悩み
その少し前、維心は維月を追って回廊を早足に歩いた。
「維月!待つのだ、維月!」
着物が重いのですぐに追いついた維月を、維心は腕を引っ張って自分の方へ引き寄せた。
「どうしたのだ…そのように駆け出すなど。」
維月は維心を見上げた。
「維心様!私に神の女で居て欲しいと言いながら、あのような所へ放って置いて!いつもの私なら軽くいなしますけれど、今日は嗜み深くあらねばならぬのでしょう!もう少しで、仕切りの裏へ連れ込まれる所でしたわ!維心様の馬鹿!」
維心は慌てて維月をなだめた。
「おお維月、すまぬ。蒼と話しが弾んでしもうて…しかし主のことは見ておるつもりだったのに。ちょっとした隙に…」
維月は維心に背を向けた。
「おとなしくしておったら、維心様はこちらなど見向きもなさらないのですわ!よく分かり申した。」
維心は焦って言った。
「そのような…維月、悪かったゆえ。そのように怒るでない。此度は我が悪かった。機嫌を直せ。」
いつもと違う美しい正装の維月にこのように拒まれるのは、維心はさらにつらかった。なんとか機嫌を取ろうとするものの、維月は険しい顔のまま横を向いている。その維月は、言った。
「…少し、頭を冷やして参ります。」維月は袿の裾を持つと、庭の方を向いた。「一人にしてくださいませ。」
維心は本気で怒っている維月に、渋々頷いた。確かに放って置いたのは悪かった。しかし、いつもと違って誰とも話さずおとなしくしているので、安心してしまって放って置いたのも事実…気がかりが無くて、つい、話し込んでしまったのだ。
維心は己の油断に後悔しながら、維月を見送った。もしかして、どこかへ出て行ってしまったらどうしよう…。維心は、ただただ気が気でなかった。
宴の席に戻っても、庭のほうばかり気にしていたのだった。
維月は重い袿と簪に悪態を付きながら、勝手知ったる月の宮の南の庭を、ずんずんと歩いて行った。宴の席の灯りが遠くなって行くと、維月はホッとした…もう、私はあんなにおとなしくしているのなんか、無理。それに、神の王のあんな感覚も付いて行けない。
池の畔の大岩の上に腰掛けると、維月はぼーっと何も考えずに、ただ水面を見つめて座っていた。
「もし。」
控えめな声が聞こえた。とても綺麗な女神の声…維月は振り返った。
そこには、金髪に碧眼の、それは美しい女が立っていた。これは…あのセクハラ王の奥様じゃないの!維月は驚いて、藍を見た。
藍は、美しく微笑んだ。
「維月様…我もご一緒してもよろしいでしょうか?」
維月は頷いた。どうしよう…ダンナに近寄らないでとか言われるのかな。それとも神の女だから、うちのダンナにあんな恥じをかかせてとか言われるのかな。維月は気が気でなかったが、藍はすっすと歩いて来て、維月の横に腰掛けた。良く見ると、少し離れた所に、侍女達が控えている。
三対一じゃ勝ち目ないし、袿は重いし、逃げずにとにかく謝ろう。
維月がそう思っていると、藍は言った。
「本当に…維月様。先程は失礼を致しました。我が王が、あのようなことを。」
維月は首を振った。
「そのような…我ももう少し早く辞しておればよかったのです。」維月は、相手をびっくりさせないよう、努めて神の女を意識して話した。「藍様にも、嫌な思いをおさせしてしまって…。」
藍は驚いた顔をした。
「まあ…維月様、嫌な思いと?」
維月はハッとした。神の世では、公にそんなことは言わないのだったかしら。分からないことばかりで、仕方なく維月は白状した。
「私は元、人でありましたの。本当ならあのように、おとなしくなどしておらぬのです。維心様が此度は、あのようにたしなみ深くしておるようにと申されるから、そうしておっただけ。藍様のように、生まれながらの神ではないのですわ。槇様のことも、本来なら手を取られたところで振り払っておりました。」
藍は扇を口に当てた。
「まあ…だから…あのようにはっきりと、王に意見出来るのですね。」と、藍は悲しげにうつむいた。「我は…なかなかに己の思う事を申す事が出来ませぬ。槇様は大変に良い王であられまするけれど、あのように困った一面もあられることは事実。我がおっても平気であられまする。確かに正妃は我で、深く愛してくださいまするが、妃は、宮にもまだ20人ほどは居るのではないでしょうか。」
維月は仰天した。20人ほどって…正確に分からないほど居るの?
「…それは…困った事でありますわね。」
維月は本心から言った。藍は頷いた。
「中には、手を付けてしまったので仕方なく迎えた妃もおりまする。なので一度も通うこともなく、存在すら忘れていらっしゃる者も…」藍はため息を付いた。「皆、心がありますのに。槇様が通われるのは我と、妃の二人ぐらいのもの。ほとんどは我の所でありまするが、たまに思い出したようにその二人に通われまする。お一人で出られるとまた妃が増えてしまうので、なるだけ我はお供するように致しておりまするの。」
維月は憤るよりも、呆れた。前世の炎嘉様は、同じように妃が多かったけれど、日替わりで通ってらしたと言っていたのに。ほんとに物みたいにしか思っていらっしゃらないのだわ…。
維月が黙っているので、藍は悲しげに微笑んだ。
「ですが、龍王様は違いまするわね。たった一人の妃であると聞いておりまする。」
維月は頷いた。
「私がそうでなければ里へ帰ると言って、嫁いだからでありますわ。維心様はよくお守りくださって、なので此度も、このようなことをお受けして、あのように振舞っておったのです。」
藍は下を向いた。
「このようにご立派なご実家があれば、尚の事でありまする。我は元は小さな宮の皇女で、槇様のように格の高い神に嫁ぐなど、有り得ぬものだと思うておりました。その上正妃に据えて頂き、我の実家でもこれよりの事はないであろうと…。」
藍は口をつぐんだ。きっと、里の宮のこともあって、帰りたくても帰れないのだ。大きな宮は、小さな宮の面倒を見るだけの力がある。龍の宮も、月の宮のそうだ。だからこそ、藍は文句も言えずにいるのだ。
「言いたいことがあれば、言えばよろしいのです。」維月は藍がかわいそうになって、言った。「これからは蒼があなたの義理の息子なのですから。妃の母がここへ来たいと言って、否とは言いませぬわ。蒼も元は人、私の息子なのですわ。確かに、王になってしまったので三人の妃を迎えましたけれど、それも、回りから言われてのこと。一人一人の妃は大切に致しまするし、悠殿のことも心配はありませぬ。藍殿も、お辛くなられたら、こちらへ参れば良いのです。一度、言いたいことをきっちりと言っておしまいなさいませ。言いたいことを胸ひとつに収めたまま、世を去るようなことがあっても良いのですか。」
藍は、涙ぐんだ。侍女が慌てて寄って来て懐紙を差し出す。藍は維月を見た。
「維月様…我はどうすれば良いのか分かりませなんだ。しかし今お話しをして、やはり一度槇様に、我がどう感じておるのか分かって頂くほうが良いと思いましてございます。ただ、辛いだけでは、我も鬱々としてしまうのです。」
維月は頷いた。
「そう、神の世ではそうではないのかもしれませぬが、女にも権利はあると思うのですわ。男ばかりが好きなようにして良いものでしょうか。女は所有物ではないのですから。なので本当は私もあのように、まるで人形のように見せ合われるなんて嫌だったのですけれど。そこは愛しておりまするから…仕方がないかと思ったのですわ。」
藍は、顔を上げた。
「我も、困ったかたなのに槇様を愛しておるのですわ。」維月の驚いた顔を見て、藍は微笑んだ。「とても正直で、お優しい一面もおありですの。我は…そんなあのかたを愛しておるのですわ。」
維月は笑った。
「まあ…でも、男のかたは困った所がないかたなんて、いらっしゃらないわよ?」維月は言った。「特に王は、とてもわがままでいらっしゃるわ。」
藍もほほほと笑った。
「まあ、本当にそうですわね。」
二人は笑いながら、宮のほうへと歩いて行ったのだった。




