1.
「アトレイア、君に離婚を要求する! すぐにこの屋敷から出て行ってくれ!」
私・アトレイアは、クルール王国・辺境伯である夫、リカルドから突然そのような申し出を受けた。
「……一体どういうことですか? 私に何か至らぬ点でも?」
私は絵筆を置き、眉を寄せつつ夫を見上げる。
「とぼけるな! 君が数多の情夫を抱えていることは知っている。こちらにいるナターシャがそれを教えてくれたのだ!」
夫に肩を抱かれているのは、屋敷に出入りしていた針子のナターシャ。
「奥様、あなたはお供も付けず度々下町を訪れていらっしゃいますよね? あたし、見たんです。奥様が色々な殿方のお家を訪ね歩いているのを!」
下町には一度も行ったことがないけれど? と思う私。しかもよくよく観察すると、ナターシャの口角が少し上がっている。
「ついでに、"お得意の絵" で男らの裸体でも描いていたのだろう?
妻に不貞され、落ち込んでいた僕をナターシャはずっと慰めてくれていた。そして今日……彼女のお腹に僕の子がいることを知ったのだ。これからの人生はこの二人に捧げたい!」
今すぐここで叫ばせて欲しい。不貞を働いたのはどちらだと。でも……今の私にはそれが出来ない事情がある。
「君は実家にも見放されているんだ。"妻は流行病で死んだ" と言っても、誰も文句など言うまい」
大好きな下町にでも行って男に媚びながら生きていけばいいと、そんな捨て台詞まで吐かれてしまった翌日。
私は粗末なトランク一つを抱え、屋敷を後にした。
不憫に思ってくれたのか、この家の執事が馬車だけは用意してくれた。
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リカルドのお望み通り下町に着いた私は、早速中古貴金属を扱うお店へと向かった。
元夫から過去に贈られた装飾品や花嫁道具として実家から少しだけ持って来た小物類を、全て売り払うためである。
(仕事が見つかるまでは当面、このお金で凌がないと)
実家では義母と義妹からの風当たりがそれはそれは強かった。まさか嫁ぎ先でもこのような仕打ちを受けるなんて。
(……でもきっと、私にも至らない所が沢山あったのでしょう。リカルド様からも、辺境伯夫人でありながら画家の真似事ばかりしているって、よく小言を言われていたもの)
私は胸元の、ロケットペンダントへと手を添える。これは実母の形見。
(絵を描くことが好きなのは、お母様譲りかしらね。屋敷からこっそり、画材も持ち出してきたくらいだし)
ペンダントの中には、聖母子像を描いた小さな絵画が収められている。
この絵のモデルは、実母と赤子時代の私なのだそう。もちろん、彼女作。
(これだけは手放さないでいよう。お母様の優しい温もりを忘れないように。
彼女からもらった無償の愛情を……"この子" にも伝えていきたいから)
私はまだ膨らんではいないお腹をそっと撫でる。そう、ここにはリカルドとの子供が宿っているのだ。それに気付いたのは丁度半月ほど前。
……けれど。何となしに不穏な空気を感じていた私は彼にそのことを告げずにいた。結果、正解だったと思う。
もし、夫の不貞に声を上げようものなら昨日は確実に手を上げられていただろう。
ナターシャに何かを吹き込まれた後からだろうか。彼は毎日、私に嫌味を言いながらその辺の物に当たり散らしていた。
花瓶を投げつけられた時なんて本当に驚いた。何とか避けたが。
確かに、リカルドとは政略結婚だった。それでも歩み寄ろうとし、子供も授かった。
でも……結局上手くはいかなかった。
(お腹の子には何の罪もない……私が絶対に守ってみせる)
私は唇を噛み締め、足を前へと進めて行く。まずはこの町で仕事と家を得なければ。
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知り合った下町の人たちは皆、私にとても親切にしてくれた。
洗濯屋の仕事も紹介してくれたし、たまに食材を分けてくれることもある。
妊婦の私に何かと気遣って、家の力仕事を引き受けてくれたりもするのだ。
そんな時、私は決まって自身で描いた絵をお返しとしてプレゼントする。素人作の拙い絵だが、皆とても喜んでくれた。
するとそのうち、貴族層の人々からも絵の依頼が舞い込むようになった。
というのも、下町の酒場にお忍びで来ていた方が、その店に貼ってあった私の絵を見て大層気に入ってくれたことが始まり。
(私の絵を好きだと言ってもらえることで、こんなにも心が満たされるなんて)
そうこうしているうちに、私はあっという間に臨月となった。そして下町の人たちの協力を得て、無事元気な男の子を出産した。
「おめでとう、アトレイア! とても綺麗な男の子よ!」
私は涙ぐみながら、生まれたばかりの息子・ミカエルを抱きしめた。皆はとても微笑ましげにその様子を見ているが、あることについては触れてこなかった。
それはミカエルの髪と目の色が、母親である私とは全く別の色をしているということ。
私の髪は褐色で、目は薄い翠色だ。対して彼は白銀の髪、そして深紫色の瞳を持って生まれてきた。
おそらく皆は、ミカエルのそれらは元夫の色味に似たのだと予想しているだろう。
でも、リカルドは金髪碧眼だった。
だから私はこう思ったのだ。
(ミカエルはきっと、ご先祖様の誰かに似たのね)
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それから八年が過ぎた、ある日の午後。
「お母さん。シオン様から依頼されてた絵、僕が届けてくるよ。ちょうど今から広場に行って、みんなでサッカーをするつもりだから。あの人、今日は下町広場でお忍びピクニックしてるんでしょ?」
ミカエルは少年となり、家の手伝いも進んで行う優しい子へと成長してくれた。
「ありがとう、ミカエル。お母さん助かるわ。でも、お得意様たちにボールを当てないよう気を付けてね」
「分かってるよ〜っ! あ、それと。帰ったらまた勉強教えてくれる?」
スポーツが得意だが、勉強も頑張っているミカエル。私が笑顔で頷くと、彼は嬉しそうに絵画を抱え、家を後にした。
「ミカエルのおかげで、少し時間に余裕が出来たわ」
そんな訳で私は一人、画材一式を持って下町が一望出来る小高い丘の上へとやって来た。
ここは季節ごとに、色とりどりの美しい花を咲かせている。私のお気に入りの場所だ。
私は早速ペンを取り、花々やそれに寄り添う蝶を夢中でキャンバスに描いていく。そして下絵が完成した後は絵筆に持ちかえ、色を付けていった。
「……よし、完成! 今日は快晴だからか、絵の中の花たちや蝶も、なんだか生き生きしているように見えるわ」
「本当ですね。彼らはまるで生きているようだ。このまま絵から飛び出してきてもおかしくはない」
しかし突然。頭上から聞き知れない低い男性の声が聞こえ、私は思わず絵筆を落としてしまう。
「驚かせて申し訳ありません。貴女がハゼル町の人気画家、アトレイア殿で間違いありませんか?」
おそるおそる顔を上げると、そこにいたのは雄々しい黒馬に跨った、一人の騎士。
漆黒の髪と美しい琥珀色の瞳を持つ、とても精悍な男性だった。




