父と娘 5
居間から飛び出したララサララに、ベールが声をかけた。
「姫様。老師に会って行かれませ」
「師が……生きているのか?」
ベールは頷くと、ララサララを一つの部屋へと導いた。小さな部屋の中には本がたくさん積まれ、中央の机にひとりの老人が座っていた。
「師……」ララサララが声をかけると、老人が振り向いた。白髪白髭の顔が、ララサララを認めると、くしゃっと笑み崩れた。
「姫様。いや、今は陛下とお呼びするべきか」
ララサララは、師の座っている椅子が龍青玉の魔法でわずかに浮いていることに気が付いた。師はその椅子を器用に操り、ララサララに近づいてきた。
「……足を?」
「年甲斐もなく立ち回りなどをしたら、この有様ですわ」
それは間違いなく、ララサララを守ったときに負った傷だろう。ララサララはすとんと両膝をつくと、師の顔を見上げた。
「もう、お会いできないと思っていました」
「うむ。姫様には申し訳ないことをした。あのとき、姫様を隠し扉にお入れした後、私は老体に鞭を打って兵に飛びかかった。しかし、あの兵に襲う気はなかったようなのです」
ララサララの目が驚きに見開かれた。
「三諸侯が、王子殿下の親書を携えて、パパマスカ王陛下に退位を勧めに来ていた。穏便にことは進行したのですが、諸侯に付いてきたかの若い兵は、刀を抜いていないと不安だったらしい。あの部屋に我々がいることも知らず、ただ見回っていただけだったようなのですよ」
師の白い眉が悲しそうにひそめられた。
「すべて、私の早とちりでした。しかも、兵が驚いて突き出した刀で、私は負傷してしまった。姫様が発見されなかったらと考えると、生きた心地がしませんでした……」
師の声は以前と変わらず優しかった。ララサララは、師を責めようという気は起きなかった。
「師も……、私が兄上から玉座を簒奪したと……そう、お考えですか」
「姫様。姫様がそんなことをなされるはずがありましょうか? 何かがお有りになったのでしょう?」
言い募りたいことがたくさんあった。すべてをここで師にぶちまけて、そして膝を抱えてしまいたい――しかし、それらは、先ほど両親の前で押し込めたばかりのものだ。
ララサララは、ノースの父親の研究帳を師に差し出した。師はそれにゆっくりと目を通した。
「〈マーテル王国年代記 第六代テルメノ王時代〉は、私も読んだことがあります。《アプ・ファル・サル侵攻》の下りに、何の感想も抱きませんでした。しかし……言われてみれば、たしかにおかしいですね」
「では……」
師は研究帳をララサララに返すと、首を振った。
「わかりません。私には、この推論が正しいとも、誤っているとも、判断することはできません。ただ、この人物が感じたのと同じことを、〈マーテル王国年代記 第六代テルメノ王時代〉について感じる、とそれだけです。そして、私の知る限り、この王国の王宮は他のどの国よりも穏やかです」
師はアプ・ファル・サル王国の生まれだ。しかし、若い頃は数々の国を旅して回り、この国の王宮に仕えるようになったのは、随分と歳を重ねてからだ、とララサララに話してくれたことがあった。政変や革命などに遭遇したこともあったという。
「しかし、姫様。私の結論など、さして重要ではないでしょう。姫様の顔には、もう結論は出ていると書いてありますよ」
ララサララは頷いた。
「父王を廃し、私を王位に就けたのは、兄上と大司教、そして、三諸侯でしょう。彼らは、この研究帳の中身と同じようなことを考えて、再び女王を使えば人々の心を操る魔法が行えると思っている……。私も、それ自体は可能だと思います。でも、それは、やってはいけない。……もちろん、私も犠牲になどなりたくない」
ララサララは師の目を見つめ、小さな声で訊いた。
「師よ。私は大理石の虚の中で考えました。そして、あなたにお訊きしたいと思っていました……。王族とは、毅然とした生き方こそ問われるのですか? それとも、血を残してこその王族なのですか? あのとき、刀を持った兵に、私は毅然とした態度で正対するべきだったのではありませんか?」
師は、まじまじとララサララの顔を覗き込んだ。
「姫様……、毅然とした生き方というのは、死を選ぶことではありませんぞ」
「?」
「そして、血を残すということは、逃げ回ることでもありません」
「……」
「これからも、誰かが何かの犠牲になることもあるでしょう。そんなときに問われる毅然とした態度とは、危険の矢面に立つことではなく、犠牲となった者の遺志を無駄にしないことです。そこで止まらず、前へと進むことです。血を残すということは、国を永らえさせていくということです。王ひとりが生き残っても、民が絶えては血が残せたとは言えません。しかし、王が死んだら、国は荒れ、少なからず民もまた死ぬ。王の血は民の血であり、民の血は王の血なのです」
師は諭すように語る。
「姫様が悩まれたことは無駄ではありません。守護魔法が真実ならば、今までの王は、そんな問いかけすら、してこなかったことになるのですから。王族とは何かと問い続けることは、ひいては王国とはなにか、民とは何かに繋がります。そして、私の知る限り、それに正解はありません。姫様が、ご自分で、ご自分の答えを見つけるしかないのです」
「自分の答え……」
「土地が違えば、国が違い、王も民も違います。もちろん、百年前と今とも違う。姫様が進む道が、国と民が進む道となるのです」
ララサララの頬を涙が伝っていた。父母の前では流れなかった涙が、今、師の言葉を聞いているうちに溢れてきた。涙の理由はわからなかった――
「姫様。経緯がどのようなものであろうと、あなたがこの国の王であることは変えようのない事実です。王には精霊のご加護がある。思うままに進まれるがよいでしょう」
ひとしきり涙を流したララサララは、少し心が軽くなっていた。
身代わりになって倒れたリル。
身をもって助けてくれたルーリー。
ここまで一緒に歩いたマーリー。
手当をしてくれたノース。
アリーにギニー。
そして、師――
自分の答えなどまだわからない。けれど、彼らの行為を、想いを、無駄にしたくない。その想いこそ、自分と、このアプ・ファル・サル王国が進む道だと信じたい――
私はアプ・ファル・サル王国の王なのだから。
――厳しき誓いの王の冠
民草愛でる慈悲の掌
山原海と精霊の
満つる麗しき邦の長
マーリーの歌声が頭の中で響いた。
曲がりなりにも、王として王冠に誓いを立てたのだ。私が考え、目を向けなければならないのは、兄上や大司教や三諸侯ではない。ギールやガタナ、ユーナやアリーやギニーのような民達だ。王宮の闇に怯え、自己の闇に閉じこもっている場合ではない。
アリー達に、魔法の力で敬ってもらっても嬉しくはない。隣国の王達が、やはり魔法の力で友好を示しても、それは本当の友好とは言えない。
傷ついたり、裏切られたり、誰かが死んだりするのは正直怖い。しかし、それを受け止め得るのが、毅然とした王ではないのだろうか?
マーリーが作ってくれた歌に恥じぬように――
ララサララは師に深く礼をして、部屋を後にした。




