第12話 想い出の掛け時計
「なんだよっ このショボい食事は!」
ダン!!
食卓へ付くなり、テーブルを叩きながら怒鳴り出す夫の和重庸一。
「こっちは一日中働いて、疲れて帰ってきているっていうのに…めざし?! 和え物?! どこの田舎料理だよ!」
ガッシャーン!!
「きゃあ!」
夫が食器を食卓から落とす。
その音に震えながら叫び声を上げる妻冴子
「け、けれど…お金が……っ」
「金?! 毎月やってるだろうが! 5万も!!」
「そ、それだけではやっていけませんっ 光熱費の支払いをすると…」
バシッ!
言葉の途中で、夫に殴られた。
「口答えするなっ それをうまくやりくりするのが主婦の仕事だろうが!」
「そ…そんな…っ」
「もういい! こんなメシ食えっか!」
「あなたっ どこへ…っ」
夫は妻の問いには答えず玄関へと向かうと、勢いよく扉を閉めた。
バン!!
一瞬にして広がる静寂。
「…はぁ…」
冴子の溜め息が、やけに大きく部屋に響いた。
最初の頃は、夫に責められる度にただ泣いてばかりいた。
けれど今はもう…涙も出ない。
「人間…同じ事をされ続けると慣れてしまうものなのね……良い事も悪い事も……」
冴子は殴られた頬を押さえながら、冷めた目で壁にある掛け時計を見つめた。
それは新婚当初、二人で選んだものだ。
丸く型取られた木製作り。
回りを囲むように黒い鳥が複数飛んでいる。
秒針の先には小さな鳥が付いていた。
時を刻む度に鳥が飛んでいるようで可愛らしい。
『これ、素敵っ』
『本当だ、おしゃれだな。じゃあ、これにしよう』
二人で選んだ時計だったが、電池を替えても動かなくなってしまった。
今はただのインテリアとなっている。
「もともと不良品だったのね…」
新居で新しい時計とともに、この人と一緒にこの先も同じ時を刻んでいくのだろう。
そんな風に思っていた時もあった。
「今思えば…幸せな自分に酔っていただけなのかも…」
冴子は独り言ちながら、遥か昔を懐かしむかのように壁にある時計を見つめていた。
夫である庸一と結婚してもうすぐ2年。
同じ会社の先輩後輩の関係。
入ったばかりの私の教育担当になったのが庸一だった。
それから距離が縮まり、付き合うようになるのは自然の流れだった。
庸一からのプロポーズを純粋に喜んだ冴子は、本当に無思慮だった…と今になって後悔している。
結婚後、夫はすぐに本性を現わした。
「おまえと結婚したのは出世のためだ。じゃなきゃ、誰が地味で自主性のないおまえなんかと結婚するか」
忌々しそうに吐き捨てるように言い放つ庸一。
その豹変ぶりに、冴子は戸惑う事しかできなかった。
庸一の会社は出世するのに、既婚の方が出世が早いらしい。
家庭を持っている方が安定した人間に見えるからだろうか。
『なんでさっさと用意できないんだよっ グズ!』
『これで掃除したぁ!? 埃が残ってんだろっ この役立たずが!』
『おまえみたいな出来損ない、俺がいなかったら一生独身だったぞ』
『だから俺に感謝しろっ 跪いて感謝しろよ!』
毎日のように浴びせられる暴言。
それでも私は耐えるしかなかった。
彼は私以外の人間には、優しく真面目な人物として映っていたから。
いくら彼の本性を話しても、まともに聞いてもらえないだろう。
このままでは……
◇
「え、私が主任ですか!?」
庸一は部長室に呼ばれて、昇進の話を告げられる。
部長には仲人をしてもらっていた。
「ああ、正式な辞令は来週だからまだ公にしないように」
「わ、わかりましたっ」
「期待しているから頑張ってくれたまえ」
「はいっ ありがとうございます!」
部長室から出ると庸一は右手でガッツポーズをした。
「同期の中では俺が一番の出世だ! ざまぁみろっ!」
26歳で主任、30歳になる前に課長になれればな最高だな。
庸一は輝かしい自分の未来を想像し、ほくそ笑んだ。
「おい、帰ったぞ」
いつもは出迎える妻の姿が見えない。
「——ったく、何やってんだよっ」
庸一はぶつぶつ言いながらリビングに入る。
「おい!」
そこは食卓に座っている冴子がいた。
「いるなら出迎えろよ! クソにもならねぇな!」
「………これに記入して頂けますか?」
「あぁ!?」
ドカリと向かいに座る庸一。
「なんだ、これ…って……おい!」
緑の線が入ったA3サイズの薄っぺらい紙を見て驚いた。
離婚届だ。
既に冴子の名前は署名捺印済みだった。
「離婚して下さい」
「な、何を言ってんだ、突然!」
「突然ではありません。前から考えていました。もうあなたと一緒に暮らしたくありません」
「お、おいっ」
いつも大人しい冴子の反乱に庸一は当惑した。
冴子はスマホを庸一に向け、ある動画を見せた。
そこには庸一の冴子に対する暴言の記録がありありと映し出された
「い、いつの間にこんな…っ!」
スマホを奪い取り、動画を削除する庸一。
「消しても無駄よ。データは実家のパソコンに送っているから」
「さ、冴子…」
「あの時計、動いていないのにどうして飾っていたと思う? 隠しカメラを仕掛けていたの。音もしっかり拾える優れものよ。ちょうど電池を入れる部分が邪魔で取り外して仕掛けたの」
壁にかる木製の時計を指しながら話す冴子。
「か、隠しカメラ!?」
「あなたは外面だけは良かったから、私がいくらあなたの本性を言っても、誰も信じないと思った。だったら証拠を撮るしかないでしょ? 離婚する為に」
「り、離婚…? な、なんでそんなこと…っ」
「なんで? あんたみたいな男と一生いられるわけないじゃない」
「ま、待ってくれ! 離婚なんて…」
せっかく主任の内示が出たこの時に…
「出世に響くのかしら? 夫のDVによる離婚だなんて」
「でぃ…DV!? さ、冴子、落ち着いてくれっ ま、まずはきちんと話そう」
(落ち着くのはあなたの方だと思うけど)
そう思いながら冴子は夫に印鑑とペンを差し出した。
「サインをしていただけないのでしたら、このデータを会社へ送ります」
「!!……おまえ…後悔するぞっ」
庸一は殴るのを我慢するかのように、両手を握りしめた。
「今あなたと離婚しなければ、一生後悔します」
庸一は忌々し気に冴子を睨んだ。
「サインするんですか? しないんですか?」
けれど冴子は怯む事なく、庸一に決断を迫った。
「…サインすれば本当に会社には送らないんだな!?」
「…ええ」
(世間はコンプライアンス重視になっている。あんな動画を会社に送られたらアウトだ。くそ!)
庸一はサインせざるを得なかった。
冴子は離婚届を手に取ると立ち上がり、ドアへと向かった
部屋を出る際、最後に木製の掛け時計を見つめる。
動かなくなった時計は、ただ二人を眺めていた。
もう二度と時を刻む事はないだろう……
「…送らないわよ、…………は」
「え?」
バタン
妻の最後のつぶやきを、夫は聞き流した。
◇
「離婚の事は人事が確定してから総務に届ければいいさ。数日くらい遅れても大丈夫だろう。確かに良い印象は持たれないかもしれないが、今時離婚なんて珍しくもないだろうし。——ったく! こんな面倒な事をする女だったとはな!」
会社に着くと、一人ブツブツ言いながらイラついていた庸一。
「和重君、部長がお呼びだ」
出社早々、課長に声を掛けられた。
人事の事だな。本決まりになったのだろう。
そう考えると多少、重かった気持ちが軽くなるようだった。
コンコン
「入りたまえ」
「失礼いたします」
庸一は営業スマイルを存分に発揮していた。
しかし、部長の表情は呆れたように庸一を見ている。
「これが今朝届いていたんだ」
「はい…?」
そういって渡されたのは、一枚の便箋だった。
「!!」
最初の方は形式的な挨拶文となっていた。
そして…
『仲人をして下さったご夫妻には大変申し訳なく思っております。ただディスクをご覧いただいたように、結婚しても家族を守らない人間が、仕事に対して真摯に向き合えると思えません。会社はその点を今一度、お考えになった方がよろしいかと存じます。 敬具 井田冴子(婚氏:和重)』
「…私も奥さん…いや冴子さんの考えと同意見だよ」
部長の手元にはディスクが置かれていた。
そして昨夜、部屋を出る時つぶやいた冴子の言葉を思い出した。
『送らないわよ、会社には』
「ぶ、部長…っ こ、これは…その…」
「先日話した主任の件は忘れてくれ。話は以上だ」
「そんな……」
その後、離婚が成立し、元夫は地方へ飛ばされた。
【終】




