21話:影
ルイスは、傷ついた体のまま執務室の定位置に腰掛けた。
私はソファの上で、ショールを握りしめる。ワードローブを出る前に肩に掛けられた防寒具は、彼の愛の象徴だった。
「お願いですから、治療室に行ってください。」
彼は聞く耳を持たず、几帳面に並べられた文書を手に取る。純白の手袋には血が薄く滲み出していた。
「公務がまだ残っている。僕のことは後でいい。」
「私が今ここで怪我をすれば、治療室に連れて行ってくださいますか?」
彼が、はたと私を見据える。私はその視線を誘導するように、棚に飾られたガラスの花瓶を見つめた。
「……わかったよ。だが、鍵は両方とも持って行く。」
「えぇ、今日だけは逃げないとお約束いたしましたから。」
彼は、私を拘束するようにくるくるとブランケットを身体に巻き付けると、治療室へと向かった。
暖炉の火とブランケットの温もりが、離れていても彼の存在を近くに感じさせる。
彼が執務室を出て数分後、やにわに扉が開いた。 壮年の男性が黄金の瞳だけを動かして、部屋を見渡している。威厳に満ちた低い声が空気を震わせた。
「ルイスは不在か。」
ルイスと生き写しの眼光は、私が咄嗟に下ろしたベールを貫かんばかりに鋭い。その視線がトパーズの指輪に定まった時、彼は顔を手で覆った。
随伴して入室した老齢の紳士が、口を開く。
「陛下。この方は殿下の寵姫にございます。」
「下らん欺瞞はよせ。ジェラルド、お前ともあろう者が、ルイスの無謀な策に乗ったのか。」
ジェラルドは、王宮の壁よりも頑強な信念の元、胸に手を当てて敬礼した。
「いついかなる時もルイス殿下をお支えする、それが20年前に陛下より受けた命にございます。」
国王は、言葉を失ったように、嘆息を漏らした。
「下がり給え。彼女と二人で話をする。」
二人きりになった執務室で、国王は私の向かいのソファに腰を下ろした。
「公爵閣下は息災かな?」
「陛下……。私はもう公爵家とは関係ございません。」
私は観念してベールを上げた。
「我が王家は、君には返しきれない恩がある。だが、それも民には関係のないことだ。君をめぐってヴェルザード王国との関係が悪化することは、あってはならない。」
私とルイスが初めて出会った日の出来事。国王がその事を指しているのは明白だった。もっとも、私にとっては誇れるようなものではないのだけれど。
息子を思う気持ちと国王としての責務の間で、瞳が揺れている。彼は深く息を吸って、続けた。
「ルイスは、君の返還要求を既に何度も拒否している。『捜査』を口実に引き延ばそうと、いつかは限界が来る。」
思えば、王宮に連れられて一月弱経つ。祖国は本来、一刻も早く私の口を塞いでしまいたいはずだ。
私は、彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「ご安心ください。私は死罪から逃れるつもりはありません。」
国王が何かを伝えようとした、その時。ルイスが執務室へと戻ってきた。
私を庇うように肩に手が置かれる。
「ここは僕の執務室です。お引き取りを。」
国王は、彼と目で会話すると、静かに執務室を後にした。
錆びついた音を立てて扉が閉まる。
彼は私の表情を見るやいなや、激しく抱き寄せた。
「父上に何を吹き込まれた?」
答えに窮して俯く。沈黙したままの私の頭上から、低く甘い声が降り注いだ。
「君は何も気にせず、僕の隣にいればいい。」
彼は腕を緩めず、私を膝の上に乗せた。治療室に行く前まで嵌めていた手袋は、もうそこにはない。素肌の掌が、剥き出しの背中と腕のラインに触れる。布地を隔てることなく伝わる体温。消毒薬のツンとした匂いが強くなった。
やがて、私が落ち着いたことを確認すると、彼は立ち上がった。執務席には戻らず、書類とペン、分厚い書物を抱えると、それらをソファの前のローテーブルへと移した。
彼の左手が、子守唄のような穏やかなリズムで、私の頭をぽんぽんと叩く。反対側の手は書類に添えられている。
公務が残っていると言った彼は、私を傍に置きながら、職責を全うする道を選んだのだ。
ページを捲る音、ペンを走らせる音、暖炉の木炭がはぜる音。そのどれもが遠く、私は心臓の鼓動だけを聞いていた。
――夕食後。
私は、浴室の手前にある更衣室に立っていた。
足元では、濃紺のドレスが輪を作っている。再びシュミーズ一枚にされた私の頭を占めていたのは、羞恥ではなく孤独感だった。
「ソフィーを呼ぼうか?彼女の専門は給仕だが、他もそつなくこなす。」
「いえ、大丈夫です。」
更衣室から立ち去るルイスを見送り、肌着を脱いだ。
この日、私は生まれて初めて自分の手で髪を洗った。浴槽に身を沈めて考える。
ほんの少しだけ期待していたことがある。使命を明かせば、彼は力になってくれるのではないかと。
国王と話して、改めて理解した。ルイスには背負うものがある。今も大きなリスクを冒して私を匿っている。
私は一人だ。この手だけで使命を果たさなければならない。
微睡みの中、意識は記憶を旅し始めた。
――数ヶ月前、孤児院。
私は、当時の婚約者であるレオン王子の姿を遠目に眺めていた。
予定されていた視察を済ませた彼は、固い上着を脱ぎ捨て、庭を駆けている。少年のような屈託のない笑顔が眩しい。彼の眼前には、楽しそうに悲鳴を上げる子どもたち。鬼ごとでもしているのだろうか。
逃げ遅れた幼い少年と距離が詰まる。しかし、彼は手を伸ばさずに、寸前で態と転ぶ。子どもたちがその上に馬乗りになってはしゃいでいた。
レオンは昔から変わらない。王族らしい威厳とは無縁で、宮内で苦言を呈されることもある。だけど、私は嫌いではなかった。
私の膝の上では、遊び疲れた少女が寝息を立てている。柔らかな髪を撫でながら彼の名前を呼んだ。
「レオン様!そろそろ王宮に戻らねば、公務に差し支えます。」
「もう時間か。みんな!続きはまた今度だ!」
彼は、腰に纏わりつく子供たちに名残惜しそうに別れを告げた。
帰りの馬車の中は、革の匂いと共に土の匂いがしたことを覚えている。
「また服を汚されて。王妃様がご心配なさるのでは?」
「服よりも子どもたちの笑顔の方が大事だろう。母上も分かってくださる、はずだ。」
覇気のない声が、馬の足音にかき消される。私は、そんな彼の姿がおかしくて笑みを漏らした。
ふと、彼が真剣な眼差しを私に向ける。
「君も成人の儀を終えた。正式な祝言の日取りを」
私は”なんとなく”耳たぶに手を伸ばした。そこには、あるはずの宝石の感触がなかった。
「あ……!耳飾りを孤児院で落としてしまったようです。レオン様は先に王宮にお帰りになってください。」
馬車を止めて降りようとした私の腕を、彼が掴む。そして、同乗していた護衛兵に短く指示を出した。
「君たち、アリエルを頼む。」
「私は一人で大丈夫です!護衛を連れて戻っては、子どもたちも落ち着かないでしょうし。」
「ならば、せめてこれを。」
彼は小さな懐剣を私に握らせた。柄にはヴェルザード王家の家紋が刻まれている。武器というよりは、権威による御守りということだろう。
私は感謝を告げて、孤児院へと引き返した。
運命の歯車が回り始める。
二度と戻れない平和な日常。
いや、この国に平和など初めから存在していなかったのかもしれない。




