夢か現か
一般的に言うと、僕と夏実は「幼馴染」という間柄だ。
僕の家と夏実の家は、道路を挟んですぐ斜向かいに建っている。僕の両親と夏実の両親はどちらも、結婚して子供が出来たと同時に、建売の新居を購入した。だから僕と夏実は、物心つく前から顔を合わせていたことになる。
子供が同い年で、気も合ったらしい僕らの母親は、あっという間に仲良くなって、なにかというと子供を引き連れ、それぞれの家や公園でお喋りをしたり、食事に行ったり、買い物に出かけたりした。
もちろん拒否権のない僕ら子供は、そのたびほぼ強制的に「さあ一緒に遊びなさいね」という状況に置かれて、二人で時間を過ごさざるを得なかった。
幼稚園も小学校も中学校も同じ。なんの因果か、示し合わせたわけでもないのに、高校まで同じになった。互いに小学校の低学年を過ぎてからは、べったりくっついて遊ぶ、ということはなくなったけれど、今も視界の端に入ればすぐに相手が認識できるくらいには、見慣れた存在となっている。
普通、きっと、こういうのを「幼馴染」と呼ぶんだろう。それは判っている。判っているがしかし、僕はそんなこと、絶対に認めたりしない。昔から、友人たちから「あいつお前の幼馴染なんだろ」と問われても、断固として否定してきた。
夏実は、ご近所さんで、同級生で、子供の頃からの知り合い。
ただ、それだけである。
「おはよー、ゴロちゃん!」
爽やかな初夏の青空を突き破るような高い声と共に、背中に衝撃が来て、僕はつんのめるようにして前方によろけた。
それが誰かということは振り向かなくても判るが、無視しても余計にうるさいだけなので、渋々ながら振り返る。いつも思うが、どうしてこいつは毎日毎日、鬱陶しいほどに元気なのだろう。
「あのさ、何度も言うけど、そういう無駄に目立つこと、やめてくれない?」
「ゴロちゃんはいつも空気かってくらい目立たないから、ちょうどいいじゃない。存在薄すぎて、あたしが近くにいないと、誰の目にも見えないかもしれないよ?」
「大きなお世話だ」
まんざら冗談にもならないことを言う夏実に、僕は仏頂面で返した。僕が目立たず存在感が薄いのは本当だが、夏実がいると逆に目立ちすぎて居たたまれないくらいなのだ。
なにしろ、夏実は背が高い。小学校くらいまでは僕とそう変わらなかった身長は、中学に入ると同時にアスパラガスのようににょきにょき伸びて、高校一年になった今じゃもう、確実に百七十センチ以上はある。中学三年の終わりにようやく百六十を越えて思わず嬉し涙を零した、という僕の横に来られると、それだけで衆目を浴びてしまうのだ。
夏実はその長身を活かし、小学生の時からバレー部で活躍していた。有能なアタッカーなのだそうで、彼女の強烈なスパイクは大変な威力があるという。この学校を選んだのもバレーの強豪校だったかららしいが、運動全般に疎い僕はそんなことはまったく知らず、入学式の日、同じ学校の制服を着て家から出てくる夏実と鉢合わせし、心底仰天したものだった。
「今日、朝練は?」
「試験前だから休み」
「あ、そうか……え、じゃあ、これからずっと僕のあとをついてくるつもりか?」
「人をストーカーみたいに言わないで。しょうがないでしょ、行き先が同じなんだから」
「せめて、離れて歩いてくれないかな」
「もう、冷たいんだから、ゴロちゃんは。あたしたち、幼馴染じゃない」
「違う。単なる昔からの知り合い。その呼び方もやめて」
以前からずっとそう依頼しているのに、夏実はまったく聞き入れてくれる様子がない。僕の「吾朗」という単純な名は、彼女にかかると、「ゴロちゃん」「ゴロくん」「ゴロっち」「ゴロ」とバリエーション豊かに変化する。しかしあくまでも軽いので、最後のなんて、飼い犬を呼んでいるみたいだった。
「今さら、他にどう呼んでいいのかわかんない。ゴロちゃんも昔みたいに『ナッチ』って呼べばいいじゃん。あたしは別に恥ずかしくないよ」
「僕は死ぬほど恥ずかしいんだ」
夏実のことを、ナッチ、などと呼んでいたのは小学生までのことだ。中学からは、「上原」という余所余所しいものに変わり、それも必要最小限以外、滅多に僕の口からは出なくなった。
僕がどれだけ素っ気ない対応をしても、夏実は屁でもないらしい。姉が弟の反抗期を面白がるように、けたけた笑うだけである。昔から、大雑把でガサツな性格の女だった。
「だからそのくだらない『幼馴染幻想』は、いい加減に捨てなさいってば」
「くだらなくない」
「ここはあれでしょ、小柄で、可愛くて、ちょっとツンデレで、髪をツインテールにした女の子が、『吾朗君なんてもう、知らないんだからっ!』って唇を突き出して拗ねるシチュエーションなんでしょ」
「その声はやめろうっ!」
僕は急所を直撃されたように呻いて、心臓部に手を当てた。
夏実は背が高くて、肌の色も浅黒くて、髪の毛なんて男に間違われるほど短く、性格も至ってサバサバした、およそ女らしさとか可愛げとかとはかけ離れた外見と中身をしているくせに、どういうわけか、声だけは愛らしいのである。
高くて、どこか鼻にかかるような甘えた響きがある。一言で言って、アニメ声。しかも、ヒロインを張れるくらいの女版イケボ。その上、僕をからかうためだけに、さんざん磨き抜いた演技力までがある。将来は声優になれ、と僕は真剣に夏実の進路について提案したが、興味ないねと一蹴された。
「ゴロちゃんの脳内では、『幼馴染』っていうのは、朝になると勝手に部屋の中に突撃してきて、『もう、遅刻しちゃうぞおっ』、お母さんを差し置いて朝ごはんを作って食べさせて、『うふふ、おいしい?』、学校に遅れそうなのにスピードの出ないノタノタ小走りで、『はわわ、吾朗君、待ってよお~』、なんて息を乱しながら追いかけてくるような、図々しく空気も読めない運動神経皆無のアタマのおかしい子のことなんだよね?」
「悪かったな。アタマおかしいとか言うな。それからいちいち会話の間に声真似を挟むな」
夏実の声は、僕がここ数年入れ込んでいる、某若手声優に似ている。それを悪用して、しょっちゅうその声優が演じるヒロインを真似てこんな小芝居をするのだ。内心の腹立ちとは別に、本気で鼓動が高鳴るほど、クオリティが高い。
「まったくオタクなんだから」
呆れるように夏実が言ったが、僕はそれに、ふんと鼻息で返した。そうとも、僕はオタクだ。アニメ大好き、ラノベも漫画もゲームも大好きだ、悪いか。別にそれで誰かに迷惑をかけてるわけでもないんだから放っておいて欲しい。
「そろそろ現実を見ようよ。そんな女はこの世にいないって」
「夢を見るのは勝手だろ」
そうなんだ、僕だってわかってる。アニメの世界と現実世界の区別がつかなくなるほど、アホじゃない。そんな「幼馴染」なんてものは、実際にはどこにもいないってことくらい、理解している。
──だけど、幻想を抱くくらいは、いいじゃないか。
僕にとっての「幼馴染」とは、アニメとラノベと漫画とギャルゲーとで培われた、可愛くて、ちょっと鈍くさくて、甘酸っぱくて、胸が上擦って、宝物のように守って大事にしたい、そういうものだ。
決して、僕よりも大きくて、僕と違って社交的で、僕の数十倍は運動神経抜群で、いちいち僕のコンプレックスを刺激する、短髪で色の黒い男友達のような存在を指すのではない。
だから僕は、夏実を自分の「幼馴染」であるとは、決して認めないのである。
「あたしはゴロちゃんの未来が心配だよ」
「お前みたいないつも赤点スレスレのやつに心配なんてしてもらわなくて結構だ。僕は確かにオタクかもしれないが、成績はずっと上位にいることを忘れるな」
切り捨てるように言うと、夏実は不思議そうに首を捻った。
「ほんと、なんでだろうね? ゴロちゃんなんて、妄想と幻想だけで生きてるような人間なのに、どうして頭はいいんだろ?」
「僕は切り替えというものを知っているからだ。それに妄想とか言うが、お前だって、男に対する理想くらいはあるだろ」
「いや別に、あたしのは大したことないよ。イケメンで、優しくて、朝起こす時にあたしの枕元にやって来て、『起きてくれよお寝坊さん、今すぐにその可愛い目を開いて俺を見てくれ、さあ笑ってハニー』なんて甘ったるい声で言ってくれる程度の」
「そんな男はいない!」
僕らは二人とも、自分には分不相応の過大な幻想を抱いて、夢と現の狭間を漂っているような、非常に愚かで痛々しい子供たちだった。
***
そんな僕たちの関係に変化が訪れたのは、高校一年生がそろそろ終わるかという頃のことだ。
詳細は知らない。そもそも、僕と夏実は、いつも一緒にいた子供の頃を除けば、学校ではほとんど互いに目も合わせず、言葉も交わさないような疎遠な状態が続いていた。クラスも違うし、タイプがまるで違う僕と夏実がおさななじ……いや、昔からの知り合いだということを知っているやつは、数えるくらいしかいなかっただろう。
だから、僕がそれを聞いたのは本人からではなく、僕の母親からだった。
──なっちゃん、彼氏が出来たんだって。
母は母で、夏実の母からそれを教えてもらったらしい。相手はどんな男の子なのかしらねえー、とあれこれ想像する母は、それこそ自分の娘に彼氏が出来たようなはしゃぎっぷりだった。
それを聞いた僕の感想は、「へえ」という、それだけだ。
ふーん、そう、とそれ以外思いようもなければ、返事のしようもない。あんた同じ学校なんでしょ知らないの、と母に責めるように問われても、接点のない相手のことなんて知らないに決まってる、と答えるしかなかった。
冷たいんだから、昔はあんなにベッタリだったのに、と大昔の話を印籠のように振りかざされて、うんざりする。昔は昔、今は今だ。夏実が男を作ろうが、その男がどこの誰だろうが、僕の知ったことじゃない。
ふーん、というところで思考停止して、僕はその先を考えるのを拒絶した。
その話を聞かされた数日後、学校に行くため家を出てすぐ、夏実の後ろ姿を見つけた。
そういや今も試験前なんだっけ、と思い出す。以前この道でバカバカしいやり取りをしてから、もう半年以上が経過していた。
その間、夏休みと冬休みを挟んでいる。夏実がそれらの休みをどう過ごしたかなんて僕はまったく知らない。それどころか、同じ学校に通っているにも関わらず、僕は日常の夏実のこともよく知らなかった。どんな友達がいて、どんな話をして、どんな男を好きになったのかも。
一年生ながらバレー部のレギュラーを獲得した、というのは聞いたけれど、それに対してさえ、僕はなんにも言ってやらなかった。
きっと、死ぬほど練習して、努力を重ねたのだろうに。僕が漫画を読んだりゲームをしたりしている間、夏実はただひたむきに走り回り、汗を流していた。勉強にあてる時間なんて作りようがないほど、朝早くから夜遅くまで、毎日毎日必死にボールを追って。
帰り際、時々前を通る体育館の扉の隙間から、監督に怒鳴られて唇を噛む夏実を見たことがある。コンビニ帰り、真っ暗な道を、大きなバッグを抱えて疲れ切ったように歩く背の高い後ろ姿も見つけたこともある。
僕はそれを知っていたのに、「おめでとう」の一言すら、出してやれなかった。
「よ」
少し足を速めて、後ろから短い声をかける。夏実は驚いたように振り返り、僕の姿を認めて、あ、と口を開けてから、
「おはよ、宮下君」
と返してきた。
「…………」
無言の間が空いたのは一瞬で、僕は表情を変えないまま続けた。
「彼氏が出来たんだってな」
そう言うと、夏実はぽっと頬を赤く染めた。もう、おかあさんお喋りなんだから、と忌々しそうに呟く。長い付き合いだが、夏実のこんな表情を見るのははじめてだった。
……こんな、「知らない女の子」のような。
「まだ、つい最近の話だよ」
しょうがないなと諦めたのか、渋々のように白状する。照れてはいるが、どこか誇らしげだ。本当は、誰かに話したくて仕方ないくらいだったのかもしれない。
「相手は?」
「──バスケ部の中沢君」
僕は少し目を見開いた。バスケ部の中沢といえば、背が高くて顔も良くてノリも軽いという、スクールカースト上位に分類される生徒である。つまり、僕とは正反対に位置する男だ。女の子にも人気があって、本人もそれをちゃんと自覚している。そんなやつが夏実と付き合うのかと、僕はかなり意外に思った。
あんまり、良い評判も聞かない男だけど。
「……ま、よかったな」
でも僕はもちろんそんなことは口にも態度にも出さず、その一言を出すに留めた。僕はあまり人の輪に混じらないほうなので、その人物評が正しいのかどうかも定かじゃない。ちょっと耳に挟んだだけの不確定な噂を夏実にぶつけるのは、無責任というものだ。すっかり浮かれている今の本人にそんなことを言っても、怒りだすだけだろうし。
なにより僕は、「夏実の昔からの知り合い」というだけの人間なのだから。
──それは、余計なお世話以外の何物でもない。
「うん。今、すごく楽しいんだー」
えへへと表情を崩して、夏実は本当に嬉しそうに笑った。帰る時も一緒で、夜寝る前までラインでお喋りし、部活の際はせっせと差し入れして、次の休みにはデートの予定も入っているという。夏実の顔はとろけそうで、今にも足が地面から離れて、空に昇っていきそうだった。
「……それで、あの」
一通り惚気を垂れ流してから、言いにくそうに口ごもり、夏実は僕の顔を窺うように見た。
「あたしと宮下君が幼馴染だってこと、学校では内緒にしてくれる? 中沢君の耳に入って、不愉快な思いをさせちゃうのもイヤだし」
申し訳なさそうに出されたその頼みに、僕はあっさり「ああ」と了承した。
今までだって、そんなことを自分から宣伝したことは一度もないが、夏実はほんの少しでも、中沢の気分を害するようなことはしたくないのだろう。
中沢の機嫌を損ねないように、この大雑把でガサツな女が最大限気を遣い、高い身長を縮めながら、大口を開けて笑うのも遠慮して、卑屈に振る舞っている姿が頭に浮かんだ。
その想像は、驚くほど僕を不愉快な気持ちにさせた。
「じゃあな」
僕はそれだけ言って、大股で夏実を通り過ぎ、半分走るようにして駅へと向かった。
別に、こんなもんさ。
ぜいぜいと荒い呼吸をしながら心の中で思う。
幼馴染だろうが、昔からの知り合いだろうが、そんなのはお互いに成長したらなんの意味も持たなくなる。
このまま話もせずに高校を卒業して、数年後顔を合わせて、素っ気ない挨拶を交わすだけの関係になるんだ。他の連中とまったく変わりなく。どこも、ひとつも、特別な何かなんてありゃしない。
それが現実ってもんだよ。
***
……結果から言うと、夏実と中沢の付き合いは一カ月ほどで幕を閉じた、らしい。
本人に聞いたわけではなく、クラスの女子たちがコソコソと話しているのを耳に入れただけなので、これもやっぱり詳細は知らない。
でもとにかく、時々ちらっと見かける夏実は、以前よりも少し痩せて、しょんぼりと憔悴していた。
夏実と中沢の間に何があろうと、僕はそこに何の関わりも持たなかった。
だから、その声を聞いてしまったのは、単なる偶然でしかない。あちらはもちろん僕に聞かせるつもりなんてなかったのだろうけど、誰かに聞かれたらまずいともまったく思っていなかったんだろう。それくらい、連中はそれを、ただの世間話、ただの軽い笑い話としてしか、認識していなかった、ということだ。
中沢と数人の男子生徒たちが、下卑た笑いを響かせながら、音量を抑えもせずに話していたその内容は、終始、「あの身の程知らずな大女」についてのこき下ろしだった。
ちょっと声をかけたらすっかりポーッとして舞い上がって、あまりにも面白かったもんだから冗談で「付き合う?」と言ってみたら、ホントに本気にされて参った。でかくて目障りだし、色が黒くて暗い中に立ってると見分けがつかないくらいだし、髪なんて小学生の男みたいで色気のカケラもなくて、手を出す気にもならなかった──と、いうような。
「だけど、あいつ、声だけは可愛いじゃん」
という他の男の言葉に、中沢はまた笑った。
「よせよ、あの顔と身体であの声って、気色悪いったらねえよ。あれを喜ぶのはオタクくらいのもんじゃねえの。いや、でも、いっそあいつの喘ぎ声だけ録音して、他の可愛い女の子を相手にしてる時に流して使えばよかったかな」
中沢はそれ以降、そのくだらない下品な話を続けることは出来なかった。
全力で突進していった僕が、全力でやつを突き飛ばしたからだ。
***
そこで僕が中沢に華麗なパンチを見舞って倒してやった、という展開になったならよかったのだが、もちろんアニメやラノベや漫画の主人公ではない僕は、呆気なく中沢によって返り討ちにされた。
そりゃそうだよな。運動全般がダメな僕とは違い、あちらは腐ってもバスケ部で、上背もあれば力もある。しかも周りにいた友達も似たり寄ったりのタイプだ。僕は数人がかりでボコられて、あえなく目を廻して他の生徒に発見されて保健室に運ばれる、という非常に情けない仕儀になった。
養護教諭にも担任にも何があったのかと詰問されたけど、僕は、転んだ、と嘘を突き通した。二人がかりで、「イジメには親身に対応する」と説得されたが、実際、そんなもんじゃない。中沢たちにとっては、空気のように目立たない僕なんて、イジメの対象にもならないくらいだろう。
教師たちは僕のその言葉に、納得しないながらもなんとか引いてくれた。しかし、しつこく食い下がってくる厄介なやつが一人いた。
夏実だ。
話を聞いて保健室に駆け込んできた夏実は、痣と血だらけの僕を見て顔色を変え、誰にやられたのと教師より数倍の迫力で詰め寄った。もちろん僕は同じ返事をしたのだが、夏実はそれで諦めるような生易しい性格をしていなかった。
翌日から、夏実は勝手に独自の調査を始めた。校舎内を何周もして聞き込みをし、目撃情報を集め、現場の写メまで撮って、敏腕刑事並みの働きをしたらしい。
そしてとうとう、真実を掴んだ。
「……バカだね、ゴロちゃん」
僕の家に来た夏実は、部屋に入るなり、憮然とした顔でそう言った。
「どうせ僕はバカなオタクだよ」
僕はぷいっとそっぽを向いて無愛想に答えた。正直、自分の部屋で夏実と二人きりになるのは十年ぶりくらいで、なんとも落ち着かない。なんの疑いもなく夏実をここに通した母は、もっと自分の息子の性別を認識したほうがいいのではないか。
「あたしのために、そんな痛い思いをしなくてもよかったのに」
「言っておくが、お前のためなんかじゃない。中沢が、僕のことをオタクとバカにしたからだ」
「本当のことじゃん」
「本当だが、腹が立ったんだからしょうがない」
むっつりしてそう言うと、夏実ははーっとため息を落とした。
「……中沢も、そう言ってたよ」
その名前から、「君」が抜けていることに、僕は気づいた。
「そうって」
「あのオタク野郎が、いきなり掴みかかってきたって。殺してやるって血走った目で喚いて、ナイフを振り回しはじめたから、正当防衛だったって。電波系をこじらせすぎて、オカシくなったんじやねえのって。そのうち、無差別で人を襲いだしそうだから、今のうちに病院で診てもらったほうがいいって」
「それほどでも」
僕はますますふてくされた。中沢のやつ、ずいぶん話を盛ってるな。ナイフなんて怖いもの、僕が持ち歩けるわけあるか。
「あたしは一瞬も、そんなの信じなかったよ」
きっぱり夏実に断言されて、僕は沈黙した。
「ゴロちゃんとは何年の付き合いだと思ってんの。そんなのウソに決まってる。あんまり中沢が出鱈目放題で、ゴロちゃんをバカにして嘲笑うもんだからさあ、あたし頭に来て、あの男の頬っぺた思いきりビンタしてやったよ」
「え」
僕はぎょっとした。強烈なスパイクをコートに叩き込むバレー部のアタッカーにビンタされたら、さすがに中沢も吹っ飛ぶのではないだろうか。
「それから鞄でも殴った」
「いや待て」
「椅子も投げつけてやった」
「待て待て待て」
焦る。お前、どう考えてもそれは過剰防衛だぞ。というか、中沢は夏実には手を上げていないんだから、単なる暴行罪になりかねないぞ。
「……あたしもさ、ホントは、わかってたんだ」
しかし夏実は、慌てる僕には構わず、そして暴行を加えたらしい被害者のことにもまったく構わず、ふう、と息を吐いて目を伏せた。
「中沢はただの冗談半分で言っただけで、あたしのことなんて、なんとも思っていないんだろうなーって。中沢の周りの女の子たちが、あたしを見て、バカにしたように笑ってるのも気づいてた。──だけど、夢見ちゃったんだよね。このまま一緒にいたら、そのうち中沢もあたしのことホントに好きになってくれるんじゃないかって。最初は遊びでも、いつか本気になるって、そういう漫画、よくあるじゃん」
あったかなあ、と僕は首を捻った。夏実の言う漫画は少女漫画のことだろうから、僕の専門外だ。
「……けどやっぱり、現実はそんな風にはいかないんだね。夢みたいなことは、やっぱり架空の世界でしか起きないんだね。現実はびっくりするくらい厳しくて……なんか……つまらないよね……」
ぐすっ、と鼻を啜る音がした。
下に向けている夏実の顔は、僕からは見えない。見えなくて幸いだ、とホッとした。今でさえどうしたらいいか判らないのに、泣き顔なんて見たら、もっと判らない。
夏実は口を閉じ、ただ、ひっくひっくと静かにしゃくり上げ続けた。
僕は何も言わずに、夏実とその時間を共有することにした。
きっと、他の誰でも、そんなことをしようとは思わなかっただろう。男友達だったら気分転換にゲームでもしようかと提案しただろうし、夏実以外の女の子なら、この場から逃げ出していたかもしれない。
夏実だから、何も言わなくてもいいと思えた。夏実がそれを責めないだろうことも判った。むしろ、それ以外の何も望んでいないだろうことも。
わざわざ言葉にしなくても、ちゃんと判る。
そんな相手は、たぶん夏実一人だけだ。
やっぱり夏実は、僕の幼馴染で、僕の「特別」なのだった。
けっこう長い間そうしてから、ようやく夏実は顔を上げた。
へへ、と恥ずかしそうに笑って、どこか晴れ晴れとした顔で、真っ赤になった目をごしごしとこする。
──その顔が、やけに可愛く見えて、僕は狼狽した。
これは夢か現か。こんなに背が高くて色が黒くて髪も短い暴力女、可愛いなんて思うはずがない。作り声を出されたわけでもないのに、というか言葉を発してもいないのに、どうしてこんなにも鼓動が速まっているのだろう。静まれ、落ち着け。これは単なる目の錯覚だ。
ほんの一瞬の、幻だ。
……その一瞬の幻が、この先もずっと続く羽目になるなんて、一体誰が予想できただろう。
つまらない、なんてことがあるもんか。二次元の世界よりもずっと刺激的で、恐ろしくて、感情があっちこっちに揺さぶられて、こんなに大変なことはない。
現実世界も、けっこう侮れないのだと僕は知る。
けれどもだからこそ、楽しいのかもしれない、とちょっぴり思った。
拍手小話として書いたものをこちらに置いておりましたが、このたびサイトを閉鎖しましたので、ここで完結とさせていただきます。
ありがとうございました!




