第145話 クラスメイトの変化
「翔君、髪伸びたよね」
駅へと向かう道すがら、彩花が翔の前髪を見つめながらつぶやいた。
風が吹いて、翔の髪がふわりと揺れる。
「伸びるのも早いけど、何より毛量がめっちゃ増えるのが嫌なんだよな」
特に夏場は熱がこもるので、本当に勘弁してほしい。
黒色は紫外線を反射する反面、熱を溜め込む性質があるらしいし。
「もっさりしてた翔君、ちょっと懐かしいかも」
「お望みなら伸ばし続けようか?」
「ダメです。翔君は私と前後で予約するって相場が決まってるんだから」
「別にいいけど……というか、彩花も美容院に行く間隔って同じくらいなのか?」
「今回は前髪だけね。全体カットは、どれくらい伸ばしたいかにもよるけど、数ヶ月に一回かな」
「なるほどな」
「じゃあ、今日の夜にでもサイト確認して、候補の日程送るね」
「よろしく」
ずいぶん前のめりだ。前後で予約するというのは、彩花が出したアイデアだが、なかなか気に入っているらしい。
内心で微笑ましく思いながら、翔は短く応じた。
「あと、夏休み明けまでに、女の子の服装についてもう少し勉強しておくように」
「それはプロデューサーからの指令ですか?」
「そうだよ。現代文の勉強なんてやってる場合じゃないからね」
「本末転倒だろ」
勉強と筋トレがプロデュースの根幹だったはずなのに、まさかプロデューサーから勉強を後回しにする指令が出るとは。
だが、翔はこれまで数え切れないほどのアドバイスを彩花から受けている。
ならば、こちらもある程度は勉強するのがせめてもの誠意かもしれない。
「でも、確かに少しくらいは勉強しておくべきだよな」
「えっ?」
彩花がパチパチと目を瞬かせた。
てっきり冗談で返されると思っていたのだろう。
だが、彼女はすぐに首を横に振った。
「冗談だって。無理して勉強しなくていいよ。翔君の直感で選んでくれればいいから」
「直感って言われてもな。俺のセンスなんてたかが知れてるだろ」
「ちょっと知識をかじったくらいの意見なら、私が自分で選んでも変わらないでしょ。それより、その……前みたいにその場で見て、似合うかどうか判断してほしいっていうか」
後半になるにつれて、彩花の声がわずかに小さくなる。
そっぽを向いたその耳の先が、ほんのりと赤く染まっていた。
「っ……」
不意に、胸の奥が小さく跳ねた。
翔は無意識に咳払いをして、視線を泳がせた。
「……彩花がいいなら、それでいいけど」
「うん、それでいい……というか、それでお願いします」
「了解。けど、責任は取らないからな」
大事なことなので、念を押しておく。
彩花がそんなことを言い出さないことくらい、わかっているが。
「またそうやって弱気になる……ヘタレ復活かな?」
「勘弁してくれ」
◇ ◇ ◇
教室に入ると、絵の具とガムテープの匂いが鼻を突いた。
文化祭準備の資材がそこかしこに積み上げられている。
夏休み最終日とはいえ、準備はまだ終わっていない。
むしろ、ここからがラストスパートだ。
翔や彩花などの帰宅部組は特に、放課後の準備に追われることになるだろう。
(ん……?)
翔はふと教室全体の空気に、かすかな変化を感じた。
男子からの視線の鋭さが、以前に比べて明らかに減っている気がする。
代わりに、女子のほうからちらちらと視線が向けられていた。
敵意ではない。
どちらかというと、好奇心に近い——キラキラした瞳だ。
(……なんか、雰囲気変わったな)
翔が首を傾げていると、不意に美波がすっと横に並んだ。
「おはよ、草薙君」
「おう、おはよう」
「周りからの視線の変化、感じる?」
「……なんとなくは」
美波がこう尋ねてくるということは、やはり気のせいではないようだ。
「ペンキ事件のとき、彩花のために真っ先に駆けつけて、堂々と庇ったでしょ。あれで、女子からの評価がだいぶ上がったんだよ。男子も、一目置いたってやつが多いみたいだね」
美波は断定気味に、けれどどこか楽しそうに言った。
「あの状況で、ああいう行動を取れる男子って、案外いないからさ」
「あれは、誰でもそうするだろ」
「誰でもはしないよ。だから株が上がったの」
美波が肩をすくめて、翔をまっすぐ見た。
「優良物件になるかもと思ってるうちに、本当にそうなっちゃったね。——私も翔って呼ぼうかな」
「はっ?」
唐突な提案に、翔が面食らって声を裏返らせた、そのときだった。
「えっ……!?」
すぐそばから、弾かれたような声が上がった。
振り返ると、彩花が目を見開き、肩をビクッと跳ねさせていた。
どうやら会話が聞こえていたらしい。
「ん? 彩花、どうしたの?」
美波がわざとらしく小首を傾げ、ニヤニヤと口角を上げる。
「あっ……い、いや、なんでもないっ!」
彩花はハッとしたように口元を手で覆うと、みるみるうちに耳まで赤く染めていった。
「ふふ、冗談だよ」
「こ、子供扱いしないで」
そっぽを向いてしまった彩花の頭を、美波が楽しげにポンポンと撫でる。
彩花は唇を尖らせながらも、大人しく撫でられるがままになっていた。
(吉良もただの冗談だろうし……とりあえず、眼福な光景が見れただけでよしとするか)
翔は戯れ合う二人と胸のざわめきから、そっと目を逸らした。
すると、教室の隅で段ボールを組み立てている潤の姿が目に入った。
珍しく、手を動かしながら真剣な表情をしている。
「おう、潤。珍しいな、ちゃんと作業してるのか」
「……今日で夏休みは終わらない。明日からも部活と文化祭準備だけの最高の日々が続くはずだ」
ただの現実逃避だった。
「残念だけど、明日から普通に授業あるからな」
「うるさい。事実は俺の耳には届かない」
潤が耳を塞ぐ仕草をした。
(事実って自分で言っちゃってるけどな)
翔は呆れつつも口元を緩めた。
◇ ◇ ◇
作業が一段落して、翔は次の指示を仰ごうと宮城の姿を探した。
しかし、彼女は忙しそうにあちこち動き回っていて、声をかけるタイミングがなかった。
ふと、教室の隅で手が空いていそうな菜々子の姿が目に入った。
——けど、最近ずっと避けられてるしな。
翔は少し逡巡した。
菜々子とは文化祭のプチ打ち上げとしてクラスで遊びに行ったときから、微妙な距離感が続いている。
わざわざ声をかけて気まずい思いをするのも憚られた——が。
「草薙君」
意外なことに、菜々子のほうから声をかけてきた。
「もしかして今、手が空いてたりしますか?」
「あ、ああ。そうだけど」
翔は少し面食らいながら答えた。
距離感が微妙になる前も、こうして菜々子から声をかけてくることは少なかった。
「こっちの作業、人手が足りなくて。手伝ってもらえませんか?」
「いいよ」
翔はうなずきながら、どこか違和感を覚えていた。
以前の菜々子なら、翔と話すときは決まってオドオドしたり、言葉に詰まったりしていた。
苦手意識を持たれているのか、などと思ったこともあったが……。
それが今は、まるで別人のように落ち着いている。
菜々子もまた、他の女子と同じように、少しは見直してくれたのだろうか。
ただ、それは話しかけてくる理由にはなっても、オドオドしなくなった理由にはならない。
(単純に、コミュニケーション能力が上がっただけか……?)
翔は首を傾げながら、菜々子の後についていった。
「あの、草薙君」
作業場所に向かう途中、菜々子がふと足を止めた。
「どうした?」
「双葉さんと一緒にできる作業がいいですか?」
翔は一瞬、言葉の意味を測りかねた。
「……いや、それは気にしなくていいよ。人手が必要な作業をやるだけだから」
「わかりました」
菜々子は小さく笑って、再び歩き出した。
何なのだろう——。
翔はじっとその背中を見つめた。
香澄と付き合っていたときも含めて、菜々子からそういう揶揄われ方をした記憶はない。
彩花と付き合っているかどうか聞かれたことはあるが、あれも揶揄いではなかった。
やはり、何かしら菜々子の中で心境の変化があったのかもしれない。
だが、それがどういうものなのかはわからなかった。
◇ ◇ ◇
「ちょっと重いね」
「男子に手伝ってもらう?」
菜々子から指示された作業を終え、翔が次の資材を探していると、別の女子生徒たちが大きな段ボール箱を前にして手こずっているのが見えた。
どうやら資材部屋に運びたいようだが、二人掛かりでも持ち上げるのに苦労しているらしい。
「よかったら手伝おうか」
翔は歩み寄って声をかけると、二人は驚いたように目を丸くした。
「えっ、資材部屋なんだけど……いいの?」
「ああ。ちょうどそっちに行くところだったから」
翔が段ボール箱を抱え上げ、そのまま資材部屋まで運んでやると、彼女たちはぱっと表情を明るくした。
「ありがと! 草薙君って、手伝い方とかが自然だよね」
「うんうん。押し付けがましくないっていうか」
「わかる。ペンキがかかっちゃったときの双葉さんへのフォローとか、ちょっとキュンキュンしちゃったもん」
そんな好意的な言葉を次々と向けられ、翔は少し面食らった。
やはり、以前とは少しだけ接し方が変わった気がする。
恋愛的な好意を持たれた、などと自惚れるつもりはないが、こうして真っ直ぐに認められて悪い気はしない。
「いや、そんな大層なことはしてないから」
照れ隠しに短く返して、教室に戻ると、彩花がスッと近寄ってきた。
「なんか、デレデレしてたね」
「別に、デレデレなんてしてないだろ」
「ふーん? なんか嬉しそうだったけど」
彩花がじっとりとした眼差しを向けてくる。
揶揄われること自体は日常茶飯事だし、そのこと自体は嫌なわけじゃない。
それでも、なぜか「嬉しそうだった」と彩花に解釈されて、少しだけ胸がざわついた。
「……ペンキがついたときの彩花へのフォローで、ちょっとキュンキュンしたって言われただけだよ」
「えっ……?」
わざと言われたことをそのまま伝えると、彩花はぎしっと固まった。
瞬く間に、耳の先から頬にかけてが茹でダコのように真っ赤に染め上がっていく。
「えっ、あ、そ、それは……っ」
彩花はあわあわと視線を泳がせ、口元を手で覆った。
余裕が崩れ去ったその反応を目の当たりにして、翔自身の顔にも一気に熱が集まっていく。
(……俺、なに言ってんだ)
客観的に考えれば、まるで自分の行動を自慢しているかのようなセリフだった。
言わなきゃよかったと猛烈な後悔に襲われながら、翔はたまらずその場を離れ、すぐに着手できる作業はないかと辺りを見回した。




