27話:徒花の時
翌日の昼、私は執務室でルイスの肖像画を描いていた。紆余曲折あったが完成は近い。向かいに座る実物と見比べて、細かい部分を描き込んでいく。
「殿下、ただ今少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
ノックと共に、落ち着いたアルトの声が響いた。
入室してきたのは、筆頭女官ジェーン夫人だった。彼女とは、ヴェルザードにいた頃に面識がある。
私はベールの下で、冷たい汗をかいた。
背後には、ティーセットを携えた若く化粧の濃い給仕人が控えている。数日前に私に紅茶をかけてくれた女性だ。彼女の視線が、肌に突き刺さるのを感じる。その口元では、下唇をきつく噛んでいる。
「ああ、ジェーン夫人。ご足労感謝するよ」
ルイスが椅子から立ち上がって夫人を迎える。彼女は恭しく挨拶を返すと、視線を私に固定させたまま、しかし、ルイスに向けて話し始めた。
「殿下。まず、この数年のご懸念が晴れる兆しが見え、宮廷は安堵しております」
既視感を覚える前置き。続いた言葉は、概ね予想通りだった。
「ですが、恐れながら申し上げます。執務室にまでご寵愛の女性を同席させるのは、王族の規律を乱す行為だと、新たな懸念が広がっております」
彼は、ソファに腰を下ろすよう夫人を促し、自身は私の隣に座った。そして、ティーカップを優雅につまみ、一口喫する。
「彼女が来てから、僕が公務を疎かにしたことがあっただろうか?」
「っ! 申し訳ございません。出過ぎた発言でした」
彼の言葉を威圧と受け取った様子で、夫人はテーブルすれすれまで頭を垂れる。彼は直ぐに、彼女に顔を上げさせた。
「いや、皮肉ではないんだ。もし気づかぬうちにミスを犯していたならば、指摘してほしい」
「それでは。論点をすり替えないでください。公私は分かつべきであると申し上げているのです」
私の存在がルイスと忠臣の信頼関係にヒビを入れている。けれど、面識がある彼女の前では、声を発するのもリスクが大きい。どうすることもできない罪悪感で、私は両手を強く握りしめた。
「彼女が傍にいた方が、僕は”公”にも集中できる」
ルイスが、私の右手を膝の上に攫い掌を重ねた。薬指の指輪が彼の体温を享受する。
私の拳が弛むのと反比例して、夫人の拳は固さを増していた。
「ですから、”それ”はどうぞ寝所でなさってください。ここは神聖な執務室です!」
「……彼女には、ここに在ること以上を求めていない」
ルイスは、夫人の諫言を受け止めた上で、ただ事実を告げた。
「……は…………?」
呆然とした声にならない音が向かいから漏れ出た。
長い沈黙が流れる。
彼女の視線は宙を彷徨い、脇で控えていた給仕人の口はぽかんと開いていた。
時計の秒針が無数の音を刻んだ後、彼女は給仕人の名を呼んで立ち上がった。
「エレーヌ、戻りましょう。私たちの杞憂だったようです。いえ、懸念は晴れてなどいなかったと言うべきでしょうか」
彼女らは、魂の抜けた亡霊のような足取りで執務室を辞した。
二人きりの密室。私はベールを下ろしたまま、抗議を込めて彼の手を握り返した。
「ルイス様。個人的なお話をされてしまうのは、私には少し……その」
「ああ。嫌な思いをさせてしまったね」
彼は背もたれに体重を預けて天を仰ぐ。
私は、自分でもずるいと思いつつも、何も言わずに彼が言葉を続けるのを待った。
「……全く。みな、口を開けば同じ話ばかりだ。僕は——」
根拠のない直感だけれど、この一言は、取り繕わない彼の本音に思えた。初めて会った日の記憶と交差して懐かしい気持ちになる。
「いえ。ごめんなさい。私も公爵家で育ちましたから、王家のご事情は理解しているつもりです」
彼は、いたわるように私の髪を撫でると、徐ろに立ち上がった。
「今日の予定は殆ど片付いている。気分転換に行こうか」
やがて辿り着いたのは、『トロピカリア』と呼ばれる王宮内の温室だった。寒冷なこの国では決して育たない、ヴェルザードの植物が、温帯の湿った熱気に満ちたドームの中で、贅沢に栽培されていた。
ルイスは、私を横抱きにしたまま、曇った窓ガラスを指先でなぞった。
「この温室の全ての熱と光は、君のためだけに注がれている」
私は大きく息を吸った。お気に入りの香水と同じ柑橘系の花々の香りが鼻腔を満たす。今は遠い大切な祖国での思い出。彼が、それを上書きするように、私の首筋に深く顔を埋める。白檀とローズマリー、そして、柑橘系の香りが混ざり合い、私を閉じ込めた。
「温室とは言い得て妙ですね。外では生きていけない花を、隔離し、熱と水を与えて独占する場所。まるで――」
『私のようだ』と続ける前に、彼の指に唇を塞がれた。私は自虐を口にする自由さえもないらしい。
「君は僕のそばで美しく咲き誇ればいい。もう身を危険に晒すよう必要はない」
全肯定の狂愛は留まるところを知らない。
私は彼の首筋に腕を回して、身体を寄せた。腕の中の安らぎと使命への決意を対比させる。
「ルイス様。私を処刑台から救ってくださり、ありがとうございました」
——だからこそ。
「私は、あなたのものにはなりません」
両の目に、今は彼の姿だけを焼き付ける。この瞬間が永遠となるように。
それから、全身を委ねたまま微笑んだ。
「憂い表情の君も素敵だが、花のように綻ぶ笑顔には敵わない」
彼は、瞳の奥を煌々と輝かせて微笑み返した。




