第87話 新章・涙の先にあった答え
ホテルのロビーにある喫茶店に着いたのは、待ち合わせの時間より随分と早かった。
別に急ぐ必要なんてなかったのに、気づけば足が勝手にここへ向かっていた。外の寒さに身を縮めながら、私は店内の端の席へと向かう。
落ち着いた雰囲気の店内は、休日の昼下がりのせいか、それほど混み合ってはいなかった。小さなカップの音が響くたびに、心が静かに沈んでいく。
「ご注文は?」
店員の問いかけに、私はメニューを開くことなく「紅茶を」とだけ答えた。
少し熱めの紅茶。甘くもなく、苦すぎもない、ただじんわりとした温もりが喉を通る飲み物。それだけで良かった。
カップが運ばれてくると、私はゆっくりと鞄を開け、中から一冊の本を取り出す。
啓の書いた小説——『二人と一人』。
『もう一度勇気を出して読んでみて……きっと、それが葵の支えになってくれるはず』
雅が電話で言ってくれた言葉が、不意に頭の中を過る。
もう何度もページをめくり、繰り返し読んできた。けれど、最後だけはまだ読めていない。
——怖い。
それが自分の正直な気持ちだった。
もし、もしもこの物語の結末で、啓が選んだのが私ではなかったとしたら——。
いや、そんなことはもう分かりきっている。
雅も神楽も真凛も、啓の周りには前に進もうとしている人たちがいる。そこに、今さら私が入り込める余地なんてない。
それなのに、期待してしまう。
最後のページに、何か救いがあるのではないかと。
唇を噛みしめ、震える指でページを開く。
——主人公が、二人の幼馴染と対峙し、思いを告げる場面。
読み進めようとして、視界が滲む。
思い出してしまう。
鷹松や小夏に騙され、啓を批難し、傷つけたこと。
あの時、私は何も知らずに、ただ啓を否定することしかできなかった。
だけど、襲われそうになった時、啓は助けに来てくれた。
どうしようもないくらい、私は啓に迷惑をかけて、どうしようもないくらい、啓に救われてきた。
——啓が好き。
それは、もうとっくに分かっていた。
でも、もう遅い、何もかも。
手が震える。
こんなことなら、もっと早く、素直になれていれば——。
どれだけ悔やんでも、過去は変えられない。
私は、小さく息を吐き、震える手を抑えるようにして紅茶のカップを手に取った。
——しかし、指先の震えは止まらず、カップがわずかに傾く。
次の瞬間、紅茶がカップの縁を伝い、テーブルの上にこぼれた。
「あ……!」
慌ててナプキンを取ろうとするが、手がうまく動かない。
「大丈夫?」
背後から、穏やかな声が響く。
振り返ると、そこに立っていたのは幸田さんだった。
「あ……は、はい、すみません」
呟く私を見て、幸田さんは優しく微笑む。
「気にしないで。ちょっと待ってて」
そう言うと、彼はすぐに店員を呼び、片付けを頼んだ。
そのスマートな対応に、思わず「ありがとうございます」と小さく頭を下げる。
すると、彼は柔らかく微笑んだ。
「礼なんていいさ。気にしなくていい」
——この人は、本当に優しい。
そんなふうに思った瞬間、ほんの少しだけ、心の中の渦が静まる気がした。
スタッフがテーブルに駆け寄り、手際よくこぼれた紅茶を拭き取る。
私は邪魔にならないようにと、本をそっと脇へどけた。
「僕が持っておこうか?」
幸田さんが、柔らかく微笑みながら手を伸ばす。
「あ……すみません」
本を手渡すと、彼はそれをちらりと見つめ、ほんの一瞬、表情が僅かに揺らいだ。
でも、それはほんの一瞬。
すぐにいつもの穏やかな笑顔へと戻る。
「……『二人と一人』か」
その名前を口にした時、ほんの僅かに低いトーンになった気がした。
「この本、もう読んだ?」
何気ない調子で聞かれる。
私はしばらく黙ったまま、紅茶の染みを拭き取るスタッフの動きを目で追っていた。
けれど、隣にいる幸田さんの視線を感じる。
ゆっくりと首を横に振った。
「怖くて……読めないんです」
呟くように言った自分の声は、思った以上に小さく聞こえた。
「怖いって?」
幸田さんが、少し首を傾げる。
私は喉が詰まるような感覚を覚えながらも、なんとか言葉を絞り出した。
「……もし、結末が……自分の期待と違ったものだったら……それを知るのが、怖いんです」
沈黙が重く落ちる。
カップを持つ手にわずかに力が入る。心の奥でざわつく感情を抑え込むように、紅茶の湯気を見つめた。
何も言えないまま、胸の奥に絡みつく不安だけが広がっていく。
そして、すぐに幸田さんは、まるで何かを見透かしたように微笑んだ。
「なるほど……確かこれは、先生が実体験を基に書いたものだよね?」
私は黙って頷く。
幸田さんは、本の表紙を指先で撫でながら、軽く息を吐いた。
「正直、僕はどうかと思ってるんだよね。この話の終わり方」
「……え?」
私は思わず顔を上げる。
幸田さんは、その反応が面白いとでも言うように、肩をすくめながら続けた。
「だってね、こんな優柔不断な考え方、僕には理解できないんだよ。結局どっちも選べなくて、ただ苦しんでるだけじゃないか。そんなに悩むくらいなら、最初からどちらかを手放せばいいのに……と思わない?」
「……」
「終盤なんて、まるでぐずぐずと煮え切らない主人公の自己憐憫を見せられてるみたいでさ、正直読んでてイライラしたよ。本当に好きなら、きちんと一人を選ぶべきだろう? なのに、結局最後まで中途半端で、誰も幸せにできていない気がするよね?」
「……」
「先生は現実でもこんな感じなのかい? 優柔不断で、何も決められなくて、結局誰のことも幸せにできない……そんな男なの?だとしたら読むのはやめておいた方がいいかもしれないね、君が思っているほど、この物語は純愛ではないよ。むしろ主人公の葛藤がメインってとこかな」
幸田さんの言葉が、笑顔のまま、鋭く突き刺さる。
「僕なら、こんなみっともない話にはしないよ。だってそうだろう? 本当に愛しているなら、迷う理由なんてない。どちらも捨てられないなんて、ただの甘えだよ」
軽やかな口調でありながら、その言葉はじわじわと胸の奥に沈み込む。
「……君は、そんな男の物語に、何を期待しているの?」
優柔不断? 選びきれなかった? 葛藤?
その言葉が、頭の中で鈍く反響する。
違う。そんなふうに考えたことはなかった。
——でも、本当にそうだったのか?
昔の記憶が、波のように押し寄せる。
あの約束の日。
雅が「私を物語の主人公にして」とお願いし、啓が頷いた。
その時。
私は衝動的に言った。
「わたしも、主人公にして」
その言葉を口にした自分の気持ちが、今になってやけに鮮明に蘇る。
わかっていた。
啓が雅を選ぶことは、最初から決まっていた。
だけど、せめて。せめて物語の中だけでも、啓の隣にいたかった。
そんな、ひどく幼い願いだった。
——でも。
啓は、それに悩んで、苦しんだ?
私は、息が詰まるような感覚を覚えた。
そんなはずはない。啓は優しいから、ただ私の願いを受け入れたかっただけ、私は雅のついでだったはず——。
なのに……なのになぜそこまで啓は苦しんだの……?
心臓が強く脈打つ。
次の瞬間、反射的に幸田さんの手から本を奪い取っていた。
「……葵ちゃん?」
驚いたような幸田さんの声が、遠く聞こえた。
私は震える指で、表紙を握りしめる。
……読まなきゃ。
今すぐ、この本の結末を。
私は震える指先でそっとページをめくった。
視界の端で、幸田さんが怪訝そうな顔をしているのが分かった。
でも、そんなことはどうでもよかった。
私の目は、ただ物語の文字を追いかけることに必死だった。
——主人公は、二人の幼馴染を前にして、選ぶことができなかった。
どちらも大切で、どちらも手放せなくて、心が引き裂かれるような思いを抱えたまま、ただただ苦しんでいた。
言葉にできないほどの葛藤。
どうしようもないほどの苦悩。
ページをめくるたびに、その痛みが胸に染み込んでいく。
——私は、ずっと分かっていなかった。
啓は悩まなかったわけじゃない。
迷わなかったわけじゃない。
彼も、苦しんでいたんだ。
——私が思っていたよりも、ずっと、ずっと深く。
気がついたら、ぽろりと涙が零れていた。
「……っ」
慌てて目元を拭うけれど、止まらない。
それどころか、次から次へと溢れてくる。
幸田さんが驚いたように息を呑んだ。
「葵ちゃん? どうしたの?」
声をかけられても、私は答えられなかった。
手の甲で涙を拭いながら、それでもページをめくる。
——結局、主人公はどちらを選んだのか分からないままだった。
でも、それでも——。
二人と一人は、いつまでも一緒だった。 どこまでも共に歩き、いつまでも幸せに生きた。
それだけは、確かだった。
「あ……」
嗚咽が喉の奥で震えた。
自分なんて雅のついでだった——そう思っていた考えが、すべて崩れ去っていく。
そんなことは、最初からなかった。
啓は、私を——私たちを、どうしようもないほど、愛してくれていたんだ。
それを知らずに、ずっと一人で苦しんでいたなんて。
胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
涙がゆっくりと止まる。
気がつけば、私は笑っていた。
「……ふふっ」
こぼれた笑みに、幸田さんが戸惑ったように眉をひそめる。
「葵ちゃん……?」
私はそっと目元を拭い、幸田さんを見上げた。
「いえ……もう、大丈夫です」
幸田さんの顔が、わずかに曇る。
「……どういう——」
その言葉を最後まで聞く前に、私は立ち上がった。
「幸田さん、せっかく誘っていただいたのにごめんなさい! 私、行かなきゃ……!」
「え?」
幸田さんが目を見開く。
「行かなきゃって……どこへ?」
私は、カバンを掴み、息を吸い込んだ。
そして——
「啓の——」
一度、言いかけて首を振る。
違う。
私は、もう迷わない。
だから——
「大好きな人の所に!」
最高の笑顔で、私はそう言い放った。




