ヴィヴィアン
目を覚ましたばかりのノアは、まだ頭がぼんやりしていた。
だが。
瞼を開けた瞬間に、こんな目に優しい光景が飛び込んでくれば。
さすがに一気に目も覚める。
――何だこの目覚ましサービス。
――貴族令嬢限定の特典か?
――《宵星亭》って、こんなサービスまであったのか?
ヴィラは。
ノアが目を覚ましたくせに、まだ寝転んだまま自分を見ていることに気づくと。
むっと頬を膨らませた。
「いつまで見てるのよ!」
「早く起きなさい!」
白い靴下に包まれたつま先が。
くるり。
ノアの膝の近くを、軽く押すように動いた。
そのまま。
足が少し持ち上がる。
朝日が。
つま先の下を通り抜け。
細く整った輪郭を、くっきりと浮かび上がらせた。
次の瞬間。
ぽふっ。
再び。
布団の上へ足が落ちる。
柔らかな靴下と寝具が一緒に沈み。
ほんのり甘い香りが。
ふわりと漂った。
ノアは。
無意識に息を吸った。
――……いい匂い。
――朝一番からこれは反則だろ。
ヴィラは。
その視線にすぐ気づいた。
ぱっと足を引っ込める。
「起きなさいってば!」
そして。
少しだけ顔を赤くしながら。
「今日は」
「あんたに、またマッサージさせるために来たの!」
ノアの眉が。
ぴくっと上がった。
「へえ?」
「つまり」
「前回、結構気に入ったんですね?」
「……っ」
ヴィラの視線が。
すっと横へ逃げる。
「ま、まあ……」
「悪くはなかったわよ」
軽く咳払い。
そして。
いつもの偉そうな顔へ戻る。
「どうせあんた暇なんでしょ?」
「ほら、早く起きなさい!」
◆
しばらくして。
ヴィラは。
ベッドの縁へ腰掛けていた。
両手を身体の後ろにつき。
少しだけ上体を反らしている。
その前。
床にあぐらをかいたノアが。
ヴィラの片足を。
そっと掌へ乗せていた。
真っ白なニーハイソックス。
薄い布地が。
細い足の形へぴったり沿っている。
丸みのあるつま先。
なだらかな足の甲。
そして。
柔らかく弧を描く土踏まず。
布越しでも。
掌には。
温もりと柔らかさが。
はっきり伝わった。
温かい。
柔らかい。
親指で軽く押せば。
少しだけ沈む。
ノアは。
親指を使い。
土踏まずに沿って。
ゆっくり。
力を入れていく。
痛すぎず。
弱すぎず。
疲れが溜まりやすそうな場所を探りながら。
丁寧に。
「ん……」
ヴィラは。
最初こそ。
いかにも仕方なくやらせている、といった顔をしていた。
だが。
足裏から。
じんわり広がる。
心地いい刺激。
少しずつ。
肩の力が抜けていく。
「……んん」
目が。
ゆっくり細くなる。
足首からも。
完全に力が抜けた。
そのまま。
ノアの掌へ。
ぽすん。
預けられる。
ノアは。
マッサージを続けながら。
何気ない調子で口を開いた。
「そういえば、お嬢様」
「俺」
「これから冒険者をやってみようと思ってるんです」
「…………え?」
ヴィラの目が。
一気に開いた。
「何ですって!?」
驚いた拍子に。
足が。
ぴんっ!
反射的に前へ出る。
ちょうど。
ノアが口を開いていた、その瞬間。
白い靴下に包まれたつま先が。
ぺしっ。
ノアの顔へ。
直撃した。
「…………」
唇のすぐ横。
柔らかなつま先が。
するりと掠める。
そして。
甘い香りが。
一気に鼻先へ。
ノアの動きが止まった。
舌先に。
気のせいか。
ほんの少しだけ。
甘いような。
柔らかな感覚が残った。
――……今。
――ちょっと。
――味した?
だが。
ヴィラは。
そんなことには全く気づいていない。
勢いよく。
ベッドから立ち上がった。
「冒険者って!」
「本気で言ってるの!?」
顔には。
はっきりと。
驚き。
そして。
焦り。
「どれだけ危険か分かってる!?」
「毎日のように雪山へ行くのよ!」
「魔物もいる!」
「罠だってある!」
「ダンジョンが崩れることだってある!」
言葉が。
どんどん速くなる。
そして。
瞳の奥へ。
薄い涙。
「一回出ていったら……」
声が。
少しだけ震えた。
「そのまま帰ってこない人だって、いるのよ……」
「魔物って」
「本当に怖いんだから……!」
ノアは。
その顔を見て。
少しだけ眉を上げた。
「お嬢様」
「もしかして」
「俺がいなくなるの、寂しいんです?」
「っ!?」
ヴィラが固まる。
「だ」
「誰が!」
「誰が寂しいなんて言ったのよ!」
すぐに。
頬を膨らませ。
人差し指を。
びしっ!
ノアへ向ける。
ただし。
指先は。
少し震えていた。
「ただ!」
「あんたみたいな馬鹿が」
「勝手に死にに行くのが嫌なだけ!」
最後のほうは。
声が。
少しだけ。
小さくなる。
ヴィラは。
床へ腰を下ろした。
そして。
ノアの腕を。
両手で抱える。
ゆさ。
ゆさ。
弱く。
揺らす。
「……行かないでよ」
「ここにいればいいじゃない」
顔を上げる。
さっきまで。
偉そうに怒っていた少女とは。
まるで別人だった。
潤んだ瞳。
震える睫毛。
きゅっと結ばれた。
桜色の唇。
まるで。
捨てられそうな猫のような顔。
「お給料だって」
「お母様にお願いして、もっと上げてもらうから」
「欲しい金額があるなら」
「相談すればいいじゃない……」
「…………」
ノアの視線が。
少しだけ。
柔らかくなる。
手を伸ばし。
ヴィラの小さな鼻先を。
つん。
軽く弾いた。
「お嬢様」
「前に」
「神官のところへ連れていってくれた日」
「覚えてます?」
ヴィラが。
一度瞬きをした。
「……覚えてるわ」
少し考える。
「その日」
「あんた、すっごく暗かった」
「話しかけてもぼーっとしてたし」
「魂でも抜けたみたいだった」
「そう」
ノアは頷いた。
「理由があったんです」
少し間を置く。
「俺」
「ちょっと珍しい病気なんです」
ヴィラの顔から。
少しずつ。
表情が消える。
ノアは。
静かに。
続けた。
「このままだと」
「長く生きられない」
「…………」
ヴィラの顔色が。
一瞬で。
白くなった。
「……え?」
「この町じゃ」
「治せない」
「だから」
「もっと強くなって」
「もっと遠くへ行って」
「もっといろんな人に会わないといけないんです」
「そうしないと」
「治す方法も見つけられない」
ヴィラは。
何も言わない。
ただ。
ノアの顔を。
じっと見ている。
数秒。
やがて。
目の周りが。
赤くなった。
「……お母様」
ぽつり。
そして。
突然。
立ち上がる。
「お母様を呼んでくる!」
「お母様なら!」
「絶対、何か知ってるから!」
ノアが。
少し困ったように笑う。
「難しいと思いますよ」
「それに」
「俺なんて、ただの酒場の給仕ですし――」
ぱしっ!
ヴィラの拳が。
ノアの肩へ。
「痛っ」
「そんな言い方しないで!」
ヴィラは。
唇を噛んだ。
そして。
勢いよく振り返る。
「待ってて!」
靴を。
慌てて履く。
紐すら。
まともに結ばない。
そのまま。
ばたばたばたっ!
廊下へ飛び出していった。
「…………」
ノアは。
開いたままの扉を。
しばらく見つめた。
笑みが。
少しずつ消える。
考えてみれば。
自分の身体が。
この世界の魔力へ適応できない理由。
それは。
単純に。
自分が。
この世界の人間ではないからなのかもしれない。
では。
過去。
この世界へ来た。
あの《肘撃王》は。
どうだった?
同じように。
魔力への不適応に苦しんだのだろうか。
そして。
もしそうなら。
どうやって生き延びた?
「…………」
ノアの頭に。
四百年前の英雄王が浮かぶ。
もし。
何か記録が残っているなら。
自分の身体の異常。
そして。
その解決方法まで。
分かるかもしれない。
もちろん。
すべての《属性適性》を集める。
それも一つの道だ。
だが。
不確定すぎる。
火。
水。
風。
土。
光。
闇。
雷。
氷。
他にも。
いくつあるかすら分からない。
全部集めるのに。
何年かかる?
そもそも。
この国に。
滅多に存在しない属性の適性者が。
一人もいなかったら?
「……別の道も探したほうがいいな」
そう考えていた時。
廊下。
ばたばたばたっ!
慌ただしい足音。
「お母様!」
「早く!」
「お願い、診てあげて!」
次の瞬間。
ヴィラが。
一人の女性の腕を引き。
部屋へ飛び込んできた。
《宵星亭》の主人。
ヴィヴィアンだった。
今日の彼女は。
深いワインレッドのドレスを着ている。
柔らかな生地が。
成熟した身体へ。
しっとりと沿っていた。
豊かな胸元。
細く絞られた腰。
そして。
そこから続く。
女性らしい丸み。
少女のヴィラとは。
明らかに違う。
成熟した女だけが持つ。
柔らかさと。
余裕。
歩くたび。
ドレスの裾が。
わずかに揺れる。
白い肌。
華やかな顔立ち。
少し吊り上がった目尻には。
生まれつきの色気。
ただそこに立っているだけで。
長く寝かせた葡萄酒のような。
甘く。
深い。
大人の女性の雰囲気が漂っていた。
ノアは。
一度だけ見て。
すぐに。
視線を下げた。
「奥様」
「おはようございます」
表情は。
あくまで真面目。
だが。
心の中。
――……いや。
――ヴィラのお母さん。
――破壊力高すぎない?
少女とは。
まるで別方向。
柔らかく。
豊かで。
成熟した色気。
近くにいるだけで。
身体の奥が。
少し熱くなる。
ヴィラは。
そんなノアの内心など。
当然知らない。
母親の腕へしがみつく。
「お母様」
「お願い!」
「ノア、すごく重い病気なんだって!」
「長く生きられないって!」
「お母様、いろんなすごい人知ってるでしょう?」
「何か方法あるよね?」
「……ね?」
ヴィヴィアンは。
すぐには答えなかった。
まず。
ノアを見る。
艶のある瞳が。
彼の顔を。
数秒。
じっと見つめる。
そして。
ふっと。
柔らかく笑った。
「私も」
「医術は少しだけ分かるわ」
「まず」
「診てみましょうか」
「お願いします」
ヴィヴィアンが。
ノアの前へ歩く。
「手を」
ノアは。
素直に腕を差し出した。
白い指先。
そっと。
手首へ触れる。
「…………」
ヴィヴィアンが。
目を閉じる。
最初。
表情は。
ごく穏やかだった。
だが。
数秒。
十秒。
時間が経つにつれ。
眉が。
少しずつ。
寄っていく。
「……?」
さらに。
別の場所。
肩。
胸元。
背中。
指先を。
軽く触れさせる。
そのたび。
極めて微かな魔力が。
身体の奥へ流れ込んできた。
「…………!」
ノアは。
内心。
少し驚いた。
優しい。
なのに。
深い。
アレンの診察とは。
全く違う。
比べものにならないほど。
繊細で。
強い。
――この人。
――やっぱり普通の酒場の女主人じゃない。
しばらくして。
ヴィヴィアンが。
ゆっくり目を開いた。
そのまま。
ノアを見る。
深く。
まるで。
目の奥まで覗き込むように。
審査。
疑問。
そして。
ほんの少しの。
驚き。
「…………」
ヴィヴィアンの唇が。
僅かに動いた。
だが。
声にはならない。
一瞬。
ノアには。
そう読めた。
――《降臨者》?
「……!」
心臓が。
どくんっ!
大きく鳴った。
――今。
――何て?
しかし。
ヴィヴィアンは。
それ以上。
何も言わなかった。
ただ。
小さく。
首を振る。
「……私には」
「治せないわ」
「…………え?」
ノアが。
目を瞬く。
ヴィヴィアンは。
静かに続ける。
「おそらく」
「この世界でも」
「治せる人は、ほとんどいない」
「…………」
ノア。
一瞬。
言葉を失った。
――いや。
――待って。
――アレン爺さんですら。
――大都市なら何かあるかもって。
――一応希望は残してくれたぞ?
――なのに。
――奥様、いきなり難易度MAX宣告?
ヴィヴィアンは。
少し考え込む。
そして。
「この症状は」
「歴史上でも、ほとんど例がなくて――」
そこで。
言葉が。
止まった。
「……?」
ヴィラが。
すぐに反応する。
「それで?」
「その先は?」
ヴィヴィアンは。
娘を見る。
だが。
続きを言わない。
代わりに。
そっと。
ヴィラの頭を撫でた。
「ごめんね、ヴィラ」
「たぶん」
「この子は本当に、冒険者になったほうがいいわ」
「…………」
ヴィラの瞳が。
大きくなる。
「酒場にずっといたら」
「本当の強者にも会えない」
「希少な薬も」
「貴重な魔道具も」
「特別な情報も」
「手に入らない」
「それだと」
少しだけ。
表情を曇らせる。
「助かる可能性は」
「ほとんどないと思う」
「…………」
ヴィラは。
母親を見る。
そして。
ゆっくり。
ノアを見る。
瞳の中。
溜まっていた涙。
ついに。
一粒。
頬を流れ落ちた。
「ヴィラ……」
ノアが。
声をかけるより。
早く。
少女が。
くるり。
背を向ける。
「……っ!」
両手で。
顔を隠し。
そのまま。
部屋を飛び出した。
「お嬢様!」
ノアが。
追おうとする。
だが。
廊下。
「来ないで!」
泣き声。
「ノアなんて!」
「大っ嫌い!」
「…………」
ノアの足が止まる。
ヴィヴィアンは。
静かに。
扉の向こうを見る。
「少し」
「一人にしてあげて」
声音は。
とても穏やかだった。
「大丈夫」
「落ち着けば、戻ってくるわ」
そして。
ノアへ。
少し笑う。
「冒険者になるだけでしょう?」
「もう二度と帰ってこないわけじゃないんだから」
「…………」
ノアは。
しばらく黙った。
そして。
ゆっくり。
ヴィヴィアンを見る。
「奥様」
「一つ」
「聞いてもいいですか?」
「何かしら?」
「俺の身体について」
「何か知ってますよね?」
「…………」
ヴィヴィアンは。
一瞬。
ノアを見る。
そして。
にっこり。
妖艶に笑った。
「私は」
「ただの小さな商人よ?」
「そんな大層なこと」
「知ってるわけないでしょう?」
「…………」
ノアの目が。
少しだけ細くなった。
――いや。
――絶対知ってる。
さっきの反応。
あれは。
知らない人間の顔ではない。
だが。
本人が話す気がないなら。
無理に聞き出すわけにもいかない。
ノアは。
静かに頭を下げた。
「……分かりました」
「診てくださって」
「ありがとうございます」
「じゃあ」
「俺も失礼します」
踵を返す。
扉へ。
一歩。
二歩。
「ノア君」
背後。
ヴィヴィアンの声。
「……!」
ノアの目が。
ぱっと輝いた。
――来た。
――やっぱり何か教えてくれる?
すぐに。
振り返る。
だが。
「…………」
ヴィヴィアン。
にこにこ。
その白い指先。
一冊。
見覚えしかない。
薄い本。
ひらひら。
軽く振っている。
「ノア君?」
笑顔。
ただし。
妙に。
圧がある。
「これ」
「ちょっと説明してくれる?」
「…………」
ノアの身体が。
ぴしっ。
固まった。
――やばい。
――エロ本。
――バレた。




