31話:当惑の時
王宮に戻った頃には、日付が変わろうとしていた。
入浴を済ませた私は、広大なベッドの上にうつ伏せにして下ろされた。
慣れない姿勢で馬に揺られたせいで、背中と腰の筋肉が悲鳴を上げている。鐙を踏めない足でバランスを取ろうとした代償だ。最初から彼に身体を預けていれば、こうはならなかっただろう。
ルイスはベッドの縁に腰掛けると、私の背中に手を置いた。
「今夜は、足に加えて背中も解そう」
「いえ、そこまでは、その……」
「ダメだ。君は途中まで、緊張して強張っていたからね」
彼は静かにベッドへと上がってきた。マットレスが沈む感覚に、心臓が跳ねる。
ルイスは、私の太もものあたりを跨ぐようにして、膝をついた。必然、腰の上に覆い被さる形になる。もちろん、全体重をかけられているわけではない。彼は膝と強靭な大腿部で体重を支えている。だけど、私が少しでも動けば、即座に押さえ込むことができる体勢だ。
昨夜”脅し”で私を押し倒したときとも違う、強引な態度に違和感を覚える。
「ルイス様……? 今日はなんだか様子が——」
「いいから、力を抜いて。僕だけの愛しいアリエル」
耳元に濡れた息を吹きかけると同時に、大きな手が肩甲骨のあたりに触れた。ネグリジェの薄い絹越しに、指の腹の柔らかさが伝わってくる。
次の瞬間、ぐっと親指が脊柱起立筋に沿って押し込まれた。
「んっ……!」
思わず声帯が涙ぐむ。そこは、自分でも自覚していなかった凝りの根本だった。
彼は、私の反応を確かめるように、ゆっくりと、しかし確かな圧をかけて筋肉を押し広げていく。肩甲骨の内側から、首の付け根へ。次は、背骨に沿って腰の方へと。
彼の指は、正確に筋繊維を捉え、固まった部分を溶かすように揉みほぐしていく。痛みと快感を噛み殺そうとして身体に力が入る。
「我慢しないで。僕に全てを委ねるんだ」
彼が体重を利用して圧をかけるたび、私の肺から強制的に空気が押し出される。吸い込むのは、ローズマリーと白檀の香りが染み付いた空気。その身を取り囲むのは、私の太ももを挟んでいる彼の内腿の熱と、背中を押す手のひらの熱。
湯気でじんわりと火照ったままの身体が彼の指に甘えるように自ら吸い付く。
しかし、抗いがたい安堵の波を、違和感が堤防となって封じ込む。私は、後ろ手に彼の腕を握った。
「ルイス様、やっぱり今日は変です。お気に召さないことでもあったのでしょう?」
「……君が気にすることではない」
わずかな沈黙の後、彼は感情の乗っていない声で答えた。
「”何もなかった”とは仰らないのですね」
その時、私の手に一滴の雫が落ちた。丹念な按摩で彼も汗ばんでいるのだろうか。彼の顔を見上げようとするけれど、うつ伏せに組み敷かれた状態では叶わない。
彼は私の手をそっと外し、ジャケットの裾で雫を拭き取った。間髪入れずに、腰の近くを十指が這い始める。
たった一滴の雨で、堤防にヒビが入ってしまったようだ。下腹部の傷跡がぞわぞわとして身悶える。意図せず発した切なげな声で抗議した。
「お顔が見えないと、少し……怖いです」
「安心していい。僕が君を傷つけることは決してないのだから」
「あ……、そこ……は……」
彼の手が腰のくびれに差し掛かった時、鋭い電流が背筋を駆け抜けた。
馬上で揺られ、最も負担がかかっていた場所。ルイスはそこを重点的に、円を描くように親指で圧迫した。
「ここが辛かったのだろう? 分かるよ、君の身体のことは何でも」
凝りの奥にある神経の束が弾かれる。その瞬間、全身が硬直し弛緩した。それにも関わらず、ルイスの手は休むことなく、背中と足を撫で、押し、解し続ける。規則的な指圧が、私を深い微睡みへと誘った。
「……るいす、さま……」
朦朧とする中で、名前を呼ぶ。
何を伝えようとしたのか、自分でも分からない。拒絶か、感謝か、あるいは、もっと別の何かか。
「いい子だ。もう何も考えなくていい」
彼は、動きを止めると、私の背中にのしかかるようにして身を屈めた。長い髪をかき上げて、耳たぶを弄ぶ。
「君が望むなら、何処へでも何度でも連れ出そう。……だが、帰ってくる場所はここだけだ」
魔王の呪いのようでいて安らかな言葉が、薄れゆく意識の最後に響いた。
私は、睡魔と心地よい疲労感、そして彼の体温に支配されて、眠りへと落ちていった。
——翌朝、ワードローブ。
ルイスは背後に寄り添うと、コルセットの編み上げ紐を掴んだ。
ギュッと締め上げられるはずの痛みは訪れない。彼は、私の呼吸を探るように、寸分の狂いもない絶妙な力加減で紐を引き絞ってくれる。
ふと、彼が問いかけた。
「疲れは残っていないみたいだが、今日のワルツはやめておこうか?」
何故そんなことまでわかるのか不気味だ。でも、彼の指使いと言葉は、私への気遣いに満ちている。
昨晩感じた小さな恐怖は、そこにはない。私は仕返しで意地悪をしたくて、高慢な表情で口角を上げた。
「ご心配ありがとうございます。あなたがどうしてもと仰るならば、踊って差し上げますわ」
そう言ってから後悔した。ルイスはこれしきでたじろぐような男ではない、と。
「僕のアリエルらしくない物言いだね。だが、君にはそれに見合う美しさがある……。ぜひ、お願いするよ」
結局、顔色を変えたのは私だけだった。
彼は平然とドレスを着せ付けながら、続ける。
「そうだ。来週、盟友である”雷の国”に赴くことになった。当然、君にも同行してもらう」
雷の国までは海路も含めて片道で丸3日はかかる。現地での公務を考えれば10日ほどか。
彼に同行することは、マヤの次の休暇まで逃亡の準備をする機会がないことを意味する。
「公の場があれば同席するとは申し上げましたが、私には時間が……!」
「”時間”? …………妃として外交する予行演習だと思えばいい」
彼は抵抗を寄せ付けず、手際よくドレスのホックを留めていく。
「ルイス様。やはり、何か、」
「とにかく、これは決定事項だ。僕の所有物をどこに連れていこうが僕の自由だろう」
私の言葉も遮り、愛玩動物に首輪を着けるように、トパーズのネックレスを巻き付ける。
「君は、”アリエル・ツー・フロストベルク”は、僕のものだ。百年千年先もずっと」
立ち尽くす私の背後から、彼が抱き締めた。片手は、鈍く光る右手の指輪に添えられている。
美術館で”雷の国”の絵画を観た時、彼の身体は氷よりも冷たく感じた。今、その身体は正反対に、地獄の業火よりも熱く私の心を焦がす。
前言撤回だ。彼は昨晩と同じで、少しだけ怖い。




