婚姻
当日は、とても晴れていた。
槇は、紗と悠を連れて、供に臣下達を引き連れ、そして正妃を連れて月の宮へ到着した。もちろん、細工師も忘れず連れて来た。
そして、上空からその宮を初めて見た時、その大きさと美しさに目を見張った。
何と頑強な造りの宮…月の守りがなくとも、ここは簡単に落ちることはあるまい。
槇は、その宮の強大さと、それをこれほど美しく維持している王に、畏怖の念を感じた。まさに、龍の宮と並ぶと言われるはずぞ…。
「なんと美しいこと…。」
隣に座る、正妃の藍が言葉を漏らした。その横には、悠と紗が並んで座り、初めて見る月の宮に感嘆のため息を漏らしていた。藍が、悠に言った。
「これからはこの宮の王の妃。このように恵まれた地で妃の座に就くことが出来ようとは、これもお父上の力のおかげでありまする。」
悠は頷いた。
「はい。感謝致しておりまする。」
槇は苦笑した。棚から牡丹餅であったのだがな。
しかし、確かに清々しく清浄な気で満たされたこの地には、邪気など何もなかった。こんな地が、本当に存在したとは…。槇は、ただただ驚いていた。
到着口に着くと、蒼が出迎えてくれた。臣下達も居並ぶ中、槇は輿から降りて蒼と向かい合った。
「蒼殿、此度はほんにめでたいこと。我も、ここへ我が皇女を嫁がせることが出来ようとは思わなんだ。」と、輿を振り返った。「悠、これへ。」
悠が、すっぽりとベールに包まれて出て来た。父の手を取って、頭を下げる。
「これよりは、この蒼殿に仕えて行くが良い。」
蒼は、微笑んで手を差し出した。
「では、これへ。」
悠は、その笑顔に癒される心地がした。そう言えば、ここへ来てから体が軽い。いつもしていた眩暈が全くしないことに、悠は驚いていた。
悠が手を取ると、蒼は横を見た。
「明人、これへ。」
明人が、緊張気味に進み出て、膝を付いた。その姿は、軍神の正装の甲冑だった。紗はそれに見とれた。明人様…なんてご立派な姿なのかしら…。
槇が、同じように紗の手を取って、明人に向かい合った。
「これより、紗のこと、頼んだぞ。」
明人は槇に頭を下げた。
「は!」
明人は立ち上がると、紗の手を取った。槇はそれを、満足げに眺めてから、最後に妃の藍を呼んだ。
「我が正妃、藍ぞ。」槇は愛おしげに藍を見た。「此度、一緒に式に参列するためにつれて参った。」
藍は美しく頭を下げた。その気は、大変に癒しの気に満ち、その場に居るものを和やかな気持ちさせた。これが、槇の自慢らしい。
「初めてお目に掛かりまする、月の宮の王、蒼様。」
蒼は頷いて、軽く会釈した。
「よう来られた、藍殿。今しばらくで、龍王、維心様がお着きなられるはず。此度は我の式であるので、母と共に参られるのだ。」
槇は思い出した。そう言えばこの王は月の子。龍王妃は月なのだ。つまりは、この蒼の母となる。龍王は、それで月と親交が深いのか。
蒼が言い終わるかどうかという時に、空から龍の一団が降りて来るのが見えた。
さすがに龍王だけあって、いつも思うが公に来ると供が半端なく多い。あ、来た、と思ってから維心様の輿が見えるまでかなり待たねばならなかった。
先頭の龍が到着口について膝を付く中、次々に臣下達も降り立って頭を下げ、ついに、維心の乗っている輿が到着した。
皆が固唾を飲んで見守る中、維心が輿から降り立った。
「蒼。」
維心が言うのに、蒼は頭を下げた。
「維心様。本日は、はるばるようこそおいでくださいました。」
維心はフッと微笑んだ。
「主の式であるのだ。我が来なくてはの。」と、槇の方を見た。「槇。久しいの。」
槇は軽く会釈した。
「お久しぶりであるの、維心殿。」と、手を取る藍を見た。「こちらがいつぞやお話しいたした、我が正妃、藍でありまする。」
藍が美しく頭を下げる。維心は軽く頭を下げた。
「我の正妃も参っておるので、紹介しようぞ。」維心は、手を差し出した。「我が正妃、維月よ。」
輿からスッと手が伸び、維心の手を取ったかと思うと、それは美しい所作で、維月は輿から降り立った。蒼は息を飲んだ…これは、アノ母さんだ。まさか月の宮で、アノ母さんを見ることになるなんて。
維月から、あの月の気が湧き上がる。全ての神を手玉に取れるという、催淫の効まである、癒しの気。それはそこに居る全ての者に影響を与え、槇すらも例外ではなかった。
維月はそれに気付かぬように気品高く維心に促されて槇の前に立つと、誰よりも品良く美しく頭を下げた。
「槇様。初めてお目に掛かりまする。我が維月と申しまする。我が王より、お話は伺っておりまする。」
誰の声?と蒼は思ったが、黙っていた。美しい鈴が鳴っているような…月なんだから、何でも出来るが、母さんの作り声はここまで澄んでいなかったのに。
維心がどうだとばかりに槇を見ている。槇は呆然としていたが、傍らの妃が呼び掛けて、ハッと我に返ってしどろもどろに頭を下げた。
「これは…維月殿。初めてお会いして…まさかこれほどとは…、」
維心がフフンと鼻で小さく笑うのを、蒼は聞いた。なんだか知らないが、何かの確執があるようだ。
とにかく先へと、蒼は言った。
「では維心様、母上、こちらへ参りましょう。槇殿、臣下達がお席へ案内致しまする。」
維心が満足げに維月の手を取って歩いて行くのに比べ、槇はまだ呆然としながら促されるまま歩いて行ったのだった。
自分の対に入った維心は、上機嫌で洪に言った。
「槇のあの顔を見たか?やっと鼻をあかしてやれたわ。維月以上の女など居らぬ。あやつ、あの折散々に我に自慢しよって、その上維月が大したことないような口ぶりをしておったが、これで何も言えぬであろうて。本気の維月に勝てると思うてか。」
洪は何度も頷いた。
「我もあの折ははらわたが煮えくり返ったものでありましたが、スッと致しました。維月様より他、龍王妃に相応しいかたはいらっしゃいませぬゆえ。」
維月は苦笑した。何か分からないけど、私が留守の間に槇様が妃の事で何かおっしゃったのね…。
「…ということは、私は本日このままで居らねばならぬのですわね。」
維月の言葉に、維心は頷いた。
「此度だけぞ。維月…出来るであろう?」
維月は頷いた。
「はい。少し窮屈なだけで、問題ありませぬ。最後まで完璧な神の女を演じ切って見せまする。」
維心は満足げに頷いた。
「おお維月…主はほんに万能ぞ。」
維月は、これで維心の気が済むのなら仕方がないと、また侍女達にたくさんの簪を挿されるのを、黙って見ていたのだった。
式は滞りなく進み、蒼は悠を妃に迎えた。
今はとりあえず正妃として迎え入れたのではないので、特別なことは何もなく、お互いの親族の顔合わせぐらいだった。明人は軍神なので、降嫁する紗の身内と顔合わせをして、それで婚姻となった。夕刻からの宴には出席し、仲良く並んで杯を傾けていた。
相変わらず、槇はぼーっと維月に見とれていて、維月は居心地が悪かった。自分は神世では決して絶世の美女ではない。だが、月になった後、維心の傍に居たら、維心を繋ぎ止めようと気が勝手に変化し、今のように誰をも惹きつけるような気を持ってしまった。要は維心の好みなのであるが、それが神世全般に通用する、しかもかなり珍しいものであることは確かで、あっちもこっちも寄って来て、維月は大概迷惑していた。その度にゴタゴタして、維心が面倒を処理しようとするからだ。
でも、維心様の虚栄心がこれで満たされるのならば…。
維月はそう思って、気高い女を演じていた。じっと黙って維心の影に居れば良いのだから、楽と言えば楽なのだが、退屈なのだ。当の維心は、少し離れた所で蒼と洪達と共に、あちらを向いて話している。眠いなあ…と閉じて来る目を必死に開けていると、槇が立ち上がって維月に近付いて来た。
「維月殿、お疲れか?」
維月は眠いのを見透かされたかもと、慌てて表情を引き締め、扇で顔の下半分を隠した。
「いいえ、槇様。」
嗜みのある妃とは、人前であまり口数が多くはないらしい。維月はいろいろ言いたいことがあったが、それを飲み込んで、それだけ答えた。
槇は維月の、扇を持っていない方の手を取った。
「…なんと珍しい気であることか。こうしておると酔うようだ。」
維月は驚いた。多分、他の男に手を取られたり駄目だった気がする。普段はガンガン手ぐらい握られてるけど、今はマズい。でも、振り払ったりしたらまた嗜みがないので、とりあえず離してくれるように頼むのよね。
維月はすっと横を向いて、取られた手はそのままに、扇で顔を全て隠した。
「槇様…お手をお離しくださいませ。我は我が王でなければ…。」
槇は食い下がった。
「なんの、話すぐらいは良いではないか。こちらを向いてくれぬか。もっとよく顔を見せよ。」
維月は困った。普段なら顔ぐらいいくらでも見てくれたらいいのだけど、今はそういう訳には行かないのよ。それに手を離して欲しい。
「どうかお許しくださいませ。」
維月はソッと手を抜こうとした。しかし、槇はその手を握って離さない。維月は少しムッとした。あのね、あなたの奥様があっちでこちらを見てるじゃないの。こんなことをするつもりなら、せめて奥様を連れてなんて来ないでよね。どういう神経しているのかしら、全く。
「維月殿。今少しこのままで。」
維月は少し身の危険を感じた。ここは、維心からも離れて、しかも妃を隠す風習がある神の世なので、少し奥まって、仕切り用カーテンが半分ほど自分に掛かっている。マジでヤバいかもなんだけれど…。
思った通り、槇は維月を引き寄せようとした。ここでコトに及ぶつもりはないにせよ、嫁の前でそんなの神経が考えられない!
維月は我慢がならず、手を振り払っていきなり立ち上がった。
「お控えください!我に我が王以外のかたが、触れることは許しませぬ!」
維月の良く通る声が、宴の間に響き渡り、皆が凍り付いてシーンとなってそちらを見た。維月はハッと我に返った。…やってしまった。どうしよう。皆注目してるんだけど。
蒼が固まったまま、小さくつぶやいた。
「か、母さん…。」
槇も茫然としていたが、維月はいたたまれなくて、サッと踵を返すと宴の間を後にした。維心がそこで我に返り、慌てて維月を追って出て行った。
「維月!」
蒼はそれを見送ってから、場を何とかしなければと思い、言った。
「酒は足りているか?皆我の祝い酒をしっかり受けよ。」
臣下達がそれを聞いてまた、我に返り、それぞれの席の話題へと戻って行く。蒼はまだ呆然と座っている槇の所へ行き、苦笑して話し掛けた。
「槇殿、大丈夫か?我の母は大変に気が強く、我も困るほどで…」
「…なんと」槇は呟いた。「なんとはっきりとものを言う女ぞ。あのような女、初めてぞ。さらってでも我が妃にしたいほど…。」
蒼は慌てて言った。
「維心様が攻め入ってでも取り返しまする。母はそんなに良いものではありませぬ。とにかく、頭を冷やされて。あちらで冷たい飲み物でも。」
蒼は、槇の妃の藍が待つ席のほうへ促した。槇はそこへ座り、杯を手にする。しかし藍は、じっと庭のほうを見ていると思うと、スッと立ち上がった。
「王。我は少し、外の風に当たって参りまする。」
藍は、侍女達を伴って、スッと出て行く。こんな騒ぎになって、怒っているのかと思ったが、槇は気にしていないようだ。
「槇殿?藍殿を追って行かなくて良いのですか。」
槇は眉を上げた。
「藍を?なぜにであるか。」
本当に分からないような顔をしている。蒼が困っていると、傍の藍の侍女がそっと蒼に耳打ちした。
「槇様のご病気は、今に始まったことではありませぬゆえ…その度に何か言っておったら、藍様も大変なのでございまする。なので、藍様は何もおっしゃいませぬ。」
蒼は呆れた。確かに侍女の言う通り、病気だ。
蒼は仕方なく槇の話相手としてそこに留まっていた。




