第20話 翻訳者
原稿を書き上げたのは、仁に会った十日後だった。
第一章から第三章まで。
三つの章は、三つの速度を持っていた。
第一章は速い。薬の夜に書いた、刃のような文章。
第二章は深い。字義と対話しながら書いた、呼吸する文章。
第三章は、その二つが交わる場所に書いた。
速さと深さが、一本の川の中で同時に存在する文章。
書けるとは思っていなかった。書いてみたら、書けた。
字義が物語の内側にいた。
書いている間ずっと、内側にいた。邪魔をしなかった。ただいた。
その気配が、文章の骨格に溶けていた。
完成した原稿を高田に送る前に、俺は一度、全部を声に出して字義に語った。
第一章から第三章まで、六時間かかった。
語り終えると、字義が長い間、黙っていた。
これまでで一番長い沈黙だった。
一時間以上、何も来なかった。
俺は待った。
急かさなかった。
字義の沈黙は、言葉を探しているのではなく、受け取ったものを全部抱えているときの沈黙だと、今の俺には分かった。
やがて、概念が来た。
今回は翻訳に時間がかかった。
量ではなく、密度が違った。
俺はゆっくりと言語化した。
「……この物語の中で、三人の人間が、それぞれ光を持っていた。一人は速く輝いて、消えかけた。一人は深く光って、向こうとこちらの境界で揺れている。一人は、光の形を変えながら、まだ光り続けている。三つの光が一本の物語の中にあって、互いを照らしている。俺はこれを、名前のない言葉で受け取っている。人間の言語には、これを表す一語がない。強いて言えば……」
俺は少し止まった。
「……お前が言いたいのは、共鳴、か」
光が揺れた。
肯定だが、それだけではない、という揺れ方だった。
「共鳴の先にあるもの、か」
また揺れた。
俺は少しの間、考えた。
それから言った。
「翻訳、か」
光が、今夜一番強く揺れた。
翻訳。
字義が言いたかったのは、この物語が翻訳だということだ。
速さと深さと変容の、それぞれの言語で書かれた三つの物語を、一本の物語という言語に翻訳したもの。
あるいは、人間の言語と、言語以前の概念を、互いに翻訳しようとした痕跡。
「俺は翻訳者だ、とお前は言いたいのか」
光が揺れた。
「天才でも、才能のある作家でもない。翻訳者」
肯定の揺れ。
俺は笑った。
声に出して、一人で、少しだけ笑った。
「担当編集者に、そう言ったら怒られるな」
字義の光も揺れた。
笑いの揺れ方で。
◇
原稿を高田に送った。
返信は翌朝来た。
『読みました。
第一章を読んだとき、怪物に会ったと思いました。
第二章を読んだとき、怪物が人間になっていくと思いました。
第三章を読んだとき、それはどちらでもなかったと分かりました。
神代さん、これは何を書いたんですか。
ジャンルが存在しない。でも、確かに存在する。
今すぐ会いたいです』
俺は返信を打った。
『翻訳を書きました。
近いうちに説明します』
◇
返信を送ったあと、字義に問いかけた。
「一つ、決めたことがある」
字義が待った。
「俺はこれから、お前との対話を続けながら書く。お前が俺の物語を必要としている限り、俺はそれを書く。だが、一つだけ条件がある」
「俺を通り抜けようとしないこと。お前は俺の傍にいる。俺の中に入らない。それだけだ」
字義がしばらく黙っていた。
それから概念が来た。
短くて、明確だった。
「……俺はお前の傍にいたい。お前の中には、入らない。お前がいなくなったら、お前の書いたものがある場所に行く。それで俺には十分だ」
俺は頷いた。
「それが、俺たちの契約だ」
光が揺れた。
静かに、長く。
◇
その夜、俺は机の前に座った。
パソコンの画面に、点滅するカーソル。
白い画面。
かつてこれが怖かった。
一行も書けない自分が、ここに晒されているようで。
今は違った。
カーソルが点滅するたびに、待っているのが分かる。
字義が、物語の始まりを待っている。
俺は、才能がない。
売れなかった。
高田に「華がない」と言われた。
今もそれは変わっていない。
ただ、今の俺には、億年生きた何かが傍にいる。
人類が最初に物語を作った夜から、ずっと光を見てきた何かが。
その何かが、俺の書くものを必要としている。
翻訳者で十分だ。
天才じゃなくて十分だ。
俺はキーボードに指を置いた。
タタタタタタタタッ。
打鍵音が、夜の部屋に響いた。
字義の光が、画面の近くで揺れていた。
物語が、始まった。




