第35話 名前呼びと、偶然の遭遇
「ふんふーん」
袋を胸に抱いたまま、彩花が鼻歌を口ずさんでいる。
単純に服が買えたから喜んでいるのだろうが、自分が選んだ一着を迷わず手にしてくれたことを意識すると、翔のほうがむずがゆくなる。
「……ほら、双葉」
ややぶっきらぼうに、翔は手を差し出した。
「なに?」
「荷物、持つから」
「えっ、いいよ別に」
彩花はわずかに体を逸らして、袋を翔から遠ざけた。
「荷物持ちのために来てもらったわけじゃないし」
「見栄えが悪いだろ。それに、父さんに怒られるから」
間違っても体に触れてしまわないように、持ち手をそっとつまむ。
「強引だなぁ」
彩花は口元を緩めて手を離した。
「じゃあ、お願いするね。ありがと」
「おう」
お礼を言う表情は柔らかい。
お節介だとは思われていなさそうだ、と翔は肩の力を抜いた。
「ジェントルマン草薙君は、お父さんの花婿修行の賜物だったんだね」
「その名称だと、父さんも当てはまるけどな」
「うるさいなぁ」
彩花が頬をふくらませてから、ふっと黙り込んだ。
理屈っぽい男は嫌われる——。
どこかで聞いた言葉が頭をよぎり、翔の動悸が再び騒がしくなったころ、彼女はぽつりとつぶやいた。
「……ジェントルマン翔君」
「……えっ?」
翔は思わず足を止め、彩花を見つめた。
「だ、だって、これならお父さんは候補から外れるでしょ?」
「いや、まあ、そうだけど……」
中学以降は、異性は苗字で呼ぶのが普通になっていた。
高校でも、名前で呼び合っているのは香澄ともう一人だけであるため、同級生の女の子から名前で呼ばれたのは、久しぶりだ。
「別に名前呼びくらい、どうってことないって。というか、そこでつまずいているようじゃ、まだまだ道のりは長いぞ?」
彩花が腰に手を当て、ニヤリと笑う。
その余裕そうな表情に、なぜか胸がざわついた。
「じゃあ、そっちは平気なのか? ——彩花」
「っ……!」
彩花は息を詰まらせ、目を見開いた。すぐに顔を背けるが、その耳の先はほんのり染まっている。
自分の頬も熱を帯びるのがわかり、翔は咳払いをした。
「……ごめん。調子乗った」
「い、いや、こっちこそ、変な絡みしてごめん」
短い沈黙が落ちる。人の流れのざわめきだけが、二人の間を通り抜けた。
「……そういえばさ。ちょうどお昼だけど、草薙君は昼食どうするの?」
「あぁ、俺は——」
「あれ、翔と双葉?」
答えかけたところで、前方から聞き慣れた声が届いた。
こちらを見て目を丸くしているのは、女の子を連れた潤だった。
「おう。潤と琴葉か」
「翔、久しぶり」
軽い調子で手を挙げた女の子は、潤の彼女である天羽琴葉。潤の所属している野球部のマネージャーだ。
「もしかして、部活の買い出しか?」
部活のポロシャツを着ている二人は、いくつかのビニール袋を提げていた。
潤が顔をしかめながらうなずく。
「そうなんだよ。じゃんけんで負けてさー。こっちは遊ぶって言ってんのに」
「男なら勝てばいいって挑発されてムキになったのは、どこの誰かな?」
「うっ……」
琴葉の鋭い指摘に、潤が言葉を詰まらせてそっぽを向く。
野球部のみんなが薄情なのではなく、単純に男子同士のノリだろう。
「翔と双葉さんって、習い事が一緒なんだっけ?」
「まあな。今も習い事が終わって、時間が空いたから買い物してたんだ」
琴葉に向かって、手に持っていた袋を掲げてみせる。
「ふむ……結果的とはいえ、ナイスアシストだったわけだ」
「別にそういうのじゃないって」
「ほんとかな?」
琴葉は口角を上げ、そのまま彩花に微笑みかけた。
「ごめんね、いきなり。潤の彼女の天羽琴葉です」
「あっ、緑川君の彼女さんだったんだ。双葉彩花です。はじめまして」
「うん、よろしくね。それにしても——」
琴葉がずいっと彩花との距離を縮める。
「さすがお姫様っていうか、近くで見るとますますかわいいねぇ」
「え、あの、えっと……?」
彩花が困惑したように目を泳がせる。
潤が琴葉の肩を掴み、グイッと後ろに引いた。
「琴葉、落ち着け。双葉が怖がってるじゃねーか」
「あっ、ごめんごめん。やっと間近で見れたから、つい興奮しちゃって」
「は、はぁ……」
変態じみたことをサラリと口走る琴葉に、彩花はすっかりペースを乱されているようだ。
眉をハの字にして、助けを求めるような眼差しを向けてくる。
「双葉、大丈夫だよ。琴葉はかわいいもの好きな、ただの変わったやつだから」
「ちょっと翔、その言い方はひどくない?」
「数秒前の自分の行動を振り返ってみろよ。否定できるか?」
「できるわけないじゃん。何言ってんの」
「お前だよ」
軽口を交わしていると、彩花が驚いたように二人の顔を見比べた。
「双葉、どうした?」
「あっ、ううん、なんでもない——じゃあ、私は帰ろうかな。このあと、緑川君と遊ぶんでしょ? 袋、持ってくれてありがと」
彩花は慌てたように首を振ると、翔の持つ袋へ手を伸ばしてきた。
「あぁ、うん……」
翔は曖昧に返事をした。
(別に、ここで双葉が帰ろうとするのは普通だよな……)
買い物は済ませているし、翔と潤が落ち合ったのなら、彩花がこの場に留まる理由はない。
それなのに、笑顔がどこか無理をしているように感じられて、袋を渡せなかった。
「ちょっと草薙君、意地悪しないで——」
「えー、偶然とはいえせっかく会ったんだし、四人でランチでもしない?」
彩花がやや強引に袋の持ち手を掴んだとき、琴葉の声が割り込んできた。
「……えっ?」
彩花は手を止め、琴葉を見てパチパチと瞬きをした。
「潤と翔は元々、一緒に食べる予定だったんでしょ? なら、四人でファミレスとか行こうよ」
「おっ、いいじゃん。双葉がいいなら、そうしよーぜ」
潤もすぐさま賛同した。
「えっ、でも……」
彩花は三人の顔を順に見て、最後に翔で視線を止めた。
ここで帰してはいけない気がして、翔は口を開いた。
「真美さ——お母さんに確認してみたらどうだ? 潤も言った通り、双葉がよければだけどさ」
「私はいいんだけど……本当にいいの? 三人は元々仲良しなんでしょ?」
「私はむしろ、双葉さんと話してみたいんだよね。いろいろ聞いてみたいこともあるし」
琴葉が彩花に顔を向けながら、一瞬だけ翔を見た。
彩花は小さく息を呑むと、袋の持ち手から手を離し、そそくさと携帯を取り出した。
「ご期待には応えられないと思うけど……じゃあ、ちょっと聞いてみるね」
彩花がゆっくりとその場を離れ、スマホを耳に当てる。時折、こちらをちらちらと見てくるのが視界の端に入った。
琴葉が腕を組み、イタズラっぽく瞳を細める。
「いやいや、翔も隅に置けないねぇ」
「だから、そういうのじゃないって」
ため息が漏れた。琴葉の人柄は嫌いではない、どころか好ましいが、年上ぶる割にいたずら好きで、ペースを握られると少し疲れる。
(潤はあんまり深く考えないから、相性がいいんだろうな)
「翔。なんかバカにしてねーか?」
「そんなわけないだろ」
友人の勘の良さに肝を冷やしていると、通話を終えてこちらに戻ってくる彩花の姿が目に入った。
その足取りは、先程よりも少しだけ軽かった。