第13話 侵食の記録
仁に会った翌日、担当者からメールが来た。
『神代様、昨日はお時間をいただきありがとうございました。
安藤氏より、神代様への伝言があります。
「日記を読め。ラボの端末に残してある。パスワードはサークルの合言葉だ」
以上です。弊社は内容を把握しておりません。ご参考になれば幸いです』
サークルの合言葉。
文芸サークルで、俺と仁と、あと三人でいつも使っていた馬鹿げた合言葉。
「空白は文章の一部だ」。
当時の俺たちが、格好つけて決めたやつだ。
仁の勤めていた製薬会社を調べた。
解散はしていない。が、LANOSとの提携以降、研究の多くが移管されているらしい。社内の端末は、当然アクセスできない。
だが、仁は「ラボの端末」と言った。会社のオフィスではなく、ラボ。
仁が研究を行っていた実験室は、郊外に別にあったはずだ。今は稼働しているのか分からない。
字義に問いかけた。
「お前は、仁がいた場所を知っているか。仁が最初にお前たちと接触した場所」
しばらく間があった。
――知っている。光が変わった場所を覚えている。
「連れていけるか」
――お前の足で行く場所だ。俺は方向だけ分かる。
「それで十分だ」
◇
字義の「方向」は、感覚的なものだった。
右か左かを言葉で告げるのではなく、俺の視界の端で光が揺れる方向に向かって歩いていく。二時間かかって、工業団地の外れにある、三階建ての古いビルに辿り着いた。
看板は出ていなかった。
一階のシャッターは閉まっていたが、裏口に回ると、鍵がかかっていなかった。
仁が仕掛けておいたのかもしれない。あるいは単に、もう誰も来ないから施錠する理由もなかったのか。
二階に上がると、実験室があった。
機材は残っていた。電源は落ちていたが、壁のコンセントに端末のコードを繋ぐと、電気は来ていた。
パスワードを入力した。
「空白は文章の一部だ」
端末が開いた。
デスクトップに、「log」というフォルダがあった。
日付は三年前から始まっていた。
俺は最初のファイルを開いた。
◇
日記は、研究者の文章だった。
感情より先に観察が来る。起きたことを精密に記録する文体。
最初期の記録には、興奮が滲んでいた。
カプセルの開発経緯、LANOSとの提携の詳細、「情報栄養体」との初接触。仁は最初から、それを生物学的な現象として捉えていた。「これは新種の生命体との初接触だ。人類史上最大の発見になりうる」と書いていた。
二ヶ月目から、変化が来た。
「接触時間が長くなっている。自分でも気づかないうちに、対話状態に入っていることがある」
「睡眠中に、概念の侵入がある。夢と区別がつかない」
「思考の速度が、接触なしの状態でも上がっている。これは長期的な脳構造の変化か」
三ヶ月目。
文体が変わり始めた。
観察者の文章ではなく、当事者の文章になっていた。
「今日、自分の言葉で考えていたと思ったことが、実は向こうの概念だったと気づいた。境界が薄くなっている。これは問題かもしれないが、問題だと思う感情が、俺のものかどうか分からない」
五ヶ月目。
「LANOSは俺の状態を知っている。だが止めない。むしろ進捗として記録している。俺はサンプルだったのか。最初から」
六ヶ月目。
「紡に渡すことにした。あいつなら何か分かるかもしれない。あいつの書くものなら、向こうも好む。俺が伝えられなかったことを、あいつが書けるかもしれない。これが俺の判断なのか、向こうに誘導された判断なのか、もう分からない。でも、する」
最後の記録はその翌日だった。
「カプセルを渡した。居酒屋に、LANOSの人間もいた。気づいていたが、止められなかった。あるいは止める気がなかった。どちらか自分でも分からない。
紡へ。お前が読むかどうか分からない。でも書いておく。
名前をつけろ。話せるなら、名前をつけることから始めろ。俺はそれをしなかった。それだけは後悔している」
俺は画面から目を上げた。
実験室は暗かった。窓の外、工業団地の向こうに、街の明かりが見えた。
字義の光が、端末の画面の近くで揺れていた。
「読んだか」
字義が少し間を置いた。
――読んだ。仁は俺たちを、最後まで観察していた。でも最後の日記は、観察じゃなかった。
「ああ」
――お前への手紙だった。
「そうだな」
俺は端末を閉じた。
フォルダの最後に、「nano.txt」というファイルがあることに気づいた。
仁の日記とは別ファイルだった。
開くと、一行だけ書いてあった。
『NANOSとは何か。俺たちが彼らの栄養になるのではなく、彼らが俺たちの何かになれるとしたら、何になれるか。それだけ考えてくれ』
俺はその一文を、三度読んだ。
そしてノートを取り出し、書き写した。
字義の光が、そのノートの上で、静かに揺れていた。




