父と娘 4
「何をしに来た?」
父の第一声はそれだった。
館の中に入ったララサララは、前王妃付き女官のベールに、早々に見つかってしまった。ベールは、ララサララが生まれる前から王妃付きだった。だから、どんな格好をしていても、ララサララを見間違えることなどなかった。大仰に驚き駆け寄ったベールは、ララサララの手を引いて父と母――つまり前王と前王妃のいる居間へと案内した。前王夫妻は、夕食前のひとときを、窓を開け放った居間で庭を眺めながら涼んでいるところだった。
「お前は今この国の王であろう。こんな所で何をしている」
くつろいだ部屋着を着て、椅子の上で本を広げていた前王パパマスカ・バラオは、立ち上がりもせずに言った。王位在任中は常に整えられていた暗褐色の髪が、無造作に広がっている。威厳を保つために蓄えられていた口髭がない。そして、細面の柔和な顔に、ララサララへの侮蔑ともいうべき表情が浮かんでいた。
「父王……?」
ベールの変わらぬ態度に、両親への思慕が急激に募っていたララサララは、まさに冷や水を浴びせられたかのように血の気が引いた。
「ララ。まあ、どうしたの? その格好は」
ララサララの母、前王妃メメチュア・バラオが言った。メメチュアは、灰褐色の長い髪を一本の三つ編みにしている。こちらも、王宮に居たときはきっちりと結い上げられていたものだ。元々パパマスカ王に付き従うだけの王妃だった彼女は、パパマスカの態度に怯え、ララサララに対する言葉も腰が引けている。
「大方、身をやつして王宮を抜け出してきたのだろう。そんな態度でよく王が務まる」
パパマスカの言葉はあくまでも辛辣だった。
「あなた。いくらなんでもその仰りようは……」さすがに見かねたメメチュアが言う。
ララサララは父の態度が理解できず、呆然と立ちつくした。
「なんだ? 王に飽いたか? ララ。自分の兄から無理矢理奪った王位に飽いたのか?」
「私が……奪った?」
「勅令を偽装してまで、そんなに王になりたかったのか?」
「な……」
なんと言うことだろう――ララサララは頭が真っ白になった。
「どうした。何か言うことはないのか?」
パパマスカは深いため息をつくと、手元に広げていた本を閉じた。そして立ち上がり、自分の娘、ララサララへと歩み寄った。
「カカが一刻も早く王位に就きたいと言ってきた。余に、二十年も王をやったのだから後は悠々自適の生活をしてくれ、と言ってくれた。だから余は王位を退いた。なのに、余の退位を知ったとたん、ララ、お前は老師を傷つけ、王宮内に隠れ、あろうことか三諸侯を脅して、自分が王になるという勅令を出させたというではないか!」
こんな――こんな人だっただろうか。パパマスカ・バラオという父は――王は。考えてみれば、父王と政治の話などしたことはなかった。為政者としての父王を、ララサララはまるっきり知らない。
ララサララは、血が昇った頭が少しずつ醒めていくのを感じていた。たしかに、あまり政治に興味のない父であった。いつも詩や歌を作り、庭をいじっていた。兄のカカパラスを可愛がり、ララサララも可愛がってくれた――
しかし――
ノースの父親が言うところの〈アプ・ファル・サル王国の平和〉という守護魔法――その仮説が正しいとすると、王家の一家団欒も魔法のお陰だったとでもいうのだろうか?
バラオ王家の家庭内不和は、当然王国の安寧に影を落とす。親は子を可愛がり、子は親を慕うという、当たり前だと思っていたことが実は当たり前ではなかったのだろうか? 隣国の野心が摘み取られるのと同じように、政変の種が摘み取られるのと同じように、王家内の不和の種も摘み取られてきたのだろうか。
〈マーテル王国年代記〉の記述を疑う理由はララサララにはなく、アプ・ファル・サル王国の現状を見れば、守護魔法の存在も信じたくなる。そして、その上で、魔法の効力が切れてしまったことも信じないわけにはいかない――魔法が健在ならば、王たるララサララに、例えパパマスカといえども、こんなにも辛く当たったりするはずがない――
「……それは、どなたがされたお話ですか?」
ララサララは絞り出すようにして訊いた。
「平原候だ」
「父王は、そのお話を信じられたのか?」
「平原候が余に嘘をつく理由がない」
――これも、守護魔法がもたらした結果か。
ここ百年、アプ・ファル・サル王宮では、諸侯が、官吏が、国中が王に忠誠を誓い、王も王族もそれを疑うことがなかった。パパマスカにとってはそれが当たり前で、臣下を疑うということを知らない。だから、平原候のお粗末な嘘もあっさりと信じてしまった。
王国への野心や、逆心や、敵愾心のような、守護魔法が抑え込んできたものは、魔法が切れれば噴出してくる。それらは、人が普通に持っているものだからだ。しかし、パパマスカ王の純粋さは、守護魔法が生んだ結果ではあっても、魔法そのものの効力ではない。守護魔法が切れても変わるものではないのだ。よく考えればこれは想像できた事態だったはずだ。パパマスカ王が、カカパラス王子が王になると信じて退位したのではないか、とマーリーに語ったのは他ならぬララサララ自身だ。
それでもララサララは、一縷の望みを持って言葉を繋いだ。
「私は、師と共に賊に襲われました。隠れて、倒れて、気が付いたら三諸侯に王になれと言われました。兄上が行方知れずだからと」
「……」
「信じてくださらないんですか?」
「……」
「父王は三諸侯に謀られたのです。何と言われたのかは知りませんが、仮に兄上に王位を譲るにしても、即日退位などあり得ないではないですか! 兄上はまだ国外にいるというのに」
「ならば、平原候達はお前と共犯なのだな」
「は?」
「結局、お前が王になっているではないか。カカも帰ってこない」
ララサララは絶句し、唇をかんだ。今まで、疑念や猜疑心を持ったことがないかのように、パパマスカは感情を持て余し、その言葉は破綻していた。
しかし、魔法に心を抑えつけられてきたというなら、ララサララだって同じはずだ。あの、大理石の虚に隠れた五日間以前に、父王を疑ったりしたことがあっただろうか。もちろん、ララサララは感情豊かな子供だった。喜び、怒り、哀しみ、楽しんで成長した。しかし、王国や王に疑問など持ったことはなかったように思う。
――でも、確信はないが、あの五日間の暗闇が、ララサララの何かを変えた。命が消えるようなぎりぎりの状態で、それまで魔法の影響を受けていた心の状態がいったん零になった。人として、感情がいったん零になったのではないだろうか――
「父王、本日は伺いたいことがあって参りました」
ララサララは感情を抑え込み、静かな口調で言った。父王との議論は、このまま続けても平行線だろう。ならば、今日ここまで来た目的を果たさねばならない。
「王から王へと、代々伝えられてきたことがあるはずです」
いくら守護魔法が王族を含めた国中の人間に作用したとしても、王家に何も伝わっていないというのは考えづらい。現に子守歌が伝わっている。本来、王から王へと伝えられる何かが、ララサララには伝えられていない。きっと、あるはずなのだ――
「〈王の宝物庫〉のことか?」
「宝物庫?」
「王宮には王しか知らぬ宝物庫がある。それのことではないのか?」
ことさらに、パパマスカの言葉に侮蔑が滲む。
「宝など……」と言いかけて、しかしララサララは言葉を切った。とある可能性に思い当たったからだ。特大の龍青玉は宝物といえないだろうか。
「父王は、そこに入られたことがあるのですか?」
「ああ。龍青玉で造った像が安置されている。あれこそ、アプ・ファル・サル王国の宝だ」
「〈始まりの母〉ババカタラ王……」
「そうだ」
「父王は、それを見て何も感じられなかったのですか?」
「何をだ?」
「……いえ。それで、それはどこに?」
「……」
パパマスカは口をつぐんだ。兄から王位を奪った妹には、それを教えたくないのだろうか。ララサララは手を強く握りしめて、そして言った。
「余は、第九代アプ・ファル・サル国王ララサララ・バラオだ。前王よ。これは、王国百二十年の歴史を揺るがすことなのだ。その場所はどこだ?」
ララサララが小さな体から放った気迫に、パパマスカは押された。よろめくように一歩後ろへと下がり、そして呟いた。
「玉座の裏だ……」
アプ・ファル・サル王宮の玉座は、〈玉座の間〉に設えられている。あの裏に扉などあっただろうか。
「鍵は、子守歌だ」そこまで言うと、パパマスカは椅子に腰を下ろし、庭に目をやってしまった。もう、ララサララと話す気はなくなったようだった。
ララサララは母に近づいた。
「ララ」
「母様、ご不自由はありませんか?」
「ええ。女官も衛兵も、皆一緒に来てくれましたから。本当は、あなたも一緒のつもりだったのだけれど……」
メメチュアはララサララを抱きしめた。ララサララは抱き返そうとして、しかし、思い止まった。ここでしがみついてしまったら、挫けてしまいそうだった。ララサララはゆっくりと母から体を離し、深くお辞儀をした。そして、踵を返すと、振り切るようにして部屋を飛び出した。背後から母の声がしたが、あえてそれは聞かないようにした。




