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俺の小説を食べる何かに、名前をつけた  作者: 九条 蓮夜


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13/16

第13話 侵食の記録

 仁に会った翌日、担当者からメールが来た。


『神代様、昨日はお時間をいただきありがとうございました。

 安藤氏より、神代様への伝言があります。

 「日記を読め。ラボの端末に残してある。パスワードはサークルの合言葉だ」

 以上です。弊社は内容を把握しておりません。ご参考になれば幸いです』


 サークルの合言葉。

 文芸サークルで、俺と仁と、あと三人でいつも使っていた馬鹿げた合言葉。

 「空白は文章の一部だ」。

 当時の俺たちが、格好つけて決めたやつだ。


 仁の勤めていた製薬会社を調べた。

 解散はしていない。が、LANOSとの提携以降、研究の多くが移管されているらしい。社内の端末は、当然アクセスできない。


 だが、仁は「ラボの端末」と言った。会社のオフィスではなく、ラボ。

 仁が研究を行っていた実験室は、郊外に別にあったはずだ。今は稼働しているのか分からない。


 字義に問いかけた。


「お前は、仁がいた場所を知っているか。仁が最初にお前たちと接触した場所」


 しばらく間があった。


 ――知っている。光が変わった場所を覚えている。


「連れていけるか」


 ――お前の足で行く場所だ。俺は方向だけ分かる。


「それで十分だ」


          ◇


 字義の「方向」は、感覚的なものだった。

 右か左かを言葉で告げるのではなく、俺の視界の端で光が揺れる方向に向かって歩いていく。二時間かかって、工業団地の外れにある、三階建ての古いビルに辿り着いた。


 看板は出ていなかった。

 一階のシャッターは閉まっていたが、裏口に回ると、鍵がかかっていなかった。

 仁が仕掛けておいたのかもしれない。あるいは単に、もう誰も来ないから施錠する理由もなかったのか。


 二階に上がると、実験室があった。

 機材は残っていた。電源は落ちていたが、壁のコンセントに端末のコードを繋ぐと、電気は来ていた。

 パスワードを入力した。


「空白は文章の一部だ」


 端末が開いた。

 デスクトップに、「log」というフォルダがあった。


 日付は三年前から始まっていた。

 俺は最初のファイルを開いた。


          ◇


 日記は、研究者の文章だった。

 感情より先に観察が来る。起きたことを精密に記録する文体。


 最初期の記録には、興奮が滲んでいた。

 カプセルの開発経緯、LANOSとの提携の詳細、「情報栄養体」との初接触。仁は最初から、それを生物学的な現象として捉えていた。「これは新種の生命体との初接触だ。人類史上最大の発見になりうる」と書いていた。


 二ヶ月目から、変化が来た。

 「接触時間が長くなっている。自分でも気づかないうちに、対話状態に入っていることがある」

 「睡眠中に、概念の侵入がある。夢と区別がつかない」

 「思考の速度が、接触なしの状態でも上がっている。これは長期的な脳構造の変化か」


 三ヶ月目。

 文体が変わり始めた。

 観察者の文章ではなく、当事者の文章になっていた。


 「今日、自分の言葉で考えていたと思ったことが、実は向こうの概念だったと気づいた。境界が薄くなっている。これは問題かもしれないが、問題だと思う感情が、俺のものかどうか分からない」


 五ヶ月目。


 「LANOSは俺の状態を知っている。だが止めない。むしろ進捗として記録している。俺はサンプルだったのか。最初から」


 六ヶ月目。


 「紡に渡すことにした。あいつなら何か分かるかもしれない。あいつの書くものなら、向こうも好む。俺が伝えられなかったことを、あいつが書けるかもしれない。これが俺の判断なのか、向こうに誘導された判断なのか、もう分からない。でも、する」


 最後の記録はその翌日だった。


 「カプセルを渡した。居酒屋に、LANOSの人間もいた。気づいていたが、止められなかった。あるいは止める気がなかった。どちらか自分でも分からない。

 紡へ。お前が読むかどうか分からない。でも書いておく。

 名前をつけろ。話せるなら、名前をつけることから始めろ。俺はそれをしなかった。それだけは後悔している」


 俺は画面から目を上げた。

 実験室は暗かった。窓の外、工業団地の向こうに、街の明かりが見えた。


 字義の光が、端末の画面の近くで揺れていた。


「読んだか」


 字義が少し間を置いた。


 ――読んだ。仁は俺たちを、最後まで観察していた。でも最後の日記は、観察じゃなかった。


「ああ」


 ――お前への手紙だった。


「そうだな」


 俺は端末を閉じた。

 フォルダの最後に、「nano.txt」というファイルがあることに気づいた。

 仁の日記とは別ファイルだった。

 開くと、一行だけ書いてあった。


『NANOSとは何か。俺たちが彼らの栄養になるのではなく、彼らが俺たちの何かになれるとしたら、何になれるか。それだけ考えてくれ』


 俺はその一文を、三度読んだ。

 そしてノートを取り出し、書き写した。

 字義の光が、そのノートの上で、静かに揺れていた。

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