第67話 新章・静寂の予兆
神楽の指が、そっと僕の頬に触れる。指先は温かくて優しく、それが余計に胸を締め付けた。涙を止めたはずなのに、またじんわりと目が熱を帯びる。
「……ごめん、神楽」
声が震えた。
「神楽がこんなに真剣に向き合ってくれたのに……僕、こんなふうになっちゃって……」
涙を拭いながら、ゆっくりと体を起こす。その仕草を見た神楽は、小さくため息をつき、それからくすりと笑った。
「なんとなく、こうなる気はしてたわよ」
その笑みは呆れ混じりではあるけれど、どこか優しくて温かい。
「バカね、啓は」
神楽がそっと僕の髪を撫でる。指先が震えていたのは、きっと気のせいじゃない。
「私に向き合ってくれるだけで、十分よ」
その言葉が胸に沁みる。
神楽は立ち上がり、脱いだバスタオルを身体に巻き直した。その瞬間、しなやかな体のラインが一瞬視界に入り、僕は慌てて顔を背ける。
「……えっと……」
「ふふ、もっと見たかった?」
くすっと笑う神楽が、なんだか眩しく見えた。
「違うよ……そんなつもりじゃ……」
「素直じゃないわね。まあ、いいけど」
神楽は肩をすくめながら、ゆっくりと髪を整える。その仕草が妙に艶っぽくて、また視線を逸らしてしまう。
「ねえ、啓。さっきの話、信じられない?」
「さっきの話?」
「真凛が、私にならいいって言ったこと」
僕は答えられなかった。ただ、頭の中で整理がつかずに混乱していた。
「でもね、それって信頼よ。啓のこと、大切に思ってるからこそ」
神楽の言葉にはどこか真剣な響きがあった。ふざけているようでいて、その瞳には誠実さが宿っている。
そんな話をしていた時——。
スマホの着信音が部屋に響いた。
神楽が画面を確認すると、表情が一変した。
「……真凛?」
小さく呟きながら、神楽は電話に出る。
「もしもし? どうしたの?」
普段通りの調子だったが、受話器越しの声を聞くうちに、神楽の表情が徐々に曇っていく。
「幸田さんの事務所が……?うん……うん……それで?」
神楽の声は落ち着いていたが、その手はわずかにスマホを強く握りしめている。時折、困ったように小さく息を吐く音が漏れた。
「はあ?……それは……うん、わかった。私が行くから。だから大丈夫、待ってて」
そう言うと、神楽はスマホを耳から離し、通話を切った。そして、少しだけ目を伏せる。
僕は息を呑む。
「何かあったの?」
思わず口をついて出た言葉に、神楽が一瞬こちらを見た。けれどすぐに視線を逸らして、少しだけ困ったように笑う。
「……ごめん。ちょっと今は言えないんだけど、真凛と会って話してくるね」
柔らかい声で言いながらも、その表情にはどこか緊張感があった。
「僕も一緒に行った方がいいんじゃ……?」
そう言いかけた僕に、神楽は小さく首を振る。
「大丈夫。これは事務所のことだから、啓にはあんまり関係ないの。でも、ちゃんと話してくるから安心して」
神楽の目は真剣で、強い意志が宿っているのがわかる。だけど、どこか申し訳なさそうな色も滲んでいた。
「……そっか」
本当は不安だったけど、今は神楽を信じるしかなかった。
「ごめんね、啓。戻ったらちゃんと話すから」
神楽はそう言って、ふっと微笑んだ。その笑顔は少しだけ切なく見えた。
僕はただ、小さく頷くことしかできなかった。
神楽はさっと着替えを済ませ、スマホを片手に部屋を出ようとする。
「待って、神楽」
思わず呼び止めると、彼女は振り返る。
「……うん?」
「無理はしないで。何かあったら、すぐに連絡して」
僕の言葉に、神楽は一瞬驚いたように目を見開く。だけど、すぐに優しく微笑んだ。
「ありがと、啓。大丈夫、すぐに戻るから」
そう言って、神楽は部屋を後にした。
扉が閉まる音が静かに響く。僕はベッドに腰を下ろし、ため息をつく。
真凛と神楽。僕の知らないところで、二人の間にどんな話があるのか、気になる。でも、今は信じるしかない。
僕は天井を見上げ、ぼんやりと目を閉じた。時計の秒針の音がやけに大きく聞こえる。
ふと、神楽の笑顔が頭に浮かぶ。
あの笑顔の裏にある、本当の気持ちに触れることができるのは、いつになるんだろう。
僕は胸の奥にわだかまる不安を押し込めながら、ただ静かに目を閉じる。
時計の音だけが、静かな部屋に響き続けていた。
——今は、ただ待つしかない。




