第64話 お姫様へのお礼と、よぎった可能性
「お待たせしました。こちら、ティラミスでございます」
店員が白い皿をそっと置くと、そそくさと立ち去った。忙しいのだろう。
薄く粉砂糖が積もっている四角いティラミスを前に、彩花が「あっ」と口を開いた。
「それ、草薙君も好きなの?」
「俺は食べたことないよ」
翔は自分の前に置かれた皿を、彩花のほうへ押しやった。
「双葉のおかげで頑張れたし、立ち直れたからさ。ささやかだけど、そのお礼」
「えっ? い、いや、私も助かってたし、そんなのいいよっ」
「でも、俺はもうお腹いっぱいだから。食べてくれると嬉しい」
「えー……」
彩花はティラミスと翔の顔を順に見比べ、困ったように眉尻を下げた。
それでも翔が引く様子を見せないと、彼女は肩をすくめ、指先でそっとつまむようにスプーンを手に取った。
「……じゃあ、今回はいただくね」
「サンキュー。なんかごめんな、押し付ける感じになっちゃって」
「ううん、謝る必要はないよ。めっちゃ嬉しいし……でも、草薙君って、変なところで強引だよね」
彩花がくるくるとスプーンを回しながら苦笑する。
「前にカフェを奢ってくれたときもそうだし、ケーキをくれたときもさ」
「べ、別にいいだろ。ただの、自己満だし」
「ふふ、そうだね」
彩花が瞳を細め、ティラミスの角をスプーンですくった。
ティラミスのかけらが彩花の口の中に消えると、目元がほんのりやわらぐ。
「……美味しい」
思わず漏れたようなつぶやきだった。翔の胸の中に温かいものが広がる。
続けて二口、三口と口に運んだところで、彩花がふと顔を上げる。
「草薙君も、一口食べてみなよ」
無造作にお皿をこちらに向ける。が——
「あっ」
小さく声を漏らすと、彩花は慌てたようにお皿を半回転させた。
崩れかけていた面が見えなくなり、代わりに球形を保った面が姿を見せた。
「さっきも言ったけど、俺はお腹いっぱい——」
「自分だけ逃げるのは、ナシだよ」
彩花がカトラリーから新たなスプーンを取り出し、お皿にそっと添えた。
ご丁寧に、右利きの翔がすぐに食べられるような向きで。
「……そっちこそ、強引だな」
「私の気持ち、わかってくれた?」
返事の代わりに、端を少しだけすくって口に運ぶ。甘さが静かに広がった。
「……これが美味いことはわかった」
「まあ、良しとしよう」
彩花が再びティラミスにスプーンを伸ばしかけて、思い出したように指を立てた。
「それと、次は私の番だからね」
「えっ?」
「草薙君に何かしてもらったら、黙って奢られてもらうから」
「いや」
俺はいいよ——。そう言いかけて、翔は飲み込んだ。けれど、素直にうなずくことはできなくて。
「……機会があったらな」
翔が顔を背けると、返事の代わりに、横顔にじっとりした眼差しが刺さった。
やがて、彩花がふっと息を吐く気配とともに圧が解ける。思わず、肩から力が抜けた。
けれど、口の中に広がった甘さは、なかなか消えてくれなかった。
◇ ◇ ◇
——カラン。
美容院の扉を開けると、軽やかな鈴の音と、暖色の照明と木の香りが翔を出迎えた。
「いらっしゃい」
すぐに奥のスタッフルームが開いて、女性の美容師が姿を見せた。希だ。
「ちょっと早いけど、始めちゃう?」
「はい。よろしくお願いします」
希に案内され、椅子へ腰掛ける。
他の客は、主婦らしき女性が二人だけだ。どちらも美容師と話しているが、背後で流れているジャズを遮るほどではない。
「髪型はどうする? 前回と同じ感じ?」
「それでお願いします」
「了解」
希がテキパキと道具を整える。
「じゃあ、動かないでねー」
耳のそばで、バリカンがブーッと震えた。
腰の奥がぞわぞわして、毎回くすぐったさに似た感覚が走るのは自分だけだろうか、と翔は意識を逸らした。
(それにしても、双葉のことは聞いてこないな……)
前後予約の件、絶対に突っ込まれると思っていたのに、そんなそぶりはない。
フランクな接客の中でも、店員としての線引きは心がけているということなのだろう。——そう感心しかけた、そのときだった。
「そういえばさ、草薙君」
「なんですか?」
「彩花ちゃんと前後で予約してるのって、偶然?」
翔は言葉に詰まった。鏡越しに希を見ると、バリカンを置いた彼女の視線がまっすぐこちらに向けられていた。その口元が、緩やかな弧を描く。
……この緩急の使い手は、琴葉だけではなかったようだ。
「やっぱり。ほんとに仲良いんだね」
「……そうですね」
親密なのは間違いないと思う。前に彩花も、ただの利害関係じゃないと言ってくれていた。
ただ、友達なのかと言われると、否定も肯定もできなかった。小骨が喉に刺さったような、微かな違和感があるのだ。
「にしても、今日は高校生が多いんだよね」
気を遣ってくれたのか、希が口調と話題をガラリと変える。
思ったよりも手前だったが、やはり彼女なりの線引きはあるようだ。
「俺たちの他にも、予約があるんですか?」
「多分、二人と同じ高校の女の子だよ。前に制服で来てたからね」
「よくあるんですか? そういうの」
「ほとんどないね。来てくれるだけならともかく、何人もから指名されるのは、なかなかのミラクルだと思うよ」
希はニヤリと笑った。わずかに小鼻が膨らんでいる。
「俺たちと同じ、一年生ですか?」
「そうだった気がするよ。前に草薙君が来た頃と同じ時期に、初めて来てくれたかな。物静かな子だったから、あんまりしゃべらなかったけどね」
ハサミの音が一定のリズムで鳴る中、翔は思案げに眉を寄せた。
(物静かで、俺と同じくらいの時期に初めて? いや、まさかな……)
翔君が思い浮かべた人物とは、果たして……?




