第85話 新章・決戦は二曜日(8)
扉のノックが響いた。
……くそっ……! いいところだったのに!!
頭の中で噛み締めた怒りを表に出さぬよう、俺は深く息を吐いた。苛立ちを抑えながら、チラリと蘭子を見る。
「……私が出ますね」
俺は適当に返事をした。
「ああ、頼むよ」
蘭子は静かに立ち上がると、シーツを軽く払いながらベッドから降りた。足を床に下ろす動作は慎重で、カーペットの上をゆっくりと歩き出す。部屋の空気が重く沈黙している中、彼女は迷いなく扉へと向かった。
俺はぼんやりとその背中を眺めていた。扉までの距離はたった数歩。だが、蘭子の動きが妙にゆっくりに見えたのは気のせいか? まるで何かを確かめるように、あるいは決意を固めるように、一歩ずつ踏みしめていく。
やがて、彼女はドアの前に立ち、ノブへと手を伸ばした。
その瞬間だった。
「先生~! 私頑張ったよ~! 褒めて~!」
……は?
瞬間、違和感が脳を駆け巡る。何が起きた? どういうことだ?
俺の体が一瞬にして冷たくなる。胸がざわつき、得体の知れない不安が腹の底から湧き上がった。
跳ね起きるようにベッドを蹴り、足元がもつれながらも床を踏みしめる。重心が不安定なまま、乱暴にシーツを押しのけ、視線を扉へ向けた。
身体が熱を持ち始める。嫌な予感がする。ノックの音がまだ耳に残っている。
一歩、二歩。床を踏むたびに苛立ちが増していく。心臓が異様なほど速く脈打ち、手がじっとりと汗ばむ。
扉の前まで来ると、目の前の光景が視界に飛び込んできた。
ルームサービスのバイトの子……だったはずの少女。蘭子に抱きつかれている。だが、それだけではない。
その背後には、篠宮神楽。
俺は瞬時に混乱した。
「な、なんだこれは!? どういうことだ!!」
「それはこっちが聞きたいですよ、幸田さん……!」
少女の声が変わった。
低く、男の声だ。
理解が追いつかないまま、目の前のバイトの子が突然、自分の髪を掴み、床に投げ捨てた。
カツン。
無機質な音とともに、落ちたウィッグ。
俺の呼吸が止まった。
「か、かつら……だと!?」
ハッとして顔をよく見る。
男……!
「な、何だ貴様!? なぜ女装なんか……!」
パニックだった。意味が分からない。何が起きている!?
「も、もしかして貴様、そういう趣味の変態か!?」
「変態はお前だ!」
少年の声と神楽の声が同時に響く。
脳が焼けるように熱を持った。訳が分からない。何を言っている!?
「う、うるさい! だいたい神楽ちゃん! なんで君がここにいるんだ!?」
俺は神楽を指さしながら、問い詰める。
だが、蘭子がそんな俺を無視しするように、突然部屋の奥へ歩き出した。
「お、おい、待て、どこへ行く?」
不安が込み上げる。
蘭子は振り向かない。そのまま静かに奥の部屋へと向かう。
何をしている……? 嫌な予感が胸を締め付ける。
蘭子は部屋の奥に入り、ごそごそと何かを探すような音を立てる。ベッドの脇にしゃがみ込み、バッグを漁るような仕草が見えたかと思うと、何かを確認している。
俺は息を詰めた。
やがて蘭子はゆっくりと立ち上がり、荷物を両手で抱え込む。そして、その手に握られたもの。
それは、隠しカメラ**――**
思考がまとまらないまま、全身が凍りついた。
「……ッ!!」
心臓が一気に締め付けられるような感覚が襲い、息が詰まる。
ヤバい。ヤバい。ヤバい。ヤバい。
脳が焼けるように熱を持ち、全身の血が逆流するような錯覚に襲われる。目の前の光景を信じたくなかった。
反射的に蘭子の手から機材を奪い取る。力任せに引っ掴み、衝動的に床へと叩きつけた!!
バキィッ!
耳障りな破裂音が響き、機材が床の上で無残に砕け散る。
だが、それだけでは足りなかった。呼吸が荒くなる。全身が沸騰しそうな怒りと混乱がせめぎ合う。
「貴様ら……もしかしてグルか!?」
怒りに任せて、床に転がる破片を何度も踏みつけた。砕けた機材が小さな破片を散らし、俺の足元で無残に砕けていく。
だが、それでも足りない。胸の奥に渦巻く苛立ちは、一向に収まらない。
「ふざけるな……! こんなもん……!」
さらに強く踏みつける。バキッ、バキッと乾いた音が響くたびに、身体の震えが増していく。
そんな俺を見下ろすような冷たい視線。
「無駄ですよ、データは飛ばして保存しています」
張り詰めた声が部屋に落ちた。
思考が硬直し、脳が焼き切れたかのように真っ白になる。
「な……!?」
息が詰まり、喉がひゅっと鳴った。
視界が揺れる。壁も床も、すべてが不安定に歪んで見えた。絶望と恐怖がせめぎ合い、冷や汗が背筋を伝う。
そんな俺をあざ笑うかのように、冷たい声が耳を打った。
「……ねぇ、幸田さん。阿久津は?」
その名前が出た瞬間、全身が氷のように固まる。
「な、何……そ、そうだ!阿久津は、阿久津はなぜ戻ってこない!?」
しかし俺を見てニヤリと笑う神楽。その表情にぞわりと悪寒が走る。
「くそっ……! 阿久津!! 阿久津はどこだ!?」
あいつが来れば……! 俺を助けてくれるはず……!
「あら残念、**あいつなら今頃、どこかでぐっすり眠ってるわよ?**しばらく戻ってこないと思うけど?」
ありえない。そんなはずはない。
頭の中で何度も否定の言葉がこだまするが、現実は何一つ変わらない。
「バカな……阿久津が……!? 俺のそばを離れるわけが……!」
「あなたに味方はいませんよ、幸田さん」
少年の言葉は冷たく、まるで鋭利な刃物のように突き刺さった。
体の奥からじわじわと力が抜けていく。足元がぐらつき、膝が今にも崩れそうになる。
冗談だろ……そんなはずが……。
だが、そんな俺の動揺をよそに、冷徹な神楽の声が追い打ちをかける。
「これを晒されたくなかったら、どうすればいいか……わかるよね?」
心臓が激しく脈打ち、胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われる。
「と、遠野志穂の件……か?」
ようやく絞り出した言葉は、自分でも驚くほど掠れていた。
肩を落とし項垂れる。何も考えられない。息を吸うことすら忘れ、ただ沈黙の中で心臓の鼓動だけが耳の奥で響いている。
どうする? 何をすればいい?
だが、思考はまとまらず、頭の中は霧がかったようにぼやけていた。
「そうよ、それと、二度と私……ううん、私たちに関わらないで!」
神楽が少年の方を見て言い放つ。
俺は、震えながら顔を上げた。
「私たちは全部啓のものなの!! あんたなんかお呼びじゃないんだから!!」
怒りに満ちた神楽の顔。
その瞬間、俺の中で何かが歪んだ。
ゾクッとするほど美しい。身体が震える。
「くく……クククッ……」
俺は笑っていた。
「うげ……!」
啓、蘭子、神楽の三人が顔をしかめる。
「い、行きましょ啓」
「そ、そうだね、蘭子も行こう」
「は、はい……」
啓……ま、待て! 啓って……もしかしてお前!
蘭学……。
頭の中で、その名前がゆっくりと形を成していく。まるでずっと曖昧だったピースが、今ようやくはまったかのように。
視界が揺れた。
どこかで聞いたことのある声――そうだ、記者会見場で耳にした、ふざけた兎野郎の声。
あの時、軽薄に響いたはずの声が、今目の前で響いている。
血の気が引く。
こいつが……蘭学事啓……!?
俺が叫ぶ前に、三人は部屋を出た。
扉が閉まる。
静寂が降りた瞬間、俺の膝が再び砕けたように崩れ落ちる。
指先が虚空を彷徨い、何も掴めないまま、ただ宙を切った。
全身の力が抜け、床に沈み込む。冷たい汗が背中を伝い、鼓動の音だけが耳の奥で響く。
……何もかも、奪われた。
俺の支配も、計画も、すべて、あの男に。
全身の力が抜け、肩が震える。震えているのは怒りか、それとも絶望か。
だが――
ふとそこに、頭の中を過る葵の言葉。
『私たちは……啓先生の知り合いなんです』
『小さい頃からの幼馴染なんです』
その瞬間、俺の顔は再び歪んだ。
……まだ終わっていない。
このままでは終われない。
俺の喉の奥から、押し殺したような笑いがこぼれる。
俺はゆっくりと腕時計に視線を落とした。
「今は十二時……あと数時間か……」
指先が震える。だが、今度は違う。
口元がじわりと歪む。
「ふふ……ククク……ククククク……」
狂気が滲むような笑みが、喉の奥からこみ上げる。
ああ、どう料理してやろうか。
あのちょろそうな女、立花葵。
あの清廉ぶった顔をどんなふうに歪ませるか。
俺の趣味に付き合わせるつもりはない……女として、立花葵をめちゃくちゃにしてやる」
もう、俺を止められるものはない。
「思い知らせてやるよ、先生……」
俺は立ち上がり、狂ったように笑った。
「ふふ……ははは……はははははは!!!」
──この一件の本当の幕引きは、俺が決める……。




