第86話 新章・残された火種
白いカーテンが静かに揺れ、柔らかな光が窓から差し込んでいる。静寂に包まれた病室には、ふわりとした布の香りが漂い、遠くで微かに廊下を行き交う人々の気配が感じられた。
病室の中央にはベッドが置かれ、その上には響姉が静かに横たわっていた。いつもの余裕のある笑みはなく、少しばかり顔色が悪い。僕はベッドのすぐ横に椅子を引き寄せ、心配そうに彼女を見つめる。
「響姉……」
声をかけると、響姉は目を細めて僕を見やり、穏やかに微笑んだ。
「そんな顔をするな、啓……こんなの、寝てればすぐ治る」
「こんなのって、あばら骨が折れてるんだよ!」
思わず声を荒げると、響姉は肩をすくめた。
「分かった分かった、そう大きな声を出すな。骨に響くだろ」
軽口を叩く余裕はあるらしい。だが、それでも怪我の重さを思えば、とても楽観できる状況ではない。
ホテルでの一件を終え、僕は響姉が運び込まれた病院へ来ていた。響姉の横には、彼女に付き添ってくれていた真凛。そして、作戦に協力してくれた蘭子と神楽も揃っていた。
「そういえば、阿久津の奴もこの病院に運び込まれたらしいな」
響姉がふと真凛に問いかける。
真凛は苦笑しながら答えた。
「ええ、警察に事情を聴かれてたみたいですけど、何も答えないまま病院に運ばれてましたね」
それを聞いて、響姉が口元をニヤリと歪める。
「ふん、あいつ、女の私に負けたのが余程ショックだったんだろうな。誰にも言えないなんて、可愛いところあるじゃないか」
「可愛いって……」
神楽が怪訝そうな顔をしながら響姉を見つめる。
「あれを可愛いって言える響子さん、凄すぎ……私からしたらただの化け物だったわよ……」
「私も……もうあんな戦い観たくないです……ショックで……」
真凛が眉を寄せ、ふと顔を上げて蘭子を見る。
「そういえば、作戦は成功したんですよね? 幸田さんの弱みって何だったんですか?」
一瞬、空気が凍りついた。
「え? あ、え~と、私の口からは何とも……真凛さんにはまだ早いというか、なんというか……ね、ねえ神楽さん?」
蘭子が強引に神楽へ話を振る。
「ちょっ、私に振らないでよ! え、え~とね真凛、幸田の弱みは……は、啓!」
「え? 僕!?」
慌てて振られ、思わず目を泳がせる。
「あ、いやその、ま、真凛にはまだ早いと思うよ! う、うん!」
「む~! なんですかそれ! 私だけのけ者にしないでください! はじめ君!」
頬を膨らませながら詰め寄ってくる真凛。僕は目を逸らしながら必死に言い訳を考えていた。
その時、病室のドアが勢いよく開いた。
「響子さん!」
入ってきたのは雅だった。
「雅!? どうしてここに?」
僕が驚いて訊ねると、雅は息を整えながら答えた。
「どうしたもこうしたもないわよ。何度も電話したけど繋がらないから、家の方に電話したら、今みんな病院にいて響子さんが怪我をしたって聞かされたのよ。もう、いったいどうなってるわけ?」
「母さんも来てるのか?」
響姉が雅に尋ねる。
「あ、はい、今先生に話を伺ってるみたいです」
その言葉に、響姉は困ったように眉を寄せた。
「そうか……今回はかなり絞られそうだな……はあ……」
しょぼんとする響姉。その様子に、神楽と真凛、蘭子がクスクスと笑う。
しかし、雅はふと表情を変え、僕に向き直る。
「そうだ啓!」
突然、焦ったように僕の名を呼ぶ雅。何か重大なことを思い出したようだった。
「な、何、雅?」
「葵とまた連絡がつかなくなって、さっき家に様子を見に行ったんだけど、いなくって……」
「葵が?」
葵が学校に来なくなってから、ずっと気になっていた。神楽とホテルに入るところを目撃されて以来、一度も顔を合わせていない。それが余計に心に引っかかっていた。
すると、雅が息を呑むように言葉を継いだ。
「なんだか嫌な予感がして、どこに行ったのか尋ねたら、葵のお母さんが『知り合いの声優さんとパンケーキの美味しい喫茶店で会う約束をしてた』って、葵のお母さんが……」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で何かがつながった。
「声優の先輩……?」
呟いた直後、全身に悪寒が走る。
「もしかして、その声優の先輩って……!」
「さっきのホテルの一階にある喫茶店、確かパンケーキが美味しいってテレビでも取り上げられてましたよ!」
蘭子の言葉に、一同の表情が凍りついた。
「何? 何か知ってるの啓?」
状況が呑み込めない雅が、僕に詰め寄る。
「葵がまずいことに……!」
血の気が引く。まずい、本当にまずい……! 葵があいつに狙われたら……!
「タクシー呼んでくる!」
神楽が鞄を掴んで勢いよく立ち上がると、すぐにスマホを取り出して操作しながら病院の廊下を駆け出した。焦りのあまり、廊下の看護師にぶつかりかけるほどの勢いだ。
「ちょっと啓!」
雅が僕の腕を掴んで詰め寄る。
「説明している暇がないんだ雅、行きながら話そう!」
僕は急いで上着を掴み、病室を飛び出した。不安と焦りで胸が締め付けられる。まずい、本当にまずい。葵を……救わなきゃ。
息が荒くなる。足元が震えそうになるが、そんなことを気にしている場合じゃない。
そう考える余裕もなく、僕たちは急いで病院を後にした。




