第1話:星を拾った夜(前編)[リメイク版]
「……クソッ、またフリーズしたか」
札幌市郊外、手稲山の山道。深夜の冷気が容赦なく肌を刺す静寂の中で、佐藤和也は小さく毒づいた。
かじかんだ指で握りしめたスマートフォンの画面には、無情にも『圏外』の二文字と、固まったままのメールアプリが虚しく光っている。画面の隅に表示された時刻は午前二時を回っていた。
和也が身を置いているのは、札幌市内にある中堅の電子機器メーカーだ。かつては独自の特許と尖った技術力で業界に名を馳せた時代もあったらしいが、今や大手電機メーカーの下請けに成り下がり、理不尽な納期と過酷なコストカットに追われる毎日だった。
今日も今日とて、現場の構造的欠陥を完全に無視した上層部からの無理な仕様変更指示が飛び交い、その尻拭いを押し付けられた和也は、休日を返上してデスクにかじりついていたのだ。限界を迎えた精神を冷却するため、衝動的に深夜の夜山へと逃げ込んできたものの、頭から仕事のストレスが消えることはなかった。
「技術の日本、なんていつの時代の幻想だよ……」
吐き出した白い息が、暗闇の中に溶けて消える。
「中を開けてみれば、コスト優先で買い叩いた海外製の汎用基板とパーツの寄せ集め。ガワだけそれっぽく整えたハリボテじゃないか。そんなものに俺たちの明日が、技術者の誇りがあるわけがない……」
和也は根っからのエンジニアだ。学生時代や入社直後は、新しい回路を設計し、自分の手で革新的な製品を生み出す夢に胸を躍らせていた。周囲から「天才」ともてはやされた過去もある。しかし、巨大な組織という無機質な歯車に組み込まれた今の彼には、すり減っていく時間と、創造性を否定されるルーチンワークしか残されていなかった。
夜の山を登るのは、誰にも邪魔されずに思考を整理するため。そして何より、この山頂近くから見下ろす札幌の夜景が、自分の抱える鬱屈や悩みなど、取るに足らないちっぽけなものだと思わせてくれるからだった。
だが——今夜の空は、いつもと決定的に違っていた。
ふと視線を上げて仰ぎ見た満天の星空。その漆黒のキャンバスを切り裂くように、ひとつの異質な光が横切った。
飛行機にしては速すぎ、流星にしてはあまりにも輝きが強く、そして鋭い。
その蒼白い光は、重力に従う落下運動ではなく、まるで意志を持っているかのような不自然なカーブを描きながら、和也が立っている展望デッキのさらに奥、山頂付近の深林へと吸い込まれていった。
「——っ!? なんだ、今のは……!?」
数秒の後。
ドスン、という破壊音ではなく、地響きのような重低音が和也の足元を大きく揺らした。
空気が微細に振動し、鼓膜の奥を揺さぶる。爆発による熱風も炎も上がらない。ただ、世界全体の波長が一瞬だけズレたかのような、不可思議な違和感だけが残った。
普通ならば、恐怖を感じて引き返す場面だろう。だが、疲弊しきっていた和也の脳裏に走ったのは、強烈なまでの「好奇心」だった。エンジニアとしての習性が、恐怖を軽々と塗り替えていく。
和也はヘッドランプのスイッチを押し込むと、白色LEDの強い光で夜の鬱蒼とした木々を照らし、道なき急斜面へと足を踏み出した。
雪と腐葉土の混じった土を踏みしめ、時に藪を漕ぎ、倒木を乗り越えて登ること三十分。
急に視界が開けたその場所に広がっていたのは、言葉を失うほどの異常な光景だった。
周囲の大木が、火災で焼けたわけでもなく、ただ「不可視の巨大な圧力で押し潰された」かのように、同心円状になぎ倒されている。そして、その中心——すり鉢状に凹んだ地面の真ん中に、それは静かに鎮座していた。
直径二メートルほどの、幾何学的な紋様が刻まれた漆黒の球体。
表面には継ぎ目もビスの跡も一切存在せず、まるで空間そのものを切り取ったかのような、深遠な闇の質感を湛えている。その表面を、青白い光のラインが静脈のようにうっすらと脈打っていた。
「隕石……じゃない。これは、間違いなく人工物だ……」
和也は息をのんだ。
最新鋭の5軸加工機や超精密レーザーを使っても不可能な、分子レベルで完全に均一な曲面。工業製品としての圧倒的な完成度と異質さに、和也の心臓は早鐘のように打ち鳴らされた。
冷え切った夜気の中で、その球体だけがかすかな温もりと燐光を放っている。
恐怖よりも先に、胸の奥から湧き上がるような衝動が立ち上る。これが何なのか知りたい。この構造はどうなっているのか触れてみたい。
吸い寄せられるように、和也は手袋を脱ぎ、素手をその漆黒の表面へと伸ばした。
指先が触れた、その瞬間——。
『——生体反応を確認。対象個体の生化学識別を開始します』
耳からではなく、脳の深部に直接響くような透き通った声が聞こえた。
「なっ……!?」
驚いて手を引こうとしたが、動かない。まるで強い磁力と表面張力が合わさったかのように、掌が球体にぴったりと吸着していた。
『言語プロトコルの最適化……処理完了。当惑星の地域支配的言語「日本語(JP)」を標準環境に設定。バイタルサインの計測。炭素基半有機生命体。遺伝子構造に致命的な破損なし。……暫定マスター登録プロセスを実行しますか?』
「誰だ!? どこから喋ってる!?」
和也は狼狽しながら周囲を見回したが、闇深き山中に自分以外の気配はない。
次の瞬間、球体の表面がまるで液体のように滑らかに波打った。そこから小さな「正六面体」がすっと分離し、重力を無視して和也の目の前、胸の高さでふわふわと浮遊し始めた。
『私は、銀河帝国第七外縁探査艦隊所属、自律型構造管理アドミニストレーター。識別名称【エリス】。……貴方の問いに答えるならば、私は「今の貴方の矮小な認知能力では理解し得ない奇跡」そのものです、マスター』
キューブの頂点から青白い光が放射され、空間に高精細な3Dホログラムが映し出された。
そこに現れたのは、透き通るような銀髪をなびかせ、人間離れした美しい造作の顔立ちをした少女の姿だった。軍服を思わせる洗練された意匠の衣装を纏った彼女は、冷徹で感情の窺えない瞳で和也を見下ろしていた。
まるで、路傍の石ころを見るような、あるいは実験室のプランクトンを観察するような視線。
『現時点での環境走査を完了。推定文明レベル:カテゴリー1未満。……あまりにも絶望的ですね。まさか、この星の知性体はいまだに化石燃料を燃やして大気を汚染し、自由電子を細い金属線に押し込めて運搬しているのですか?』
「化石燃料って……ガソリンや石炭のことか? 金属線は……送電線か。そりゃまあ、それが社会のインフラだけど……」
あまりのスケールの違いに、和也は圧倒されながらも答えた。
エリスと呼ばれたホログラムの少女は、眉をひそめ、これよがしに深く溜息をついた。その仕草はあまりに人間的で、しかしどこか人間を超越した気品に満ちていた。
『理解しました。私はとんだ未開の僻地に不時着してしまったようです。主機動力炉は休眠状態、次元跳躍素子も破損。……ですが、このまま自己修復プロセスを拒絶して消滅を待つのは、私のプライドが許しません』
エリスは宙で腕を組み、冷ややかな視線をまっすぐ和也の目に向けた。
『妥協しましょう。そこの、冴えない佇まいのエンジニア。貴方に、この星を「文明」と呼べる最低限の領域まで引き上げる試練と権利を授与します』
「権利……? 俺に、何をしろってんだ」
『簡単なことです。私の内に秘められた【銀河標準技術】のほんの一端を開放するだけで、この衰退の一途を辿る島国を、地球圏における絶対的な技術的中核へと作り変えることなど造作もありません。……どうしますか? くだらない組織の摩擦に磨り潰され、安い給料と不条理な労働にその短い寿命を費やし続ける人生を、このまま選択し続けますか?』
——安い給料。不条理な労働。磨り潰される人生。
エリスの放った言葉の一つ一つが、和也の胸の奥底に溜まっていた泥のような不満と、諦めかけていたエンジニアとしての情熱を激しく揺さぶった。
満員電車に揺られ、上司の機嫌を伺い、海外製品のコピーのような低価格品を作り続ける毎日。
本当は、もっと凄いものを作りたかった。
世界を驚かせるような、誰も見たことがないようなモノづくりがしたかったはずだ。
「……面白い」
和也の口から、自然と笑みがこぼれた。さっきまでの疲労感はどこかへ吹き飛び、全身の血が熱く脈打ち始めるのを感じていた。
「その『銀河標準』ってやつ、俺に見せられるか?」
エリスは一瞬だけ意外そうに目を細め、すぐに口元へ挑発的な笑みを浮かべた。
『ふふん。生意気な目をしますね。いいでしょう、契約成立です。それではマスター……まずはその、ポケットに入っている「ガラパゴス的進化を遂げた化石」をこちらに寄こしなさい』
エリスが繊細な指先で指し示したのは、和也がポケットから取り出した、フリーズしたままの安物スマートフォンだった。




