第66話 新章・二人と一人の答え合わせ
啓の背後にピタリと身体を寄せた神楽の柔らかな胸の感触と、ふわりと漂う甘い香りが僕を包んでいた。
「ねぇ、どうする?このまま帰っちゃう?」
囁くような声が耳元に触れて、思わず僕の肩がピクリと震えた。振り向けばすぐそこに神楽の艶やかな瞳。挑発的でありながらも、どこか愛おしさを含んだ視線が僕を捕らえて離さない。
「僕は……」
言葉を紡ごうとした僕の口元に、神楽の指先がそっと触れる。
「無理に答えなくていいよ。啓の気持ち、ちゃんとわかってるつもりだから」
柔らかな微笑みと共に、神楽は僕の手を取り、ベッドへと誘った。
ふわりと沈み込むシーツ。僕が腰を下ろすと、神楽はその隣に滑り込むように座り込む。指先がそっと僕の頬を撫で、視線を合わせる。
「ねぇ、知ってる?啓が困ってる顔、すっごく可愛いんだよ」
「か、神楽……っ」
頬を赤く染めながらも、僕は視線を逸らせない。神楽の指先が僕の首筋から鎖骨へとゆっくり滑り落ちるたびに、肌が粟立つ。
「大丈夫、全部私に任せて。啓はただ、感じるだけでいいから」
耳元で囁かれ、僕の喉が小さく鳴る。そんな反応すら、神楽には愛おしくて仕方ない。
「私ね、ずっとこうしたかったの。啓に触れて、もっと知りたくて……こんなに好きなのに、どうしても距離が縮まらなかったから」
神楽の瞳がわずかに潤む。普段は強気に振る舞う彼女の、素直な想いがこぼれ落ちる瞬間だった。
「僕だって……神楽のこと、大切に思ってる。けど……」
「うん、知ってるよ。だから、今日は私の気持ち、ちゃんと伝えるね」
そう言って神楽は僕をそっと押し倒す。僕の背中がシーツに沈み込む。
神楽の指先が、僕のシャツのボタンに触れる。ひとつ、ふたつとゆっくり外していく度に、僕の胸元に触れる神楽の指が、ほんのり震えていることに気づく。
「神楽、もしかして……緊張してる?」
思わず漏れた言葉に、神楽は驚いたように目を見開き、そして少し拗ねた表情を見せた。
「……バレちゃった?」
「うん。でも、それが……すごく嬉しい」
僕の優しい言葉に、神楽の頬が赤く染まる。そして、微笑んだ。
「もう、啓ってば。こういうとこ、ほんとずるいんだから」
肩に額を押し付けるようにして、神楽は小さく笑った。
二人だけの静かな空間。互いの温もりがゆっくりと溶け合い、確かめ合うように身体を寄せ合っていく。
けれど、胸の奥に引っかかるものがあった。
このまま神楽を受け入れていいのか。
真凛の笑顔が脳裏をよぎる。
どちらも選べない自分がいる。選ばないことで逃げ続ける僕の弱さ。
神楽は、そんな僕の弱さに気づいていたんだ。だからきっとこんな強引に……。
すると、神楽がゆっくりと僕の胸に手を置き、小さく息を吐いた。
「ねぇ、啓。私、わかってるよ。啓は本当は、選べないんだよね」
「え……」
「啓の小説『二人と一人』。最後に三人で幸せそうに過ごしているあのラスト、ずっと気になってたの。どちらを選んだのか、じゃなくて——どうしてどちらとも選ばなかったのかって」
神楽は僕の胸にそっと手を置きながら、静かに続ける。
「読んでるうちに、気づいたんだ。啓はね、選びたくなかったんだって。誰か一人を選ぶことで、三人でいた時間が全部消えちゃう気がして……だから最後まで選べなかったんでしょ?」
「だって、選んだ瞬間に、もう三人ではいられなくなるから……」
僕の喉がぎゅっと詰まる。
神楽の言葉が胸に突き刺さる。
「……僕、小説のこと、ずっと隠してきたつもりだった……」
自嘲するように、小さく笑う。
「世間では『二人と一人』が感動作だって言われてるけど、本当はそんな綺麗なものじゃない。あれは、ただ僕が現実から逃げたくて、醜い願望をそのままぶちまけただけの……そんな話なんだ」
神楽は黙って、僕の言葉を受け止める。
「現実では雅を選んだ。それが普通なんだって、自分に言い聞かせてた。でも、本当は……選びたくなかった。選んだ瞬間に、もうあの頃には戻れないって、ずっと怖かった」
声が震える。
「三人でいることなんて、現実には叶わない。でも、小説の中なら……そう思って、三人が幸せでいられる世界を作ったんだ」
「僕の小説は、感動でも名作でもなくて……ただの僕の卑怯な逃げ場所だったんだ」
情けなさと、恥ずかしさと、どうしようもない感情が胸の奥から込み上げてくる。
「ごめん、神楽。本当は選ばなくきゃいけないって分かってる、でも本当の僕はこんな奴で、優柔不断で情けなくて……醜くて……」
言葉にした途端、涙が溢れた。
嗚咽を堪えきれず、肩を震わせる僕を、神楽は何も言わず、ただそっと僕の手を包み込んでくれた。
「うん……知ってるよ……それでも、そんな啓が好きだよ。例え世界中の人達がそれは間違ってるって言っても、私は言い続ける……啓が好き」
神楽の言葉は、余計に僕の心を締め付けるけれど、その優しさに、どうしようもなく救われた気がした。




