第88話 新章・終幕
ホテルに着くと、僕はすぐにタクシーを降り、焦るように足を速めた。
ロビーを突っ切り、喫茶店のあるエリアへと向かう。
息が詰まるほどの緊張。
葵は——。
そう思って辺りを見回すと、視線の先に二人の姿が映った。
喫茶店の奥、向かい合うように座る葵と幸田。
その距離は近すぎるほどで、まるで親しい関係に見えた。
僕は思わず足を踏み出した。
だが、その瞬間——
「待って!」
後ろから、雅が僕の腕を掴んだ。
「……どうして?」
戸惑いながら振り返ると、雅は真剣な目で僕を見つめていた。
「お願い……」
その一言に、僕は喉が詰まる。
歯がゆさを押し殺しながら、雅に促されるまま足を止めた。
葵と幸田のいるテーブルに、できるだけ近づく。
大きな柱の陰に身を潜めると、向こうの会話がはっきりと耳に入った。
神楽や真凛、蘭子たちも、遅れて息を呑みながら隠れる。
そして——突然。
「……っく……う……」
か細い、震えるような声。
葵が、泣いていた。
僕の心臓が一気に跳ね上がる。
ダメだ。
今すぐ——。
衝動的に動こうとした瞬間、再び雅の手が伸び、僕を押し留めた。
「……っ!」
耐えがたい焦燥が胸を突く。
どうして止める?
葵が泣いているのに。
「雅——」
問い詰めようとした、その時。
葵が、ふいに立ち上がった。
「幸田さん、せっかく誘っていただいたのにごめんなさい! 私、行かなきゃ……!」
「え?」
幸田の困惑した声が響く。
「行かなきゃって……どこへ?」
葵は少し息を吸い込むようにして——
「啓の——」
言いかけて、かぶりを振った。
違う。
彼女はもう、迷っていなかった。
だからこそ、はっきりと言い直す。
「大好きな人の所に!」
胸が、一瞬で熱くなった。
まるで時間が止まったかのように、世界が葵の言葉で満たされる。
雅が、微笑みながら涙を浮かべて呟いた。
「読んだのね……葵」
後ろにいる神楽や真凛、蘭子も、息を呑んでその光景を見つめていた。
しかし、その静寂を打ち破るように——
「ふ、ふざけるな!!」
低く、荒々しい声が響いた。
喫茶店の空気が、凍りつく。
幸田は、拳を握りしめ、顔を歪めていた。
唇を噛み、耐え難い怒りを押し殺しているかのようだった。
「……何を言ってるんだ、葵ちゃん……?」
かすれた声で、今にも爆発しそうな勢いで。
「僕が、どれだけ君を——」
そこまで言ったところで、彼はギリッと歯を噛み、
「……ふざけるなよ……!!」
今度は怒号となって、その言葉が放たれた。
「どいつもこいつも、啓、啓、啓!!!」
幸田の荒々しい声が喫茶店内に響き渡る。
血走った目、顔を真っ赤にし、肩を上下させながら、荒い息を吐いている。
まるで、ここまで積み重ねてきたすべてが崩れ去ったかのような狂気。
「もうたくさんだ! 来い!」
そう叫ぶなり、幸田は葵の手首を乱暴に掴んだ。
「や、やめてください!」
葵が必死に抵抗する。
「うるさい! いいから来い!!」
異様な雰囲気に、周囲がざわめき始める。
その時、店のスタッフが慌てて駆け寄った。
「お客様、困ります! そんな風に騒がれては……!」
しかし、幸田は嘲笑うように鼻を鳴らし、鋭い目つきでスタッフを見下ろす。
「俺が誰だか知らないのか!? 支配人を呼べ! 今すぐお前をクビにしてやってもいいんだぞ!!」
その一言で、スタッフの顔が一気に青ざめる。
恐怖に足をすくませる彼を横目に、幸田は葵の手をさらに強く引いた。
「何をするつもりなんですか!?」
葵が必死に言葉を絞り出す。
すると、幸田は醜く顔を歪め、ねっとりとした声で低く囁いた。
「お前を、めちゃくちゃにしてやるんだよ……そして、啓に思い知らせてやる……どちらが上かってことを……」
——その言葉が、最後まで紡がれることを、僕はさせなかった。
幸田の体が弾かれるように、後方のテーブルへと弾き飛ばされた。
衝撃音が響き、店内が静まり返る。
「……なっ……」
目を見開く葵の前に、僕はゆっくりと立ち上がった。
「さ、させない……させるもんか……」
痛む肩をさすりながら、荒い息を吐く。
「……なんで、ここに……?」
震える声で問いかける葵を背に、僕は幸田を睨みつけた。
幸田は、床に倒れ込んだまま、ゆっくりと起き上がる。
髪は乱れ、ネクタイは曲がり、顔面に赤い痣ができ始めていた。
しかし、怯むどころか、狂気をさらに滲ませた笑みを浮かべる。
「貴様さえ……貴様さえいなければ……」
低く、かすれた声が漏れる。
ゆらりと立ち上がり、何かに取り憑かれたような足取りで近づいてくる。
「貴様さえいなければ……!!」
その瞬間。
「寝言は寝て言え……」
冷ややかに響いた女の声。
次の瞬間、僕の脳裏にフラッシュバックする姿。
一陣の風が通り過ぎた。
風の正体——響姉。
瞬く間に幸田の前に立ち、彼が「貴様っ!」と叫びながら飛びかかる。
だが——。
響姉の動きは、一瞬だった。
彼女の鋭い視線が幸田を捉え、瞬時に重心を低くし、次の瞬間、鋭い回し蹴りが放たれた。
——強烈な蹴りが、幸田の股間に炸裂した。
「がっ……!!!」
幸田の顔が青白く染まり、無言で口を開けたまま、その場に固まる。
一秒後。
彼は声すら出せぬまま、股間を押さえ、膝をつき、そのまま倒れ込んだ。
喫茶店内が、静寂に包まれる。
「…………」
僕は、息を飲んだ。
こ、これは——痛そうだ……。ていうか響姉、抜け出してきたのか……。
振り返ると、雅も神楽も、真凛も蘭子も、全員が青ざめた顔で沈黙していた。
そんな中、バタバタと駆け寄ってくる足音が聞こえた。
ホテルの警備員たちだ。
「どうしました!? 何が……!」
響姉はさも当然といった顔で、倒れた幸田を指さした。
「公衆の面前で暴力行為、さらには女性を無理に連れ去ろうとした。犯罪行為だろ?」
警備員たちは互いに顔を見合わせ、すぐさま幸田を囲む。
そして、その背後から——
「新しい証拠、げっとだぜ!」
蘭子がスマホを掲げ、満面の笑みを浮かべた。
僕は驚き、思わず葵の方を見る。
葵も、困惑しながら僕を見返す。
しかし、次の瞬間——
二人して、思わず吹き出した。
「……ははっ……」
「ふふっ……」
こんな状況なのに、なんだか笑えてきてしまった。
涙を流した葵の顔には、まるで雲間から差し込んだ陽の光のような、すっきりとした笑顔が浮かんでいた。




