ミーネ 1
漆黒の闇だった。
上も下も、右も左も、前も後ろも、粘り着くような闇に閉ざされている。
彼女は柔らかい寝台の上にいた。その身を包んでいるのは、羽のように軽い絹の寝間着。かつて憧れた、王女様の暮らしだった――いや、正確には、これは女王様の暮らしだ。アプ・ファル・サル王宮の〈奥の宮〉にある女王の居室。一日の役目を終えてようやくひとりになった彼女は、自分の手すら見えない暗闇の中で、途方に暮れていた。
彼女は小さい頃から、ララ姫様――ララサララ王女――に似ていると言われて育った。彼女自身、実際にララ姫様に会ったことはなかったが、ことある毎に大人達がそう言うのだから、そうなのだろうと思った。彼女の父親はマーテチス州の官吏で、州城を訪ねてきたララ姫様を何度か見ていた。父親の知り合いにはアプ・ファル・サル王宮の官吏もいて、彼女がララ姫様に似ていることを請け合った。〈早春の息吹〉ララ姫。彼女は、ララ姫様に似ていると言われるのが嬉しかった。明るく元気なララ姫様に負けないような女の子になろう、と思ったものだった。
十五歳の誕生日を三日後に控えた日、彼女は父親に連れられて、マーテチス州城を訪れた。てっきり、州城の女官見習いの面接だと思っていた。彼女の母親は、かつてマーテチス州城の女官をしていた。父親との出会いも州城だったという。だから、自分も州城の女官になるのだと、彼女は漠然とだが思っていた。十五歳になれば女官見習いとして雇ってもらうことができる。
だから、州城の大きな部屋で父親に倣って頭を垂れて待ち、少し高い所から顔を上げるようにぞんざいに言われたときも、まだ彼女は面接だと信じて疑わなかった。顔を上げると、壇上の立派な椅子から、太った初老の男が見下ろしていた。後で知ったことだが、その男は平原候ジョシュ・マーテチスだった。
「なるほど、よく似ている。何か喋ってみろ」
「……?」
「ご挨拶をしなさい」父親が言った。
「ミーネ・ポルトスです。よろしくお願いします」面接の印象が良くなるように、彼女は精一杯の笑顔で挨拶をした。
「ふん。声は微妙な線だな。よし、試しに着付けてみろ」
彼女――ミーネは、大勢の女官に別室へと連れ込まれた。そこで化粧をされ、髪を結い上げられ、服を着替えさせられた。そして、再び平原候の前へと引き出された。
平原候は壇から降りると、ミーネを舐め回すように検分した。その視線には粘り着くような嫌らしさがあり、ミーネは身を震わせた。
「よし、なんとかなるだろう。卿の今の官位はなんだったかな?」
「刑部五位次席です」と父親が答えた。
「わかった。次回には二位正席にしてやる。娘は今日から置いて行け」
「ありがとうございます」
それ以降、ミーネは家族と会っていない。父親が帰った直後は、自分は身売りされたのかと思って泣いた。しかし、彼女が平原候から聞かされたのは、意外な言葉だった。
「お前は、ララサララ王女殿下の影武者となるのだ」
それから、影武者となるための勉強が始まった。
言葉遣い、身のこなし、王族のこと、王宮のこと。何度か、平原候に付いてアプ・ファル・サル王宮へと参内し、ララサララ王女にも会った。もっとも、影武者の件はまだ王女本人には秘密だとのことだったので、話などはできなかった。彼女は、黙って平原候に付き従い、ララサララ王女のことを目で追い続けただけだった。
半年ほど経ったある日、平原候は唐突に彼女に申し渡した。
「明日から王宮で仕事をしてもらう。女王としてだ」
「……女王ですか?」
「詳しくは追々話す。準備をしておけ」
しかし、そのときは何故か、王宮に入って二日後にマーテチス州城へ戻された。
王宮では、パパマスカ王が退位され、ララサララ王女が次期女王として即位された。ララ姫様が女王となられたからには、またすぐにも自分の出番があるのだろうと思っていたが、結局、三ヶ月間、彼女に声はかからなかった。
何にもまして、即位後のララ姫様は以前とは別人になってしまった、との噂が彼女を焦らせた。明るく、歌が好きで、常に風のように跳び回っていたララサララ王女が、暗く、歌うこともなく、ただそこに居るだけの人形となってしまったというのだ。
ミーネは、今のララサララ女王の影武者を務める自信が持てなかった。しかし、四日前、ついに彼女は王宮へと連れてこられ、女王の影武者として玉座に座らされたのだった。
質問は何一つ許されなかった。ただ、平原候と女官長の言うことに従うだけだった。形式的に会議の席に座り、執務机に座り、散々練習した女王の花押を書類に印し、そして、夜は真っ暗な部屋で眠った。
この部屋で夜を迎えるのは四回目だったが、ミーネは、もう耐えられないと思った。窓から入る星明かりすらないのだ。
――こんな闇の中で、ララ姫様は、いったい何を考えていたのだろう。暗闇の中では、本を読むことも叶わず、ただ、じっとしているしかない。部屋の隅から、何かがじっと彼女の様子を伺っているような気がしてくる。粘り着く暗闇に、絞め殺されるのではないかという恐怖感が襲ってくる。本当の暗闇の中では、眠ることもできないのだと、彼女は始めて知った。
「……もう嫌」
小さな声で呟いてみた。声に出したことで歯止めが効かなくなった。
「……嫌、……嫌、嫌、いや、いやいやいや、いやあああああああ」
ガタン、と何か音がした。ミーネはびくっと体を引きつらせ、声を殺した。
音は部屋の入り口の方から聞こえた。
居室の入り口には、ご丁寧にも大きな屏風が置かれている。入り口の扉を開いても、光が部屋の中に入らないようになっていた。さっきまではなかった気配が室内にある。彼女の声に驚いて、女官でも入ってきたのだろうか。
「だ……誰?」
その質問の答えは、彼女のすぐ耳元で聞こえた。
「そなたこそ誰だ」




