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【冤罪なし、反省ゼロ。溺愛の罰を召し上がれ】悪役令嬢、ヤンデレ王子に飼われ溶かされ壊される〜今さら謝られても、もう一生離さないよ〜  作者: 重井 愛理
三章

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25/58

25話:交響の時

 ——半刻後、王立歌劇場。


 私は、彼にエスコートされて会場に入った。


 ホールの中は、無数のクリスタルの照明によって、荘厳な石膏の装飾が照らし出されていた。タキシードとイブニングドレスを纏った貴族たちが、囁き声と共に華やかな賑わいを作り出している。


 待機していた支配人が深々と頭を下げた。


「殿下、王室特別席をご用意しております」


 支配人は、一般通路を避け、黄金の装飾が施された特注の観覧室へと私たちを導く。扉の向こうは、観客席を見下ろす静謐な空間だった。


 二人掛けの広々としたソファに、私たちはゆったりと座った。


 席について間もなく、熟練の給仕が、観覧室へ入室した。彼女は一言も発することなく、中央に置かれた小さな象嵌細工のテーブルへと向かう。

 流れるような動作で、冷えたワインのボトルとグラス、加えて、色彩豊かなオードブルの盛り合わせを、丁寧にテーブルへと並べた。彼女は、職務を果たすと、お辞儀を残して速やかに退室した。



 彼がふと私の肩を見つめた。


「ここは誰にも邪魔されない。僕たちだけの世界だ」


「ルイス様は、このドレスがお好きなんですね」


「少し違うな。君が着ているからこそだ」


 私は渋々、肩を覆っていたショールを脱いで折り畳んだ。オペラグローブも外し、その上に載せる。


 ルイスは満足げに頷き、ワインボトルを手に取った。深紅の液体がグラスに注がれる。


「君が口にするものは全て、僕が検める」


 彼はそう告げると、グラスを軽く揺らし、立ち昇る香りを静かに嗅いだ。


「これは、太陽と土壌の記憶を宿している。実に芳醇だ」


 グラスを口元に運ぶ。彼の艷やかな唇が赤く濡れた。


「……ああ、良い。口当たりがまろやかで、今宵の君のドレスのように精華が凝縮されている」



 私は、横目で彼の様子を眺めていた。

 王家の気品に満ちた振る舞い。閉じた瞼も、まつ毛が落とす小さな影さえも、非の打ち所がない。だけど、やっぱりルイスはルイスだった。


 彼は、私の視線に気づくと、飲み口の角度そのままに、グラスを差し出した。そして、私が受け取るのを見届けると、すぐに自分の分を用意して、再び香りを愉しみ始めた。


 微かに残るルージュの跡に私の目は釘付けになる。それは、間接的ながらも、親密な要求だった。



 別にこの程度は大したことはない。

 ただ、そのまま飲めば、要求を受け入れたことになってしまう。逆に、角度を変えれば、私が気にしていることになってしまう。

 どうということはないはずなのに、強い羞恥と高揚で心臓が跳ね上がる。


「……っ……」


 私は、彼の味の残滓をかき消すように一気に飲み干した。


 濃厚な香りと甘美な味が口腔を彩る。喉の奥を焼くアルコールは、予想以上に早く回った。頭の芯がくらくらと揺れ、寄りかかってしまいそうになる。

 私は酩酊を悟られまいと、無造作にフォークを握った。テリーヌへ切っ先を当てる。しかし、照準が定まらず、かちゃりと皿の縁を鳴らしてしまった。


 ルイスが身体を寄せて惑わす。


「いつものように食べさせてあげようか?」


「結構です……!」


 フォークを突き刺し、強い意志をもって口元へと運ぶ。いつの間にか、私のグラスには透き通った水が注がれていた。



 食事を終えた私たちは、パンフレットを広げ、新譜の成立した背景や、注目のソリストの逸話について語り合った。

 彼は、私の造詣の深さを称え、意見を熱心に求める。


「彼は新進気鋭のピアニストだ。近年の活躍は目覚ましいものがある。君も知っているだろう?」


「えぇ。ヴェルザードでも聞き及んでおりました。国際コンペを最年少で受賞して一躍名を上げたと。私も、弱音の表現は抜きんでていると思います」


 会話が弾むにつれて二人の隙間は狭くなり、肩が触れ合う距離になっていた。


 その時、ホール全体の照明が徐々に落ち始めた。観客のざわめきが、まるで潮が引くように収束する。


「さあ、始まるよ、アリエル」


 彼の声は純粋な期待に満ちていた。



 暗い舞台の上で、指揮者がタクトを構える。

 一瞬の間を置いて、最初の和音が炸裂した。それは、コントラバスの大地を揺らす重低音と、ヴァイオリンの天を突く張り詰めた高音が調和した旋律だった。

 音楽は、観覧室の空気を打ち破り呑み込む。視界の全てが再構築されていくような感覚に酔いしれた。


 私は誰かと、この気持ちを共有したいと思った。音の万華鏡の中でただ誰かを探し求め、隣のルイスを見つめた。

 やっぱり彼は、私の視線にいつも気づいてくれる。そして、私たちは結びつき、確かに共鳴した。



 彼は更なる結びつきを求めていた。


 彼の手が、私の手の甲に触れた。膝の上で行儀よく重ねられた手。彼はそれを掴むでも持ち上げるでもなく、その上で指を這わせ続ける。指の一つ一つが、羽毛で撫でるように軽く楽譜に合わせて踊る。


 だけど、今は疼きや震えはなく、ひたすらくすぐったい。


 私は抵抗を諦めて、手のひらを回転させて空に向けた。すると、彼は音楽に集中した姿勢のまま指を絡め、強く握ってきた。


 肌で感じる生の低音。その振動が、覆い被さる手の重みを介して共振する。鳥肌さえも分かち合いたくて、私は彼の手を握り返した。



 最高潮に達する音圧と手の温もりによって、多幸感に満たされる。興奮が水滴となり、手のひらを湿らせた。


 汗が手と手の溝を埋め、密着を深める。貴婦人にあるまじき失態で、顔が朱に染まりかけたその時、彼は指の力を、ごく僅かに緩めた。

 あくまで指は絡めたまま主導権だけが私に譲られた。


 私はそっと手を引き抜き、ポーチからハンカチを取り出す。ルイスは私の様子を覗き見るようなこともせず、舞台を見つめている。


 汗を拭った後、私は葛藤した。彼は手のひらを空に向けて待っている。

 彼の愛に、私から触れてもいいのだろうか。

 こんな——あと何日とも知れぬ命で。


 しかし、その温もりから離れることは、もう私にはできなかった。

 私は、精一杯の勇気をもって、ルイスの開かれた手のひらに、自分の手のひらを近づけた。


 魂の先端が接点をもった瞬間、五本の指が私の指に吸い付き絡めとった。まるで、甘い香りに釣られた蝶を捕らえる食虫植物かのように。その引力は、先ほどよりも強固で、優しく、何より決意に満ちていた。



 やがて、アンコールも終わり、割れんばかりの拍手が奏者たちに贈られる。長い拍手の後、私たちはどちらからともなく手を繋ぎ直し、余韻を噛み締めていた。


「そろそろ支配人達が挨拶に来る。準備をしようか」


 ほとんど同時に、扉を叩く音が響く。

 私は急いでオペラグローブとショールで肌を隠し、顔をベールで覆った。


「入っていい」


 ルイスの簡潔な許可により、支配人と指揮者が入室した。二人は床と平行に頭を垂れ、演奏会の成功に感謝を示した。


 ルイスによる紹介を受けて、彼らに会釈する。


「アリエル・ツー・フロストベルクにございます。現在はルイス殿下の庇護下で、王室の慣例と教養を学んでおります」


 儀礼的な挨拶を済ませると、私たちは、彼らの研鑽に心からの称賛を投げかけた。指揮者が気色ばんだ誇らしげな表情で演奏の意図を語り、ルイスが感想と質問を挟む。

 しばらくして、彼らは熱狂冷めやらぬ胸に手を当て、退室した。




 私たちは観覧室を出て、他の観客とは隔てられた専用の通路を進んでいた。ルイスはパトロンとして、貴族たちと交流する義務がある。


「君と素晴らしい演奏を聞けて良かった。どうしても不安なら、マヤと先に帰っていてもいい」


 彼は至って真剣に、私の顔色を窺っている。


 今更、そう言われても困る。

 私は、公爵令嬢として育った。貴族の文化にも精通している。年頃の王子を一人で社交の場に行かせるなど、私の矜持が許さない。


 私は優雅に、彼の腕に自ら手を絡めた。


「いいえ、”殿下”にお供いたしますわ」


「ありがとう。……君は、僕の伴走者として堂々としていればいい」


 彼が私の耳たぶに手を伸ばす。

 思わず身をすくめる。けれど、触れられた瞬間に全身の細胞が得たのは癒しと安息だった。

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