外伝 『湯殿の約束』
一
「私が背中を洗ってやる」
泡だった手拭いを掲げて、ララサララが言った。
「姫様、それはなりません」
背中を隠すように身構えたリルが、わずかに及び腰で答えた。
「なんでだ? 姫が背中を流してはいけない理由があるのか?」
「あります。姫様に背中を洗わせたとあっては、私が女官長やベール様に叱られます」
「ばれなければ問題あるまい」
「でも……姫様は喋っておしまいになるでしょう?」
「う……」
痛いところつかれたララサララは言葉に詰まり、結局強硬手段に出ることにした。身構えるリルに飛びかかると、手拭いで強引に背中をこする。
「や……姫様、やめて下さい。くすぐったいです!」
「こら、あばれるな」
「ひゃあ!」
リルの変な悲鳴と共に、豪快な水音が湯殿に響き渡った。もつれ合ったふたりが、足を滑らせて湯船に落ちたのだった。
「姫様、ご無事ですか?」
いち早く浮き上がったリルが声を上げる。
「……」
湯船から顔を出したララサララは、長い褐色の髪が顔にへばりつき、なんとも言えない表情をしている。
ぷっ、とリルが吹き出した。
「……ふふふ、あはははははは」
「ふふふふふ」
釣られてララサララも笑い始める。
湯殿の中に、ふたりの少女の笑い声がこだました。
二
ここは、アプ・ファル・サル王国のアプ・ファル・サル王宮。その最奥にある〈奥の宮〉の、王族専用の湯殿だ。
ララサララは王国の第一王女で十歳。
リルは王女付き女官で十三歳だった。
隣国デル・マタル王国からやってきたリルが、王宮の女官として働き始めて三年。ララサララ付きとなって一年が経っていた。
王女と女官といっても、まだ子供のふたりだ。立場を越えて仲が良く、湯浴みで一緒に湯船にはいることも、大人達は大目に見ていた。
もっとも、ララサララはあまり気にしていないが、リルはしっかりと立場をわきまえている。リルの父はデル・マタル王国の貴族で、彼女は貴族としての教育をしっかりと受けていた。
「あいかわらず、リルは頭がかたいな」
「姫様が気になさらなすぎなのです。やって良いことと、良くないことがありますよ」
「わかったわかった」
ふたりは湯船に浸かって向き合っていた。ララサララは湯浴み好きで、一度入ると優に半時(約一時間)は湯殿にいる。
「ときにリル、さっき話していた男はだれだ?」
「さっき? どなたのことです?」
「朝餉のあと、何やら声をかけられていただろう?」
「ああ、騎士団の方です。今日初めて会った方です。名前は……ベルルさん、とかいいました」
「なんのようだったのだ?」
「それは……その……」
リルの視線が泳いだ。ララサララがほくそ笑む。
「言い寄られたのだな」
「ええ……まあ。でも、あの方は大人ですし、私はまだ十三です」
「そなた、以外に大人びた体型をしているからな」
「姫様! はしたないことをいわないで下さい!」
リルは自分の胸を抱き、ララサララを睨み付けた。
「本当のことだろ? で、なんと答えたのだ?」
「何とも何も……お茶に誘われましたが、お断りしました」
「何だもったいない」
「もう!」
リルが控えめにお湯をララサララにかけ、それを受けたララサララが、盛大にリルにお湯を浴びせた。
「わっ……姫様、やりましたね?」
「やる気か? 受けて立つぞ!」
そうして、ふたりは大はしゃぎでお湯の掛け合いに興じ始めた。
三
「リルはどんな男が好みなのだ?」
「姫様はおませですね」
「質問に答えろ」
「……優しい方が良いです。側にいて、ほっとできるような方。姫様はどうなのですか?」
「私か?」
「そうです。私にだけ言わせるのはずるいです」
ララサララはしばらく考えていたが、やがて言った。
「歌の上手いひとが良い」
「陛下のような方ですか?」
ララサララの父、アプ・ファル・サル王パパマスカは、歌が上手いことで有名だった。
「うーん……ちょっと違うな。もっとこう……」
「もっとこう?」
「……上手く言えない」
「平原候閣下のところのジョカ様はいかがですか?」
「うわっ! 冗談じゃない。考えただけで虫ずが走る」
「姫様、お言葉が下品です」
ララサララは頬を膨らませた。
「あんなのではない。そうだな……この国の者ではないほうがいい。歌の上手い素敵なひとが、私を迎えに来るのだ。私のための歌を作ってな。どうだ?」
身を乗り出すララサララに、リルは優しく微笑んだ。
「素敵ですね。……さあ、上がりましょうか」
リルは先に立って湯船を出ると、浴布を持ってララサララを招いた。
「さあ、姫様」
言われるままに湯船から上がり、リルに体を拭かせながら、ララサララが小さく言った。
「今の話……兄上たちにはないしょだぞ」
「はい」
「本当にないしょだぞ。きっと……からかわれる」
「はい」
リルが何も突っ込んでいないにも拘わらず、ララサララはなぜか頬を赤くしていた。
「本当に、本当にだぞ」
「わかっています。私が姫様との約束をやぶったことがありますか?」
リルは、別の浴布で自分の体も拭うと、ララサララを促して湯殿の出口へと向かった。
「姫様。湯殿でかわした女同士の約束は絶対です。だから姫様も、私の背中を洗おうとしたことは他言無用ですよ」
「わかった」
四
リルは約束を守った。
しかし、ララサララは守りきれず、後日、随分とリルに恨まれることとなったのだった。
《湯殿の約束 了》




