第83話 新章・決戦は日曜日(6)
「分かった……ありがとう、真凛、神楽……」
スマホを握りしめたまま、そっと息を吐く。通話が切れると、僕のいるこの静かな部屋に、鼓動の音だけが響いているように感じた。
真凛は今、響姉と一緒に病院へ向かっているはずだ。あの人が必死になってつないでくれたチャンスを、絶対に無駄にはできない。
スカートの裾を指で整え、鏡に映る自分の姿を確認する。慣れない女装はどうしても落ち着かない。それでも、やるしかない。髪を撫でて整え、もう一度大きく息を吸い込む。
事前に蘭子や神楽から聞いた情報では、幸田は幼い女性に興味を示し、高校生以下しか相手にしないという。そんな相手の目を欺くために、僕はこうして幼く見える格好をしている。まさかこんな形で利用されるとは思わなかったが、作戦を成功させるためには仕方がない。
ワゴンの取っ手を握る。手のひらにうっすら汗が滲んでいた。
そっと部屋を出て真隣へ移動、目の前には幸田の部屋。
僕は一度唾を飲み込み、覚悟を決めてノックした。
コンコン。
心臓の音が一気に跳ね上がる。冷静を装わなくては。僕はホテルの従業員。ルームサービスを運んできただけの、ただのバイトだ。
ドアの向こうから微かな気配がする。やがて、ゆっくりと扉が開いた。
そこにいたのは蘭子だった。
目が合う。彼女の瞳には、不安と、ほんの僅かな期待が滲んでいる。
「先生……」
震えるような囁きに、僕は思わず手を伸ばしそうになった。しかし、その場で思いとどまる。今はまだ耐える時だ。
「ごめん、蘭子、もう少しの辛抱だから」
僕がそう言うと、蘭子は小さく笑って首を横に振った。その表情は、安心しようとしているようにも見えた。
すると、その背後から低く苛立った声が響く。
「くそ……阿久津の奴、何をしているんだ……」
幸田の声だ。
僕と蘭子は同時に肩を震わせる。冷たい汗が背筋を伝った。
このままではまずい。僕は蘭子に小声で囁く。
「……蘭子、幸田の事で何か新しい情報ある??」
「先生……気をつけてくださいね。幸田って、結構、潔癖っぽいところあるんですよ」
「潔癖……?」
「うん。事あるごとに手を消毒したがるし、ストローも個包装のやつしか使わないみたい。服が汚れるのもすごく嫌がるから……」
「……わかった、気を付けるよ」
「何をもたもたしているんだ……?」
苛立ちを帯びた声が近づいてくる。僕は慌てて胸の前で両手を振り、なるべく高い声を作る。
「も、申し訳ありません、すぐに……」
幸田の足音がさらに近づく。次の瞬間、僕の全身を舐めるような視線が走った。
「ほう……君、若いね。いくつ? 学生のバイトさんかな?」
全身がざわつくような不快感に耐えながら、僕は視線を伏せた。
「ふふふ、照れ屋さんなのかな?」
愉快そうにつぶやく幸田。
僕は蘭子に小さく頷き、再びワゴンを押して部屋の中へ足を踏み入れた。
部屋の中は薄暗く、空調の静かな音だけが響いていた。
テーブルの上には整然と並べられたウェットティッシュや消毒スプレーが置かれている。その異様な整頓ぶりが、妙にこの場の緊張感を増幅させた。
僕は盗撮機材をワゴンの上に忍ばせながら、そっと蘭子へと渡そうとする。
しかし、その動きを察知したかのように、幸田がゆっくりと近づいてきた。
そして、突然。
「ねえ、君、名前は?」
耳元で囁かれる声。僕の背筋が凍りついた。
次の瞬間、ぞわりとする感触が腰に走る。
幸田の手が、僕のお尻を軽く撫でた。
その瞬間、呼吸が止まりそうになる。
「ふふ、緊張してるのかな……?」
にじり寄る幸田。手がさらに動こうとした時。
「幸田さ~ん、私の言事、忘れちゃいやですよぉ?」
蘭子が、わざと甘えた声を出して幸田の腕にしなだれかかった。
「ごめんごめん、蘭子ちゃん……もちろん君が一番さ」
その隙に、僕は決行する。
ワゴンを動かしながら、手元の飲み物をそっと持ち上げた。
わざと力を抜き、手を滑らせる。
「あっ、ご、ごめんなさい!」
グラスが傾き、中の液体が幸田の袖にかかりそうになる。
「うわっ! ちょっと、何してるんだ!!」
幸田が、咄嗟に袖を引いて後ずさる。
よし……。
「幸田さん、大丈夫ですか? すぐ拭きますね~」
蘭子が素早くナプキンを差し出す。その手元には、ナプキンと共に忍ばせた盗撮機材。幸田がナプキンを受け取るのに気を取られている間、蘭子は巧みに機材を指で滑らせるようにして、ソファーの隅に押し込んだ。自然な動作の中で、それが不審に思われることはなかった。
成功だ。
幸田は服の汚れを気にして蘭子の手を取り、完全に意識を逸らしている。
その隙に、僕は静かに扉へと向かった。
取っ手に手をかけた瞬間。
「幸田さん、今日は特別な気分にさせてくださいね……」
扉が静かに閉まる、その瞬間に、蘭子の甘い声が部屋に響く。
閉まりきった扉の向こう側で、蘭子の声はもう聞こえない。
僕はようやく、喉を震わせるように息を吐き出した。
「最悪だった……でも、機材は渡せた……」
背中に冷たい汗を感じながら、僕はその場を後にした。
だが、足は重い。
もし、蘭子に何かあったら——。
考えたくもないのに、その可能性が頭をよぎる。
あいつが何をしでかすか、分からない。
今すぐ戻って助けたい。でも、それでは彼女の努力も無駄になってしまう。
「頼む……蘭子、無事でいて……」
喉の奥で絞り出すように呟きながら、僕は拳を握りしめ、足早にその場を去った。




