ、もういいか。僕が孤児院を視察している間、君にはアリエルの護衛を任せる。」
瞬間、マヤは数日前の問いの真意を理解したようだった。彼女は、無表情のまま私の名前を呼んだ。
「アリエル様?」
ゆらりと彼女の周囲の空気が歪んで見えた。額に冷たい汗が流れ、心臓が警鐘のように鳴る。
隣に座っていたルイスが、ぐらつく肩を抱き寄せた。
「侍従が僕の公務に随伴するだけだろう?」
彼は手を伸ばして、カーテンを開いた。
窓の外では針葉樹の森が開け、遠くに素朴だが手入れの行き届いた石造りの建物が見えている。煙突から細く煙が立ち上るその場所こそ、彼女らが育った故郷―—リーヴェ村の孤児院だった。
私は腕の中で、ふぅと小さく息を吐いた。
このソフィーの休暇に合わせての視察は、私のささやかな策略によるものだ。
私には自分で彼女に伝える義務がある。彼の身体から離れて、真っすぐにマヤの目を見つめた。
「ソフィーが言っていたわ。最近は、すれ違うことさえ避けられていると。適度な距離感というものがあるでしょう?」
「あの子は可愛い理想の妹ですから。”適度”な距離を維持するなどできません。」
マヤは臆面もなく答えた。
フロストリアスの人々は愛が重い国民性でもあるのかもしれない。
「あなたの心配も分かるわ。けれど私たちは、役割を果たすためだけに生きている訳ではないわ。」
深く息を吸う。肺が彼の匂いを拒絶する。それでも、私は言葉を紡いだ。
「それに……休暇が全く重ならないのも却って不自然よ。」
マヤは口をつぐみ、近づいてくる孤児院を眺めていた。
やがて馬車が停まると、ルイスは院長に出迎えられて、施設の視察に向かった。
門の奥からは、土埃と生き生きとした子供たちの笑い声が溢れ出ている。マヤを連れて建物の脇を抜けて庭へ向かうと、視界が一気に開けた。
そこには、古い木製ブランコや、泥まみれのボールを追いかける元気な子供たちの群れがあった。彼らの甲高い歓声は、冷たい冬の空気さえも吹き飛ばす熱気に満ちている。
その中心から、見慣れた赤毛が飛び出してきた。
「ね、姉様!?今日はお仕事じゃ……」
「はい。アリエル様の護衛で参りました。」
マヤは毅然とした態度を取ろうとしたが、既に遅かった。彼女は、ソフィーの後を追ってきた子供たちに取り囲まれて揉みくちゃになっていた。
「ソフィーちゃん。この人だあれ?」
彼女の後ろに隠れていた幼い少年が顔だけ覗かせる。
「え、ええと、最近できた私のお友達……です?」
「そうなの?」
少年がおそるおそる私を見上げる。
思わず視線を泳がせた先で、ソフィーと目があった。彼女は、片目を閉じて控えめに微笑んだ。
確かにマヤの言う通りだ。これは可愛い。
「…………」
静かに様子を見つめるマヤを尻目に、私は膝を曲げて少年に答えた。
「ええ。だから、ソフィーの家族にも会ってみたくなったの。」
「そっか。お姉ちゃんも僕たちとあそんでくれるの……?」
今朝ルイスに着せてもらったドレスは身軽なデザインだ。靴だって、あのハイヒールではない。
「そのために来たんですもの。私もあなたたちと仲良くなりたいわ。」
それから私たちは庭を駆け回った。子供たちの尽きない体力に付き合い、気づけばすっかり夕暮れ時になっていた。子供たちの笑い声は、周囲が暗くなるにつれて、少しずつ名残惜しむような、穏やかな響きへと変わっていく。
遊び疲れて限界を迎えた私は、ベンチに腰を下ろして、長い影を丸めた。
すると、すぐに一人の幼い少女が私の元へ駆け寄ってきた。少女は、私が身を動かす隙も与えず、無邪気に私の太ももの上に座った。振り向いてニコニコと上目遣いに私を見つめる。
まんまるな目、柔らかなほっぺた、少し高い体温。そのどれもが愛おしい。
ゆっくりと頭を撫でていると、少女は私に体を預け、安心しきったように目を閉じた。少女の寝息が、スカート越しに微かに伝わる。
私とは対照的に、マヤとソフィーは動き続けている。
マヤは、まるで長年の習慣のように、冷静かつ正確に遊具の片付けを指揮し、泣き出した幼い子の手を引いて建物の入り口へと促していた。
その隣にはソフィーが、沈みゆく太陽の残滓のように寄り添う。彼女は、子供たち一人ひとりの目線に合わせて屈み込み、土で汚れた顔を優しく拭っていた。
ちょうどその時、視察を終えたルイスが建物から出てきた。彼は、少女が眠りについていることを確認すると、私の耳元で囁いた。
「君はきっと素敵な母になるんだろうね。」
鼻の奥がツンと痛んだ。未来への夢想と、目を逸らせない使命。相反する感情で中和され、私の顔は赤くも青くもならず張り付けた笑顔を堅持した。
「私には過ぎた夢です。」
「……マヤ。アリエルを頼む。僕は、街の広場で演説をしてくる。」
直前まで庭にいたマヤは、瞬時に私のそばに現れて頷いた。そして、ルイスを乗せた馬車が発つのを見届けてから、抑揚のない声で言った。
「アリエル様。あなたこそ、役割に縛られているのではないですか?」
私は咄嗟に唇を開いたが、乾いた空気が漏れるだけで音になることはなかった。
マヤの言葉は、私の心の最も深くに突き刺さり、思考のすべてを奪い去った。凍りついた一瞬の隙を突くように、事態は動いた。
「姉様!大変です。リゼちゃんがどこにもいません!」
ソフィーが肩で息をしながら膝に両手を当てて叫んだ。




