20話:裝束の時
真夜中のような濃紺のベルベットが光沢を放つ。胸元はデコルテが大きく開かれ、袖は肩の線に沿う短いパフスリーブ。極めつけに背中は肌着が覗かない際どい線まで開いていた。
普段の私には許されない、あまりに大胆な露出だった。
「これは——」
「大丈夫だ。君の肌は、僕以外の誰にも見せない」
彼はシナモンをまぶしたような魅惑的な声で言った。
私は疼きを抑えて、平静を装う。
「ではまずは、ペチコートから。衣装棚の下の引き出しにあるはずです」
彼は棚の最下段から、白いペチコートを取り出した。それは、いくつものフリルと、堅く糊付けされたギャザーが特徴の、張りを持つスカート下着だった。
「私の足元から、裾が床を滑るように通してください」
ルイスは、手袋をはめたまま丁寧にペチコートを広げ、私の足首から通し始めた。糊の質感が、薄いシュミーズ越しに肌に伝わる。
彼は、私の足を片方ずつ持ち上げるたびに、私と視線を交わした。やがて、ペチコートが腰の位置まで引き上げられ、ふわりと大きくスカートを広げた。
私は、ドレスを一瞥した。肩口は軽やかだが、胴部にはスティールボーン、即ち、鯨骨や鋼の芯材が縫い込まれている。 ドレス本体にコルセット機能を持たせたデザインだった。
「次は、ドレスです。肩口の裏地を支えていただけますか。コルセット状の胴部は、自力では通せません」
ルイスは言われるがままに、ドレスの肩口を、両側の手のひらで支えた。
私は冷たいスティールボーンが埋め込まれた胴部に、自ら首を通した。ドレスの重量が華奢な肩にぶら下がり、胸が押さえつけられる。
「次に……」
私は、喉の奥が詰まるのを感じながら続けた。
「背中側を合わせてください。……紐が必要です」
彼は、分厚いグログラインリボンを手に取った。それは、私の細い胴体を絞め上げるにはあまりに頑丈な紐だった。
「このデザインですと、紐は上から通すのがスムーズかと」
次いで、指示に従い、手際よく正確に紐をハトメに通し始めた。私の背骨に沿って、上から下まで規則正しく並んだ無数の金色のハトメ穴。その間をシュー、シューという布擦れの小さな音を立てながら、紐は蛇のように潜り抜けていく。
微かに湿った生暖かい風が、露わになった私のうなじと背中の上部に直接かかる。親密な距離感に、紅潮が背中にまで広がっていく。
彼に気づかれてしまうかもしれない。心配で背中が赤くなる。繰り返して、止まることがない。
けれど、彼の手には、迷いも無駄な力もなく、着付けに集中していた。
数分後、リボンがすべての穴に通され、両端がルイスの手に握られた。
「少し、締めるよ」
彼は優しく、紐を引いた。スティールボーンが私の肉を押し込む鈍い音が響く。
私の意志とは無関係に、体が彼の理想の形へと変えられていく感覚。腰が、お腹が、胸郭が、皮膚の下で動かされ、彼の手に委ねられている。想像だけで身体が痺れる。
「……んっ…………」
背徳感で息が乱れた瞬間、彼が口を開いた。
「息は苦しくないか、アリエル? 無理はしないで」
内臓を中心に向けて押し込む力よりも、彼の言葉が私の心臓を強く軋ませる。
「平気です、ルイス様」
私は、甘美な締め付けに耐えて、声を絞り出した。
「いい子だ」
ルイスは私の回答を待ってから、再び紐を引いた。極めて慎重に、徐々に絞り上げていく。
彼はシルエットの美しさと快適さを両立した絶妙な位置で、結び目を作った。
しかし、私の呼吸は急激に浅くなっていた。
ふと、鏡に映った自分の姿を目にした。異性に服を着せ付けられ、頬を上気させた無様な姿。私は肩を落として項垂れた。
その瞬間、彼が私の手を取って、鏡に背を向けるようにして身体を回転させた。
「君が知るのは、完成された姿だけでいい」
私には見るものを選ぶ自由さえ残されていない。
「……最後は、フリルの形を整えれば完成です」
ルイスは私の背中から手を離すと、絞り上げられたウエストから放射状に広がるスカートの裾へと視線を移した。濃紺のベルベットは、その下に着た硬いペチコートの白い骨組みによって立ち上がっている。
彼は正面に回り込み跪いた。それから、スカートの外観を飾る繊細なレースのフリルに触れた。フリルは、重厚なタフタのオーバースカートの端に縫い付けられている。彼の指が、その波を、つぶさに撫でて確認していく。彫刻家が作品の仕上げを施すかのごとく、一つの皺も逃すことはなかった。
私は、息も絶え絶えに立ち尽くしていた。けれど、彼の熱い視線と指先が、私のスカートの下から全身へと這い上がってくる。いたるところから、抗いがたい安堵が断続的に押し寄せる。
初めてお酒を飲んだ時のように足元が覚束ない。近くに掴まるものもない。私は目の前にあった彼の肩に両手を置いて、踏ん張っていた。
ようやく、彼の指がスカートから離れ、立ち上がった。その顔には、自らの手で完成させた美への陶酔が浮かんでいた。
「これで終わりでいいでしょうか?」
彼は、私のデコルテを見つめた。
「いいや、まだだ。君にはこれも着けてもらう」
ルイスは私が凝視に耐える姿を堪能すると、化粧棚の奥深くのガラスケースから、ジュエリーを取り出した。それは、濃紺のベルベットに映える、深紅のガーネットとダイヤモンドが施されたネックレスだった。
「ルイス様、このような高価な装飾品は、プライベートな空間では過剰です」
彼は私の抵抗を気にもとめず、ネックレスの留め金を私の首筋へと寄せた。
「僕のアリエルに、過剰なものなどない」
留め金が閉じられる音が、私の運命が完全に封じられたことを告げる。彼は、胸元を飾るガーネットの輝きを、金色の瞳に焼きつけた。
「――僕の色だ」
手を引かれて鏡の前に立たされる。
鏡の中には、見知らぬ女が立っていた。
濃紺のベルベットから細腕とデコルテを挑発的に見せつけ、ガーネットの鎖で首を繋がれた、ルイスの理想のドール。呼吸の度に軋むスティールボーンの甘い締め付けが、その現実を、骨身にまで染み渡らせる。
身に纏った彼の愛の重みに身体を支えきれず、硬い胸板に寄りかかった。
「僕はもう君の自由を奪いたくない。だから、逃げるのは諦めて……君の意思で、傍にいてくれないか?」
彼に奪われたい。
触れてほしい。
――『逃さない』と囁いてほしい。
だけど、あの子たちには、自分の意思で選べる選択肢なんてなかった。
私は歯を食いしばって小さく首を横に振った。
彼は愉悦にも似た笑みを浮かべると、私の背中に唇を押し当てた。深く、長く、命を分け与えるように。
背中から四肢の先まで情愛が広がった頃に、私はソファに座らされた。
彼はハイヒールを履かせ直し、鍵を閉めた。そして、2つの鍵を、胸の内ポケットとズボンのポケットにそれぞれ収めた。
手袋を嵌めたままの手。罰の最中、ついぞ素手で触れられることはなかった。
もっと早くに気づけていたなら、違う結末があったのだろうか。




