18話:渇望の時
遂に私の右足は自由を取り戻した。
足首を締め付けていた鎖の重みが消え、血潮が再び巡り始めるような開放感が、私を満たした。
迷う暇はない。私は、脱獄への最後の扉である左足のヒールへ鍵を差し込んだ。
大理石の床の感触を右足で確かめて、一瞬、息を詰める。静止した時の中で、指先に力をこめた。
しかし、希望は虚しく撥ね返された。
脱力した指から、鍵が滑り落ちる。床を転がる褪せた鈍色の金属音が心を切り刻んだ。
私は、今になってようやく、ルイスの余裕に満ちた態度の訳を理解した。だけど、それこそが彼の誤算だ。
舐めるな。片足が動けば十分だ。
私は片足を引きずり、クローゼットの壁に向かった。王宮内の地図を図書館で調べた際、ワードローブ周辺の間取りには、不自然な余白があったことを記憶している。
奥の壁に耳をピタリとつけた。木目の切れ目から微かな風の流れを感じた。
確かな予感。私は、祈るようにその場所を押した。すると、壁は二重扉となって内側に開き、薄暗い地下道へと続く隠し通路が現れた。
気圧差を埋め合わせる淀んだ空気の塊が、顔を打つ。それは、何十年も澱を溜めた井戸の底のように重く濃密だった。
私は、壁に手を伝いながら、汚濁の通路を懸命に歩く。片足ゆえ、歩みは遅々として進まない。灯りもなくどれ程の距離を進んだかも判然としない。
息が上がり、胸をかばって前傾姿勢になった頃に、絶望は訪れた。
幾度目かの曲がり角の先。通路はそこで唐突に終わり、垂直の段差が口を開けていた。その落差は王宮の最上階から地上までの距離にも匹敵する、無慈悲な崖だった。
下には、着地の衝撃を和らげるものなど何もない。石と土埃、そして崩れた岩屑だけ。
傍に放置されていたロープは、嘲笑うように触れた途端にボロリと千切れた。
恐らく、この隠し通路は建築の途中で打ち捨てられたのだろう。有事の際に使える道ではない。王宮には他にも抜け道があるはずだ――そう、自分に言い聞かせたところで、引き返す選択肢など取るべくもない。
私は、崖の下を覗き込んだ。
片足で着地すれば大怪我をするのは、火を見るより明らかだ。しかし、上半身さえ無事なら、這って逃げられる。
残された時間は、私の息の熱と共に溶けていく。
逡巡は脱獄計画の失敗に直結する。
恐怖を決意で抑え込み、身体を前へ出した。
重力に身を任せようとした、まさにその瞬間。
私は、崖とは反対方向に強い力で引き寄せられた。
ルイスの片腕が、私の腰に代えがたい珠を囲い込むようにきつく回されている。彼は逆の手で、胸の内ポケットから銀の鍵を取り出した。それから、”枷”に視線を注いだ。
「僕のアリエルなら、片足でもやりかねないと思っていたよ」
彼は、三度目の計画の破綻を告げた。
私の意識が、遠い場所で、粉々に砕け散った残骸を見つめている。こぼれ落ちた言葉は誰のものだったのだろうか。
「私を、騙したのですね……」
彼は、私と同じ、あるいは、私よりも悲痛な面持ちで答えた。
「……まるで僕を信じていたかのような口ぶりだね。僕から目を逸らさなければ、鍵が二つあることには容易に気づけたはずだ」
その通りだった。私は、罰の瞬間、つまり、鍵を施錠する決定的な瞬間から目を背けてきた。彼の支配を受容してしまうような気がして、その行為を直視することができなかった。
冷たい腕が、ドレス越しに下腹部の傷跡に食い込む。軍の施設で垣間見た彼の苛烈な力。弱い私とはかけ離れた力。私は抵抗の意思を込めて頭上に迫った黄金の瞳を睨みつけた。
それが最後の一押しとなって、ルイスの顔から、表情というものが完全に抜け落ちた。
「君は、今この瞬間だって僕を見ていない! ――その瞳の先には…………」
「あなたには関係ありません!」
私は、全身で彼を弾き返して、拒絶の言葉を叩きつけた。その時、長年の湿気で朽ちた足元の石床が、突然砂のように崩落した。
地面が消失する。
私たちはバランスを崩し、真っ逆さまに崖に向かって落下し始めた。
凄絶な衝撃音が地下道を震わせる。
しかし、私の身体にはかすり傷さえなかった。
温かな感触を感じて瞼を開く。まず視界に入ったのは、喉仏と首筋。ルイスが私の下で、私を抱きしめていた。彼は受け身を取って衝撃を分散させずに、意図して背中で全てを受け止めたようだった。
「ルイス様!」
彼は、私の叫び声を聞くと、肺の空気を絞り出すような長い息を吐き出した。次いで、私の頭から腰までをゆっくりと愛おしげに撫でた。
「よかった……。怪我はないみたいだね。さぁ、僕たちの愛の巣に帰ろうか」
上体を起こそうとした彼の背中の骨が軋む。彼はわずかに顔を歪ませたが、すぐに完璧な平静を装った。
「いや。折角だから、もう少しこのままでもいいかい?」
私はルイスの無謀な行動に打ちのめされていた。上から降りようとするけれど、大きな手によって、腕の中に繋ぎ止められる。
私は、彼の肩に顔を埋めたまま、震える声で問いかけた。
「美術館でした”儀式”の話を覚えていらっしゃいますか?」
「ああ。”雷の国”と同じ力を手にすれば、我が国の武力は彼の国に比肩することになる」
「そのための”儀式”なら、子供でも命をかけるべきなんでしょうか……?」
孤児院の床下に沈む”儀式”。口元を歪ませた司教。閃光で焼け焦げた真っ黒な肉塊。その正体は――。
彼が、乱れた髪の流れを整える。
「難しい問いだ。『違う』と、一言で済ませていい問題ではないと思う」
続きを聞くのが怖い。遮ってしまいたい。だけど、微かに滲む鉄の匂いを信じたい。
私は、緊張で固くなった身体を厚い胸板に委ねた。
「だが、先に命をかけるのは僕であるべきだ。それだけは間違いようもない」
それは、民の命を背負う統治者としての言葉だった。
そうだ。本当は分かっていた。私は、彼を嫌いになる理由が欲しくて、都合よく『儀式を肯定した』と曲解していただけだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ルイス様」
砂埃で汚れるのも厭わず、両手を彼の身体に回した。
温かな体温が、太陽よりも業火よりも激しく私の奥底を燃やした。力強い鼓動が、断頭台で停止するはずだった振り子を揺らした。
湿気を含んだ天井から、一滴の雫が落ちる。静寂の中、雫が大地で弾ける音を聞いた。
それが小さな水たまりに成長するような長い時間、私たちはお互いを求めあった。
やがて、ルイスは私を抱いたまま泰然として立ち上がった。そして、隠し通路を出て、王宮へと引き返した。彼の足取りは心做しか重たい。
「あの……。ルイス様、靴の鍵を貸してください。今日だけは逃げないと誓いますから……」
私は、彼の服を握りしめて言った。
「幽玄な月の裏側に触れるのは僕の特権だ。塵芥と交わることはない」
傷などまるで存在しないかのように、彼は痛みを押し殺して、前を向いたまま答えた。
やっぱり彼の言葉は意味不明だ。とりあえずろしてはくれないらしい。私は諦めて、重心を後ろに寄せた。
数分後、私は三つ目の罰を科されることになる。
これまでとは異次元の罰。彼の狂愛は留まるところを知らない。




