モンスター娘に触れるたび、俺は強くなる
夕暮れ時。
《宵星亭》が、一日の中で最も賑わう時間だった。
広い店内は、雪山から戻ってきたばかりの冒険者たちでいっぱいだ。ジョッキになみなみ注がれた麦酒を豪快にあおりながら、今日どんな魔物を仕留めたのか、誰も彼も負けじと大声で自慢している。
そんな喧騒から少し離れた窓際の席で、一人黙々と酒を飲んでいた男の肩を、誰かがそっと叩いた。
「お客さん」
「ちょっと刺激の強いもの、いりません?」
男が振り返り、きょとんとする。
「刺激の強いもの? もっと強い酒か?」
「悪いが、今日はあんまり金を持ってなくてな……」
「いやいや、そうじゃなくて」
背後に立っていたのは、エプロン姿の青年だった。
ノアは口元をにやりと歪める。
「俺が言ってるのは、刺激の強い“物語”のほうですよ」
そう言って、エプロンの下から薄い冊子を一冊取り出し、ひらひらと振ってみせた。
「一冊、銅貨三枚」
男はぱちぱちと瞬きをした。
「騎士物語か? 俺ももうそんな歳じゃないぞ。剣だの英雄だの、そういう話はとっくに卒業して……」
ノアは無言で冊子を男の手に押しつけた。
「六十九ページ」
「それから七十八ページと、九十一ページ」
「そこだけ先に読んでみてください」
「……?」
男は半信半疑のままページをめくった。
最初は怪訝そうに。
次第に真剣な顔になり。
そして最後には。
長年、風雪に晒されてきたその顔が、目に見える勢いで真っ赤に染まっていった。
耳から首筋まで、一気に赤くなる。
「っ……!」
つう、と。
一本の鼻血が男の鼻先から流れ落ちた。
男は勢いよく本を閉じると、胸を大きく上下させながらノアの手首を掴んだ。
「兄ちゃん……」
声が震えていた。
「俺、まだ少年だったわ」
「このシリーズ、あと何冊ある?」
「全部くれ!」
ノアは指を四本立てた。
「今のところ、全部で四冊です」
「続きが出たら、一番に取っておきますよ」
「頼んだ!」
銅貨と冊子が交換される。
男はまるで希少な魔導書でも手に入れたかのように本を懐へしまうと、周囲をちらちらと確認してから、足早に人混みの中へ消えていった。
残されたノアは、手の中の銅貨を一枚ずつ数える。
ちゃりん。
ちゃりん。
気づけば数十枚。
思わず頬が緩んだ。
「いやぁ……やっぱりエロは世界を回すな」
膨らんだ革袋を見下ろしながら、ノアはしみじみと呟いた。
「気づけば、こっちに来てもう三ヶ月か……」
この町の名は、モーニングウィンド。
決して大きな町ではない。
それでも一年を通して、人の姿が途絶えることはなかった。
理由は単純だ。
町の外にそびえる、万年雪に覆われた《霜雪山》。
その山奥には、太古から存在すると言われる巨大なダンジョンが眠っている。
財宝。
希少な魔道具。
珍しい素材。
そして、一夜にして人生を変えるような奇跡。
それらを求め、冒険者たちは各地からこの町へと集まってくる。
モーニングウィンドは、彼らが雪山へ入る前に立ち寄る最後の補給地点だった。
一本の大通りが町の端から端まで伸びている。
冒険者のブーツと馬車の車輪に長年踏みしめられた石畳は、ところどころ滑らかに磨かれていた。
地図を売る店。
武具を修理する鍛冶屋。
魔法薬や素材を並べる露店。
通りのあちこちから威勢のいい呼び込みの声が飛び交っている。
三ヶ月前。
ノアが目を覚ましたのも、この町だった。
腹が減りすぎてまともに立つこともできず、《宵星亭》の近くの路地で倒れていたところを、酒場の令嬢ヴィラに拾われた。
それ以来、住み込みの給仕として働いている。
だが働き始めて間もなく、ノアは自分の身体に異常があることに気づいた。
弱すぎるのだ。
酒を数往復運んだだけで息が切れる。
少し力を込めただけで胸が苦しくなり、全身から力が抜けてしまう。
最初は、異世界に来たばかりだから身体が馴染んでいないだけだと思っていた。
だが、ヴィラに連れられて町の教会へ行き、神官に診てもらった結果。
返ってきた答えは、笑えないものだった。
ノアの身体は、この世界に満ちる魔力そのものに適応できていない。
治療法はない。
このまま衰弱が続けば、二年も生きられない。
だが。
ノアは死にたくなかった。
そんな運命を、黙って受け入れるつもりもない。
そこで、酒場で働くかたわら、こうしてちょっと“大人向け”な読み物を自作して売り、少しずつ金を貯めていた。
こんな辺境の町では治せなくても、大都市へ行けば何か方法が見つかるかもしれない。
なにしろ、ここは魔法のある世界なのだ。
それに。
もし身体が完全に治ったなら。
ノアには、ぜひとも堪能してみたい“異世界ならでは”の魅力が山ほどあった。
豪快で情熱的。
引き締まった身体つきのドラゴン娘。
しなやかな身体で、どんな無茶な体勢でも軽々こなしてしまいそうな猫娘。
雪のように白い肌に、長い耳。
その耳先をちょっと触っただけで真っ赤になりそうなエルフのお姫様。
そして。
目を合わせただけでハートでも飛ばしてきそうな、妖艶なサキュバスのお姉さん。
想像しただけで、ノアの全身に血が巡った。
だが。
今の身体では話にならない。
色恋どころか。
もし本当に情熱的なお姉さんに捕まって、向こうから迫られでもしたら。
十分も持たずに白目を剥いて、泡を吹いて倒れる自信がある。
……どこから泡を吹くかについては、考えないことにしよう。
ノアは拳を握り締めた。
その瞳には、確かな決意が宿っていた。
金を稼ぐ。
治療法を探す。
そして必ず。
男として復活する。
そんな壮大なのか最低なのか分からない決意を固めていた、その時だった。
背後から、よく通る声が飛んできた。
「ノアー!」
「どこにいるのよ!」
「早く来て、あたしの靴を磨きなさい!」
ノアが振り返る。
カウンターの前に、一人の金髪碧眼の令嬢が腰掛けていた。
緩く波打つ金色の髪が肩にかかり、灯りを受けて上質な絹のような艶を放っている。
白く整った小さな顔。
潤んだような瞳は目尻がわずかに上がっており、誰かを睨んでいるだけなのに、妙に人を惹きつける愛嬌があった。
小ぶりな鼻。
桜色の唇。
少し不機嫌になると、すぐにつんと尖る。
見るからに気の強いお嬢様といった顔立ちだ。
身につけているドレスは、この町ではかなり高価な仕立てのものだった。
露出は決して多くない。
それでも白い首筋から鎖骨へ続くラインと、その下で布地を押し上げる柔らかな曲線までは隠しきれていなかった。
彼女は脚を組み、椅子の背もたれへ気だるそうに身体を預けている。
スカートの裾から伸びたすらりとした脚が、退屈そうにぶらぶらと揺れていた。
細い足首が灯りの下で白く浮かび上がる。
革靴が今にも脱げそうになるたび、彼女は器用につま先を引っかけて戻していた。
ノアは思わず笑った。
ヴィラ。
《宵星亭》の一人娘だ。
このお嬢様には、普段から何かとこき使われている。
洗濯を頼まれたり。
髪を結ばされたり。
買い物の荷物を持たされたり。
靴を磨かされたり。
なぜか妙に距離の近い仕事ばかりだ。
もっとも、終われば毎回のように小遣いを余計にくれる。
しかも気前がいい。
気づけば、その小遣いだけで本来の給金に迫るほどになっていた。
「はいはい、お嬢様」
ノアは小走りで近づくと、ヴィラの前にしゃがみ込み、片足をそっと支えた。
ふわり。
ほのかに甘い香りが漂ってくる。
ノアの眉がわずかに動いた。
――さすが異世界の美女。
こういうところまで天然仕様か。
「ちゃんと綺麗にしなさいよ」
ヴィラは顎を少し上げ、上から彼を見下ろした。
「ちょっとでも汚れが残ってたら、お尻蹴飛ばすんだから」
「はいはい」
ノアは慣れた手つきで布を動かし始めた。
きゅっ、きゅっ。
しばらく靴を磨いていた、その時。
ノアの視線が何気なく、靴の内側へ滑った。
白い足。
綺麗に伸びた甲。
小さく動くたび、つま先がきゅっと縮まり、また緩む。
ノアは気づかれないよう、そっと息を吸った。
――……これは、なかなか。
その瞬間だった。
ヴィラの身体の上に。
淡い光で形作られた文字が浮かび上がった。
【小竜人・ヴィラ】
【取得可能特性:《光属性適性》】
「……?」
ノアの手が止まった。
特性?
光属性適性?
意味が分からず固まっていると。
次の瞬間。
半透明のウィンドウが、何の前触れもなく視界に浮かび上がった。
【ピロン♪】
【《万象特性システム》が解放されました】
【特性スキャン】
【あなたに一定以上の好意を持つ相手から、特性をひとつ読み取ることができます】
【好感度が高いほど、より多く、より強力な特性を確認できます】
【相手の感情を大きく揺さぶることで、《感情ゲージ》が上昇します】
【喜び、羞恥、興奮、驚きなど、感情が強いほどゲージの上昇量も増加します】
【特性コピー】
【対象の《感情ゲージ》が満タンになると、その特性をコピーできます】
【コピーした特性は、自分への付与、他者への付与、融合、分解が可能です】
【その他の機能は、条件を満たすことで順次解放されます】
「…………」
ウィンドウがゆっくりと消えていく。
酒場の喧騒が、一瞬だけ遠のいた気がした。
ノアはその場で固まっていた。
頭の中では、一つの考えだけが何度も反響している。
つまり。
女の子をドキドキさせたり。
恥ずかしがらせたり。
時には驚かせたり。
とにかく大きく感情を揺さぶれば。
その相手が持っている才能を、自分のものにできる?
ノアはゆっくりと視線を落とした。
ヴィラの頭上には、今もなお淡い文字が浮かんでいる。
【《光属性適性》】
ごくり。
喉が鳴った。
光属性。
もしこれを手に入れれば。
自分も、この世界の魔力を受け入れられるようになるのではないか?
それだけではない。
特性を増やしていけば。
身体が鋼のように頑丈になる特性。
剣術。
魔法。
怪力。
再生。
あらゆる力を手に入れて。
やがては冒険者となり。
剣一本で世界を旅しながら。
各地の美女たちと――いや。
各地の“異文化”と、心ゆくまで深く交流する。
「…………」
ノアの目が、みるみる輝いていった。
夢がある。
あまりにも夢がある。
そして。
そんな熱すぎる視線を、目の前の本人が見逃すはずもなかった。
「……な、何よ」
ヴィラの肩が、ぴくっと震えた。
頬に一気に赤みが差す。
彼女は反射的に足を引こうとした。
「ちょっと……」
「さっきから、どこ見てるのよ!」
潤んだ瞳に、羞恥と苛立ちが入り混じる。
「あたしの足をそんなにじろじろ見るなんて……!」
「失礼でしょ!」
だが。
彼女が言い終えるより早く。
ノアの表情がすっと真剣なものに変わった。
そして。
逃げようとしたヴィラの足を、両手でしっかりと支える。
「えっ」
ヴィラが固まった。
大きな瞳を丸くして。
普段なら自分に好き勝手振り回されているはずの給仕を、信じられないものでも見るように見つめる。
「ちょ……」
「ちょ、ちょっと!」
頬がさらに赤くなる。
慌てて足を引こうとする。
だが。
ノアは離さない。
「ノア!」
「何してるのよっ!?」




