9. チェックアウト
年が明けて、海斗がホテルを辞めるという噂を聞いた。
本人からではない。別のスタッフが、「朝倉君、来月までらしいね」と話しているのを、偶然聞いた。
それを聞いた瞬間、頭が真っ白になった。
理由をそのスタッフに尋ねると、どうやら俳優関係の仕事が決まったらしい。
地方で撮影される映画で、役は小さいけれど、数週間現地に滞在する必要がある。
撮影後も演技のワークショップに集中するため、ホテルの仕事を続けるのは難しいという話だった。
(よかった…海斗が前へ進んだ)
喜ぶべきだった。それなのに、本人から何も聞いていなかったことがとても苦しくて純粋な気持ちで喜ぶことができなかった。
あの夜、「話したい」と言っていたのは何だったのか。
ただ辞めることを伝えたかっただけなのかもしれない。
俺はシフト表を確認した。海斗と被るのはあと二回しかなかった。
一回目の勤務では、結局そのことについて聞くことができなかった。
ただ、忙しかったというのもあるが聞いたら、本当にそれで関係が終わってしまう気がして怖くて聞くことができなかった。
二回目。
海斗にとって最後のシフトの日。
俺はいつもより早めにホテルへと向かった。
休憩室では、スタッフたちが海斗へ渡す用の寄せ書きを準備していた。
「柏木くんも書いて書いて」
色紙を渡され、ペンを持つ。
でも、何を書けばいいかが分からなかった。
俳優の仕事おめでとう。
頑張って。
売れたら自慢する。
書きたいことはそんなものではない。
結局、悩んだ末俺は短く書いた。
『海斗なら大丈夫。ずっと応援してる。望』
薄い言葉だなと我ながら思った。
でも、みんなが読む色紙に、本当のことを書くことはできない。
最後の勤務は驚くほど、普通に過ぎた。
海斗はいつもと同じように制服を着て、客へ笑顔を向けていた。
チェックインの方法を教えた初日から、半年くらいしか経っていない。
それなのに、何年も一緒に働いていたような気がした。
勤務終了後、みんなで用意していた色紙と花束を渡した。
海斗は驚き、何度も頭を下げていた。
「短い間でしたけど、本当にありがとうございました。とてもお世話になりました」
写真をみんなで撮った。
俺は、海斗の隣に立った。
肩が触れそうで、触れない、そんな絶妙な距離だった。
他のスタッフが帰った後、俺は一人で休憩室にいた。帰ろうと思うのに、ロッカーを閉めることができなかった。
もう、ここへきても海斗はいない。会うための理由を作ることももうできない。
「望」
振り返ると、海斗が立っていた。
私服に着替え、花束と色紙を持っている。
「帰ったと思った」
「待ってた」
「なんで?」
「望と話したかったから」
俺は目を逸らした。
「俳優の仕事の話、聞いた。本当におめでとう」
「ありがとう」
「よかったね」
「うん」
言葉が終わってしまう。
でもそれでいい。
これ以上話してしまえば、格好悪いことを言ってしまいそうである。
「じゃあ、俺帰るね。今までありがとう。楽しかった。これからも頑張ってね」
俺はまくし立てるように別れの言葉を言い、海斗の横を通り過ぎようとした。
「待って」
腕をつかまれた。
「なに」
「どうして俺から聞いてくれなかったの?」
「何を?」
「ホテルを辞めること」
俺は振り返った。
「本人から言われてないのに、聞けるわけないじゃん」
「言おうとした」
「オーバーブッキングの日に?」
「うん」
「だったら、その後にメッセージとかで言えたでしょ」
「直接言いたかった」
「なんでよ」
「望に一番に、目を見て伝えたかった」
胸が痛かった。今更そんなことを言わないでほしかった。
「そういうこと言うの、本当にずるいよね。海斗って」
「何が」
俺は大きく深呼吸をして、海斗の綺麗な目を見た。
「俺が、まだ海斗のこと好きだってわかってるくせに」
初めてだった。笑わずに、言い切った。逃げ道を残さなかった。
海斗は何も言わなかった。
俺は続けた。
「好き。めちゃくちゃ好き。顔がいいからとか、優しくされたからじゃない。もちろん顔はものすごく好きだし、優しいところも大好きだけど」
声が震えた。それでも、止めなかった。
「俳優の話をしているときの海斗が好き。客に怒られても逃げないところも、俺が課題をやってなくて怒るところも、メッセージだと少しそっけないところも全部好き」
「最後のは好きになる要素なの?」
「今、茶化さない」
「ごめん」
「海斗が売れて、ホテルにいなくなるのが嫌だなと思った。でも、それ以上に夢を追ってる海斗が好きだし、夢を諦めてここにいてほしいわけじゃない。俺は海斗がどこに行ったとしても、好き」
涙が出そうだった。
泣くのだけは嫌で、なんとか涙をこらえた。
「でも。もし困らせるなら、もう会わない。ちゃんと諦める」
海斗が、俺の腕をつかむ手に力を入れた。
「困ってない」
「じゃあ、何なの」
「怖かった」
予想してなかった海斗の言葉に驚いた。
「望は大学生で、これから就職して、ちゃんとした未来がある。でも俺は、来月の仕事すら分からない。俳優になれる保証もないし、急に地元に帰るかもしれない」
「だから?」
「そんな人間が、望の気持ちに応えていいのか分からなかった」
「それ、俺のためみたいに言わないでよ」
「分かってる」
海斗は、苦しそうに笑った。
「本当は、自分が傷つかないようにしてただけ」
俺をつかんでいた手がゆっくり下がった。
「望のいう〈好き〉が、ずっと冗談に聞こえてた。俺だけ、その言葉を本気して、ある日やっぱり違うって言われるのが怖かった」
「あれ?俺のせいじゃね」
「半分くらいは」
「そこは思ってても、全部俺のせいって言ってよ」
「俺も、もっとちゃんと望に聞けばよかった」
海斗が一歩近づいた。
相変わらず背が高い。いつもならその美しい顔を見上げるのに、今はまともに見られなかった。
「望」
「何」
「こっち向いて」
「うん」
恐る恐る顔を見上げると、あの綺麗な目が俺をまっすぐと見つめていた。
「俺も、望のこと好き」
時間が止まるという表現は正直、大げさな表現だなと思っていた。
でも、その瞬間だけは、ホテルの空調音も、外を走る車の音も、全部消えた気がした。
「本当に?」
やっと出た声は、情けない声だった。
「本当」
「いつから?」
「たぶん、望がお菓子を持って、わざわざ休みの日にホテルに来た時から」
「めっちゃ最初じゃん」
「そうだね」
「じゃあなんで、あんなに冷たかったの」
「別に、冷たくしたつもりはない」
「家に泊めてくれなかったし」
「あれは、正しい判断だったと思う」
「今も?」
海斗のことを見つめていると、ふいに海斗が俺から視線を逸らした。
耳が少し赤くなっている。
「今は酔ってないよね」
「飲んでない」
「後悔しない?」
「しない」
「約束できないって言ってたのに?」
「全部は約束できない」
海斗は静かに言った。
「俳優になれるかも分からないし、東京にずっといられるかも分からない。でも、今、望を好きなことは約束できる」
それで十分だった。むしろ、それ以上の約束なんて誰にもできないと思う。
俺は海斗のコートの袖を掴んだ。
「じゃあ、応えてよ」
「どうすればいい?」
「それ、俺に言わせちゃうの?」
「もう間違いたくないから」
「ほんと、真面目」
背伸びしてもまだ少しだけ遠い。
海斗が気づき、腰をかがめた。
近づいてくる顔を見たら急に恥ずかしくなって、俺は目を閉じた。あの目に求められているのは嬉しかったけど、恥ずかしかった。
唇が触れたのは、ほんの一瞬だった。
驚くほど優しくて、確認をするみたいなキスだった。
離れたあと、海斗は俺の顔を見て、少し心配そうに聞いた。
「大丈夫?」
「何が?」
「嫌じゃなかった?」
「嫌だったら、もう一回って言わない」
「え、もう一回するの?」
「しないの?」
海斗は、少し困ったように笑った。
二度目は、一度目よりも少し長かった。




