オメルタの掟
犯人達は県警本部に厳重な警戒のもと護送され、一斉に取り調べが始まったが、一族の者は誰も何も話さなかった。
牧野警部補は主犯の麻山浩一老人が供述を始めるまでは、誰も何も話さないだろうと読んでいた。
そう、これは麻山一族の『血の掟』なのだ。
マフィアの掟でもあるが、一族となったものは部外者からの尋問に対して沈黙し組織を守る行動をする『行動規範』のことだ。
尋問や拷問を受けても絶対に沈黙することが名誉ある行いであり、この基本原則を破ると一族内で私刑となるのだ。
ただし、一族のリーダーが話を始めればメンバーはこれに従い沈黙する必要がなくなる。
牧野警部補は、麻山仁が死んだときに思い出せなかったが、この時『オメルタの掟』というドラマのDVDを兄と兄の下宿で見た時の事をはっきりと思い出した。
まだ、彼が小学生になる前で、恐ろしい映画だったので、記憶していた。
国や時代は違ってもこの規範は厳正で、破ることは自らの破滅を意味するのだ。
そこで、担当の刑事に代わり牧野警部補が麻山浩一の聴取を担当することとなった。
警部補が担当したことで、麻山浩一が供述を始めたことを知った一族の者は最低限の供述を始めた。
何せ十人を数える被疑者の供述なので、所轄の警部格や警部補の刑事を含め多くの刑事が投入され、四十八時間の勾留期間ギリギリまで取り調べを行い、どうにか事件の概要がほぼ把握できるレベルになった。
警部補が麻山浩一から事情聴取をする中で、事件中に自殺した麻山仁は麻山浩一の実弟麻山礼二の子供で、彼には二人の兄弟がいるという事だった。
そして、驚くことに礼二の長男義一は黒須不動産に騙され、借金を作りそれを詰る妻をかっとなって包丁で刺し殺し、懲役九年の判決を受けたのだ。
そして刑務所で刑期を全うする前に、心神喪失状態となり獄死したのだった。
義一は優しい男で、子供のいない浩一は義一に一族の長になって欲しいと思っていたらしい。
その義一には男の子が一人いて、母親を亡くし父が収監されている間の約束で、群馬元町の施設に預けられていたが、父親が獄死したためにまだ施設にいると言うことだった。
麻山仁があれほど過酷な道を選び、自死することを覚悟で小屋に残ったのは、愛する兄義一の復讐を果たせなかったことに対する懺悔なのかもしれない。
また、麻山仁にはもう一人弟がいたが、幼い頃に他所で養子として迎えられたが、今は行方はわからないとの事だった。
名前は麻山拳というが、養子の話に浩一は反対していたらしく養子縁組先との交流はなかったようだ。
麻山一族には他にもこの黒須不動産に騙され、土地を去ったものもいて、その恨みの深さが事件の背景だったことは明白だった。
他の犯人達の供述からも似たような深い恨みにつながる話が多く出てきて、これほど大掛かりな事件を起こした動機となったようだ。
警部補はそれだけではない、麻山一族の性質として、自分たちを害するものに対して協力して牙をむく、古からの体質のようなものも感じていた。
そのことで一抹の不安も感じていた。
四十八時間の勾留期間ギリギリで犯人達は全員検察に送致され、警察から検事にその身柄が移った。
ここから先は検察の仕事となる。
ちょうどそのタイミングで、自死した麻山仁の兄義一の子供の保護されている施設が判明した。
上東市では事件後だったので受け入れ側も及び腰だったが、たまたま交流のあった群馬元町の児童養護施設で、受け入れ態勢が整っているとの事で、そこが受入れて養育してくれているようだった。
早速、牧野警部補は直接事件とは関係がないので、兄巌と丈一郎に依頼して、その施設を訪れて様子を見てもらうことにした。
可能なら叔父である麻山仁の残した、あの遺書のような詩を渡して欲しいと頼んだ。
二人は群馬元町にある施設を訪れ、院長に面会を申し出ると驚かれはしたが、是非会って行って欲しいと言われ早速面会した。
その子は十歳と聞いたが、十歳にしては小柄な男の子で、目が“クリッ”とした可愛い子で、施設の他の子供達と楽しそうに遊んでいた。
施設の人によるとその子は『発達障害』であることと、母の死は病気として知らされているが、犯人が父でありその父が獄死したことは知らされていなかった。
その子に牧野と丈一郎は慎重に、麻山仁という君の叔父さんの詩を持ってきたことを伝えたが、「叔父さんて何?」と言った感じで、その子はほとんど意味を理解していない様子だった。
牧野も丈一郎も少し憂鬱な思いで、顔を見合わせた。
しかし、仁の残した詩を施設の人に読んでもらうと、その子は“シクシク”と泣き出すのだった。
「意味が分かるのだ」と二人は思い、先ほどまでと違う思いで、顔を見合わせた。
「これは僕のお父さんとお母さんと僕のことだよね」と言い当てたことに、牧野と丈一郎は喜び、牧野は思わずその子を抱きしめた。
その子の背中を優しく撫でながら
「君はいい子だね。そうなんだよ、良いお父さんとお母さんと叔父さんがいたんだね」と尋ねると、すぐに
「そうだよ、前はね・・」とその子は応えてくれた。
「今度この“おじさん”がまた会いにきてもいいかい?」と涙を堪えながら言うと、その子は牧野の目を真っ直ぐに見つめ返しながら、嬉しそうに「良いよ!」と声に出すのだった。
丈一郎はその様子を見ながら、ドラマの中にいるような気持ちになり、彼もまた涙が出て来て仕方がなくなった。
施設からの帰りに車の中で牧野は丈一郎に
「俺はあの子を養子にして、面倒を見ようと思う」と、いきなり宣言するので、丈一郎は思わずハンドルを切り損ねそうになって
「ええっ、本気か!?」
「ああ、あんな可愛い子を見捨てられるもんか。俺がなんとかする。これが、俺の運命なんだと思う」
丈一郎は驚きはしたが、それも良いかもしれないとも思った。
牧野は独身だし、弟との温かい家もあるし、彼と警部補の弟が育てればあの子も幸せになれるような気がした。
牧野はさらに
「あの子は発達障害などではなく、自ら成長することを拒否しているのだと思う。母が死に、父もこの世にいない事をあの子は知っているのだと思う。その現実から目を背けるために発達障害のように見える行動をとっているのだと思う」
「あの子の目は父や母を求め、あの子は本当に信頼できる人にしか心を開かない」と、かなり思い込みの激しい意見を述べるのだが、丈一郎もそうかも知れないと同じ思いがしていた。
「確かにあの子の目には純粋で、しかも、知的な光が宿っていたな」と感じていたのだ。
そして、牧野の家に着き、少し本気で牧野の考えとこれからのことについて話し合った。
弟の警部補はともかく、彼の奥さんや子供との関係もあるし、奥さんにも面倒をかけることになるのは必定だった。
まずは、弟にすぐに相談すること、その結果を踏まえて丁寧に奥さんと相談すること、その後に施設の責任者に会うことを決めて、その日はひとまず話を終えた。
秋が深まる中、冒頭にご紹介したように丈一郎は別荘地を離れ自宅のある某市に帰るが、その後の被害者達にはそれぞれの過酷な人生が待っていた。
麻山一族の恨みを買い事件の発端となった不動産会社の社長と営業部長は、入院先の病院で回復し、二週間後には退院した。
退院した二人は会社に出社し何食わぬ顔で仕事を始め、北浅間村の次に狙う地域を探し始めるのだった。
そこに米川は戻ることはなく、悪徳不動産という世評を嫌がり、その他の社員も一人、二人と欠けていった。
一方、麻山仁の葬儀は一族の女性達を中心に、近隣の人がわずかに訪れしめやかに執り行われていたが、そこに事件に巻き込まれ監禁された被害者の一人岩中拳が訪れる。
彼は仁の実弟で、事件直後に黒須不動産の社長達が傷の手当を受け、入院している病院をこっそり訪れた後に、そのまま兄仁の葬儀に訪れたのだった。
喪主は彼の知らない近隣の人で、葬儀場に長兄の義一もその妻もいない事を疑問に感じていたが、誰も知り合いがいないので、どうなっているのか分からず途方に暮れていた。
葬儀の会場に集まった人の中で、彼の顔を知る人はいないようだったが、芳名帳に書かれた「岩中拳」の記名をみて一人の中年の女性がその素性を理解する。
彼女は麻山一族とは多少の縁がある人で、拳の家族の事情をほぼ全て知っており、大変同情していたのだった。
彼女は葬儀場で拳に優しく話しかけてきた。
「あなたは仁さんの弟さんの拳さんだよね?」
拳は素直に「はい、そうです」と答えた。
「今度の事件の詳しいことは私は知らないけれど、本当にご愁傷様だよね。仁さんの兄さんと奥さんの時もそうだっけど。本当にこの一家はどうしてこんなことになったんだろうね、本当に!」と絶句して彼女は泣き出した。
拳は「やはり何かがあったんだ」と胸の痛む思いをすることを覚悟しながら、彼女から事情を聞かせてもらえるのではと思い
「良かったら兄達の話を聞かせてくれませんか?僕は八年ほど前に兄たちに会っているんですが、その時は義一兄さんと義姉さんと小さな子供もみんないたんですが、なぜ誰も居ないんですか?」
それを聞いてその女性は目を見開いて
「えっ、あなたは何も知らないの?本当に?」と驚きの声を出す。
拳はすでに何かを察しているらしく、目に悲壮感が漂っていて
「はい、何があったんですか?」と問い返すので、彼女は拳の服の袖を持ち、隣の部屋に連れて行き、周りに人が居ないのを確認し椅子に彼を座らせる。
「私の名前は高田奈緒子。 義一さんと仁さんの家の近所に住んでいて、長くお付き合いがあったので大抵のことは知ってるわ。少し長くなるけど、知っていることを全部話してあげる。でも覚悟して聞いてね!」
そして、彼女から語られた長兄の凄まじい事件と義姉の死、長兄の獄死の顛末を聞き、彼は大粒の涙を流し嗚咽を漏らしながらも、全部を聞き漏らさないように全神経を集中するように聞き取った。
拳は悲しすぎる話を丁寧にしてくれた彼女にお礼を言う。
「高田さん、全てを話してくれてありがとうございます。信じられないけど、受け入れます」
そして、彼女に別れを告げて震える手で車のハンドルを持ち、北浅間村の彼の旅館に帰って行った。
彼は車中で何度も何度も涙を流し、心の奥底で暗黒に吸い込まれるような“黒い光”を灯すのだった。
事件発生後の数週間、北浅間村はマスコミや取材陣が朝から晩まで居座り取材をするのだが、監禁された人々の名前は非公開だった。
村中の人に手当たり次第に取材をするので、村中鍋をひっくり返したような大騒ぎとなる。
実際の事件そのものは、牧野警部補をはじめとした県警の総力をあげた捜査で、概ね片付いていくように見えた。
しかし警察は事件そのものの全容解明に全力を尽くしており、マスコミには必要最低限の情報しか出せない状況だった。
県警としても前代未聞の重大事件であり、県警本部長と刑事部長と捜査一課長が記者会見を受けることになる。
牧野警部補は取り調べ責任者である事を理由に同席しなかったため、マスコミ側も消化不良の状態が続いた。
これほどの大事件が最低限の犠牲者で解決したことにマスコミも世間も大きな関心を持った。
その立役者が現場の警察官たちだったことと、そのリーダーの牧野警部補の存在が大きかった事は知られていた。
その警部補への取材も敢行したが警察のガードは驚くほど固く、事件の被害者と加害者、背景や動機と経緯、関与した人たちに関する事が、ある程度公になるのには二ヶ月ほどの時間がかかった。
実際に被害者である米川肇と姉にも取材があったが、警察や検察の指示もあり、黙秘を申し合わせていた。
取材する側は他の関係者を当たり、あまり関心や興味を惹くネタが取れずに困っている様子である。
一方、事件後すぐに米川親子は何度も話し合いを行い、米川肇は上東市の不動産会社には戻らない決断をした。
今度こそ真っ当に生きていくことを父母や姉に誓い、その夫もその言葉を信じ支援を約束する。
差し当たっては、姉と義兄が面倒を見れる範囲での仕事を手伝うこととなる。
姉夫婦が勤める村役場としても、人手不足と村出身の若者の村への定着も必要で、さらに夫婦の強い要請もあり米川への支援を約束する。
村としては観光事業の活性化を目指しており、姉が担当している範囲で仕事を検討したが、観光地ではあるが少し寂れたドライブインの再開を検討していて、そこがターゲットとなった。
そこの再開に向けて、老朽化した設備のメンテナンスや建物周辺の整備をする仕事を米川は手伝うことになった。
そして、再開した際にはそのドライブインでの土産物の販売と、飲食のサービス提供をしたり、日々の全体の清掃と整備をする仕事で米川を採用する事が、役場で承認されたのだった。
無論これは特例で、米川の姉夫婦が責任を持って監視することが条件であった。
そして、ある民間人の協力も事件解決につながったことも流布されたが、当の丈一郎は面倒なマスコミ対応は御免だとばかりに、さっさと当地を後にして自宅のある埼玉県某市に帰ってしまった。
牧野警部補の兄の牧野巌が取材を受けることもあった。
「俺に聞かれても現場にいたわけではないから何も答えられんよ」という内容で、マスコミも少しずつ引き潮の海のように引いていった。
牧野から状況を毎日のように聞いていた丈一郎は
「牧野、この事件の背景にあるのは重い話だと思わないか?過疎化と言う怪物が潜んでいて、遂に姿を現したように俺は感じるよ。それと気になるのが事件はこれで終わりじゃないよなって感じがするんだ」と話を振ると
「ああ、俺もこのところ暗い気持ちになることがある。黒須不動産は被害者という立ち位置だけど、そんな単純な事でないと思う。確かに麻山一族は恨みを果たすために事件を起こしたようだけど」と牧野は話し、さらに
「事件自体は解決に向かっているのに、弟もすっきりしないようで、よく物思いに耽っていて、丈さんに戻ってきてもらって謎解きをしてもらうかなって言ってるよ」 と本気とも冗談とも取れるようような発言に
「やだよ、俺の別荘は冬を越せる準備はしていないからね」と丈一郎はちょっと冷たく答えた。
「それはともかく、丈さん、あの子のことは随分話が進んだよ」と牧野が話を変えた。
「ああ、そうか!それは良いね。色々大変だろうけど、応援するよ。あの子にまた会いたいな」
「ははは、丈さんもあの子に惹かれているみたいだな」
「ああ、あの子には不思議な魅力があるよね」とまんざらでもなさそうだった。
一方、警察も監禁された人たちのフォローはしていたが、健康状態とPTSD(心的外傷後ストレス障害)の発症の疑いのある人のケアを、医療機関に協力を要請することぐらいで精一杯だった。
PTSDは生死に関わるような強い体験をした後に、その体験がフラッシュバックして不安や緊張を感じてしまう病気のことだ。
管理事務所に監禁された老人達、米川と姉、そしてその娘の幼い子供に関しては継続的なフォローが必要であるとの方針だった。
牧野警部補はじめ刑事課の数人のメンバーは県警本部長からの指示で、検察に捜査の主体が移った後も事件の全容解明に向けた情報整理に忙殺されていた。
警察は本来担当ではない部署のメンバーの協力を得ながらフォローしていたが、被害者の一人、岩中拳のフォローを担当したのは村の交通安全担当者であった。
彼からは特に問題となる発言もなく、安定した状態だったと報告された。
冬が深まり寒風が吹く日も増えるのに連れ、取材攻勢も収まり、今度は長野県警を中心に黒須不動産の詐欺事件の捜査が始まっていた。
しかし、詐欺と通常の取引の違いにはかなりセンシティブな部分があり、容易に多くを立証できない様子だった。
何と言っても詐欺事件の方の被害者でもある麻山一族が、もう一つの凶悪事件の主犯として拉致・監禁・逮捕・傷害の罪で起訴され、裁判を控えているので、十分な実証証拠を得られない状況に陥っていた。
それでも麻山一族が収集した情報と資料も参考にしながら調査を進めたが、起訴するには弱く軽い罰則で済むような案件しか見つからなかった。
黒須不動産の社長と営業部長の田代の傷も癒えて、顧問弁護士の意見もあり、自分たちの犯罪の方は裁判にはならないだろうと高を括っていた。
そして十一月の後半には営業を再開する準備に入った。
彼らの会社の社員の数人が辞め、米川も戻って来ず、あのちょっと頼りない先輩アルバイトを急遽社員にするような状況であった。
黒須不動産は十二月には営業を再開し、田代が毎朝社員にはっぱをかける様子を、遠くから冷淡な表情で見つめる人影があった。
その人影こそ岩中拳であった。
彼の目には黒須不動産の社長も田代も、事件の要因となった自分たちの悪どい商売を続け、何ら反省することのない姿に映った。
彼の目には“暗い光”が宿っていた。
決して消えることのない、激しい憎悪をその暗さの中に隠してしまう光だ。
彼は自分が実質的に運営する旅館に、予約が入っていない奇跡の二日間を行動を起こす日と決めて、計画を立てた。
奇跡というより、悪魔が差し出した“呪いの日”だった。
岩中拳は中学・高校は米川と同窓生で、目立つ方ではなく二学年上の米川とも交流はなかった。
高校卒業後、大学には進学せずめっきり体力の衰えた父の代わりに旅館の仕事を切り盛りしていた。
父も母もその姿を頼もしく見ていた。
「あの子を養子にして本当に良かった。本当に良く働いてくれるね」
そして、数年後にこの凶悪事件が突然起きた。
事もあろうか、働き者で優しい養子の拳が事件に巻き込まれたのだ。
年老いてきた夫婦は事件の解決を心の底から喜んだ。
犯人への恨みよりも養子の安全の方がはるかに大事だった。
「事件の時には本当にびっくりしたけど、無事で良かった」と父は振り返った。
「ところで、あの話は本当ですか?あの事件の時、爆発で死んだ犯人が麻山怜二さんの息子さんで、拳の実のお兄さんだと言うのは?」 と母は心配そうな声で夫に聞くと、
「ああ、あの自殺した犯人は拳のお兄さんだ。麻山さんからあの子は頂いたんだから間違いない」 と答える夫にさらに
「あの子はあの事件のすぐ後に、そのお兄さんのお葬式に行ったみたいだけど、何も報告してくれないから少し心配していたのよ」と心情を伝えるが、それ以上の事は年老いてきた夫婦には考えようもなかった。
実際、岩中拳は事件後、数回上東市に出かけた。
一度目は事件発生の翌々日に不動産屋の社長と営業部長が入院している病院を訪ねていた。
何のためかは不明だが、ナースステーションで生存を確かめたようだ。
そしてその翌週に、兄麻山仁の葬儀が行われ、そこに参列し全ての事情を理解した。
その後、その不動産屋を現地調査のように訪問し、性懲りも無く営業を再開するのを目撃していた。
そして十二月中旬になり年の瀬が迫り、冬が深まり最低気温が零度を下回り出した頃、お客の予約が少ない日が続くある日に、拳が父母に「何日か旅行に行きたい」と言い出した。
父母は日頃の彼の働きに感謝しているので、
「ああ、良いよ。ところでどこに行くんだい」と聞くと、長野に行ってくると言うので
「前に言っていた善光寺だね」と確認すると、「そうだ」と言うので、お小遣いとして五万円を包んで渡してあげた。
拳はにっこり笑ってそれを受け取り、翌々日の朝に自分の四輪駆動車で出かけて行った。
タイヤは雪用タイヤに履き替えており、軽やかに走り去ったように傍目には見えた。
「あの子にも息抜きが必要だよね」と老夫婦はかえってホッとして見送ったのだった。
しかし、粉雪が舞う中、長野へ向かう山道を走る車中の彼の顔は、のんびり旅行に行く人の顔つきでは無かった。
雪道に緊張しているだけではなく、修羅のような表情でハンドルを握り、山道を急いでいるようだった。
朝早く出たので、午前九時ごろには長野市の善光寺への中間点である上東市に着いた。
彼は市街地にあるチェーン店のうどん屋に入り、遅い朝食のつもりなのだろう、暖かいうどんを啜った。
そのうどんを食べ終わった後に、一旦車に戻りリュックの中身を確認した後、車をそのまま駐車場に置いたままにしてリュックを背負い歩き始めた。
靴は白いスノーブーツで上着は水色のダウンジャケット、頭には黒い毛糸の帽子を被り、迷うことなくある一点を目指すように雪道を歩いて行った。
目指す先には、秘密の観光スポットがあるように。
そして、あろうことか、拉致監禁事件で人質になり、その後悪質な詐欺行為で捜査されていた黒須不動産のオフィスの前に立った。
彼は躊躇することなく玄関のガラス戸を押し開け、オフィスに入り、フロアの一番奥の営業部長の席まで進む。
驚いて顔をあげた田代の腹部を、大きめの果物ナイフのような刃物でいきなり刺した。
なんら声を出さずに、死刑執行人のような冷徹さで行動する。
周りにいた社員はあまりのことに腰を抜かしたようになり、田代を救うどころかその場から逃げようとした。
拳はその場で喚く田代の頬と肩を無惨に切りつけ、血飛沫が散った。
田代は喚きながらうつ伏せになった。
彼はそれを見てすぐに、今度は社長室の扉を乱暴に開けて、奥の机に座っていた社長に向かって走り寄る。
社長が「何だお前!」と叫ぶのを無視して、机の上に飛び込むようにして刃物で社長の腹部を刺す。
社長は刺されたショックと痛みで机の横にひっくり返ったが、拳は机から飛び降り、うつ伏せになった社長の背中にもう一度刃物を刺す。
この時も全くの無表情で無言だ。
微かに息が乱れ、息を吐く音を彼自身は感じていたが、周りの社員達はあまりに恐ろしいものを目にしたために、目を見開きじっと佇んでいた。
わずか二、三分の出来事で、社長室の中から社長の呻き声を聞いて、やっと事の重大さに気づいた一人の社員が一一〇番にダイヤルして、社長と営業部長が何者かに刺されたことを通報する。
拳は社長が血を流しながら腹を抑えてのたうちまわるのを確認するように暫く社長室にいたが、その後社長室を出て、営業部長の机の方に顔を向けて、これも床で呻いているのを確認してからオフィスを出て行こうとした。
手には刃物を持っているので、社員は全く抵抗することなく彼がオフィスを出るのを見守った。
拳は血のついた刃物をリュックに入れて背負い、やはり血飛沫を受け赤くなった水色のダウンジャケットのポケットに手を入れて、歩いて数分の距離にある朝食をとったうどん屋の駐車場に向かった。
まるで、暗殺者が冷酷に任務を終えて、次の仕事に移るような自然な動きだった。
数分後、パトカーと救急車が到着した時には、拳は四輪駆動車に乗って、長野方面に走り去っていた。
救急隊員が現地に到着し、社長と営業部長の手当を始めたが、刃物は果物ナイフ程度の大きさだったらしく、しかも刺した後にさらに突き刺したりしていないため、内臓の損傷は酷くないようで、止血により命は取り留められると判断していた。
田代の頬の傷は深く口の中まで達するような傷だったが、現場で救急隊員が救急処置をする間に出血は治りつつあり、その後すぐに救急患者を受け入れる病院が見つかり、そこへ搬送された。
救急車には元アルバイトの社員二人が同乗したが、皆あまり関わりたくないのか遠慮して譲り合うようなシーンがあった。
警察は事件の状況を残った数人の社員から聞き取りをして、犯人の背格好や服装を確認し、歩いて逃走したことをベースに近辺の緊急配備をした。
捜査員が不動産会社から雪の中に血痕が転々と残されているのを発見した時には、犯人が逃走してから三十分以上が経過しており、うどん屋にたどり着いた時には事件発生から一時間近くが経過していた。
その頃、拳は長野に向かい車を走らせており、現場からは三十キロメートルほど離れたところまで移動していた。
すでに犯罪者となった岩中拳は、長野市の中心街を突っ切り、ある大きなお寺に向かっていたのだった。
そこは善光寺だった。
善光寺は言わずと知れた、一度でもお参りをすると極楽往生が約束されると信じられていたことから、江戸時代より「遠くとも一度は参れ善光寺」「一生に一度は善光寺詣り」などと言われてきた宗教的な聖地だ。
本尊は日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来で、絶対秘仏である。
岩中拳は車を近くの駐車場に止め、善光寺の山門を潜り、血に汚れた手を手水で文字通り清め、本堂の仏様に自分がした事を告げると共に、兄たちの不幸を嘆き、自分は本当に悪い事をしたのでしょうかと尋ねる。
仏様は何も言わないが、拳にはわかっていた。
彼がした最も罪深いことは、彼を愛し、慈しみ、信頼してくれている養父母を裏切ったことだ。
彼のした事を知れば彼らは嘆き悲しむだろう。
下手したらそれが原因で死んでしまうかも知れない。
そう思うと彼は本堂の隅の暗がりで泣き崩れてしまう。
彼はよろよろと歩きながら本能的に人に見られないような建物の陰に座った。
そこは彼にとっては幸いにも参拝者のあまり通らないところだった。
どれほどの時間をそこで泣き腫らしたのかもわからない程、彼はそこにいた。
すでに日が傾き始め頃に、参拝者から本堂のそばで若い男が倒れているとの通報を受け、パトカーが現地に到着し遠慮気味に警察官が数人彼を囲んだ。
「どうされましたか?」と一人が尋ねると、その男の水色の服には血の飛び散ったようなシミがあり、警察官はすぐに指名手配中の犯人だと思い
「お前は上東市で人を切りつけた犯人だな?」と少々間の抜けた質問をすると、彼はまだ泣き顔ながらはっきりと、
「はい、そうです」と答えた。
全く逃げるそぶりもなく、抵抗する事もなく彼は手錠をかけられて大人しく連行された。
免許証で確認すると岩中拳と言う北浅間村の住人であったため、すぐに群馬県警に連絡するが、彼が最近に起きた拉致監禁事件の被害者だと判明した。
少し以前の話になるが、拳は今から八年ほど前、まだ高校生だった頃に生まれ故郷である上東市を訪れていたのだった。
夏休み期間中に『故郷』を題材にした文章を書く宿題が出ており、思い立ってバスに乗っての一泊旅行で上東市を尋ねたのだった。
彼は幼い頃に北浅間村の旅館を経営する岩中家に養子で迎えられ、故郷である上東市を離れていたのだが、生まれ故郷の記憶は鮮明だった。
上東市の中心部からバスで十分ほどの実家を探し出すのはさほど難しいことではなかった。
上東市の一番大きな鉄道駅から覚えていた最寄りのバス停がある路線にのり、そのバス停で降りて、家までの道のりは数分だったので間違えることなく実家にたどり着いた。
家の門は懐かしい麻山の表札がかかっており、暫く躊躇したが思い切ってチャイムを鳴らした。
インターフォン越しに「どなた様ですか?」と言う聞き慣れない女性の声がしたが
「岩中拳と言います。麻山義一さんはいらっしゃいますか?」と尋ねると、少し戸惑った様子だったが
「少しお待ちください」とインターフォンが切れた。
拳が門で、一、二分ほど待つと玄関のドアを開けて、懐かしい兄が現れた。
長兄の義一だった。そして、すぐに次兄の仁も現れた。
三人はお互いにすぐにわかり合い、二人の兄は弟の拳の方に駆け寄り
長兄義一が
「拳、よく来たな!久しぶりだな。お前、大きくなったな」と言って拳の肩を抱いた。
次兄の仁は拳の頬を両手で挟み、
「お前、俺よりも大きくなったけど、顔は変わらないな」と嬉しそうに声をあげた。
拳も兄たちの歓迎ぶりに感激し、思わず涙ぐんだ。
その様子をインターフォンに出た若い女性が、驚きつつも嬉しそうに見つめていた。
義一の妻であった。
その日彼は兄たちと懐かしい実家で本当に楽しい夜を過ごした。
父と母はすでにこの世にはいなかったが、彼は実の兄弟と兄の妻とその幼い息子に囲まれ、心の底から家族団欒を楽しんだ。
兄たちからは今の暮らしぶりを聞かれ、拳は養子で入った岩中家の養父母が優しくしてくれていることや高校での生活を語った。
翌日、家に帰る拳を二人の兄は車で北浅間村まで送ってくれた。
流石に彼の家である旅館を訪ねるのは躊躇ったが、何か困ったことがあれば連絡するように彼に伝えて、抱き合って別れを告げたのだった。
岩中拳は高校で学年一、二位を争うほど成績が良かったので、大学進学するものと思われていたが、養子である引け目と父の体調不良を考え、しばらく実家の手伝いをする事にした。
彼の実家の仕事は旅館経営で、地元では大きな旅館の一つで、「北浅間旅館」と言う名前だ。
米川とは二学年異なり、あまり話したこともなかったので、お互いに意識する間柄ではなかった。
そして、あの悲惨な事件の週に、問題の不動産屋の社長以下数人が、よりによって彼の旅館に滞在したのだった。
その中に同窓生の米川がいた事にも驚いたし、彼らは宿泊中に自分の父にも資産運用の営業をしかけ、父が信じかけていた事にも驚愕した。
しかし父に信頼されている自分が拒否すれば断れると思って説明会に参加し、事件に巻き込まれてしまった。
そして目の前で次兄仁の壮烈な死に目に遭遇した。
これほどの偶然があるのだろうか?これほどの不幸があるのだろうか?
そして、拳もまた麻山一族と血がつながっているがゆえに、『オメルタの掟』に従うしかなかったのだろう。
仁にとって長兄は尊敬する親のような存在であり、拳にとって仁は一番心を許せる兄弟だったのだ。
拳は事件後こっそり仁の葬式に参列し、兄達の知り合いの女性から全てを聞いてから旅館に帰ったのだが、近隣の人達はこの村で起きた事件の話で持ちきりになっていた。
旅館を訪れる報道陣の客の話を総合すると、拳には事の発端はあの悪徳詐欺不動産である事がはっきりと見えてきて、拳の長兄もその犠牲者であり、次兄の仁が自ら爆死し、彼の父さえも彼らは騙そうとしていたのだ。
拳にとっては到底許せることではなく、養父母の自分への慈しみと愛を思うと心が痛むが、必ず復讐をすることを誓う気持ちが、この事件を起こしたのだった。
長野県警に応援を頼まれた牧野警部補は岩中拳の家族を訪れ、彼の犯行の事実を老父母に伝えると、「絶対に何かの間違いだ」と彼らは信じなかった。
ただ彼が長野の善光寺に旅行に行くと言ってたことと、免許証と本人が岩中拳だと名乗っていることでやっと信じた様子だった。
そして、牧野警部補はこの老父母から彼が実は養子で、元は麻山一族で、死んだ麻山仁の弟だと知る。
拳が別荘管理事務所の事件後すぐに、麻山仁の葬式に行ったようだとの証言も得られた。
そこで、彼は事実を知り、復讐のために犯行に及んだのだろうと牧野は確信した。
応援のため長野県警に向かう若い警官が運転するパトカーの中で、牧野は暗い気持ちで己の甘さを悔いる。
「麻山仁の葬式に自分も行っていれば拳の存在に気づいたのに」
「なぜ全員の身元をきちんと調べなかったのか」
「それをしていれば事件は防げていたかもしれない」
「別荘管理事務所の大事件が解決したと思い油断したのか?」
と、次から次に後悔が心に浮かび自分を責めた。
牧野警部補はその日は長野に泊まり、翌日長野県警での仕事を終えて善光寺に向かった。
私用に近い事情ではあったが、どうしても行っておかねばならないと思い、その荘厳な寺を訪れた。
岩中拳が潜んでいた場所の規制線はすでに外されており、牧野はそこに佇んだ。
そこには麻山拳の『涙と思念』がまだ残っているような気配がして、思わず彼は身震いした。
そして、本堂に時間をかけてお参りをした。
こんな不幸な事を二度と起こさないように精進することを誓い、死んだ麻山仁と麻山義一とその妻の安らかな眠りを祈ったのだった。
その日、家に帰った剛は兄と妻に事件の顛末を丁寧に伝えた。
無論、公表されていることとされるであろうことを中心にだが、これほどの不幸な偶然を予想できなかった自分の不甲斐なさを嘆いた時には、兄も妻も心から慰めた。
「剛よ、お前も神ではない。神様や仏様であっても祈るしかできない。ましてや俺たちには最善を尽くすことしかできないよ」
「そうよ、貴方がこれ以上苦しむ事はないわ」
「お前は本当に良い刑事になったと思うし、これからもっと良い刑事であり、良い夫で良い父になれるよ」と言われ、牧野剛は声に出さずに涙を流した。
その後、裁判を控え拘留中の麻山老人に、牧野警部補は接見中に、岩中拳こと麻山拳が黒須不動産を襲い、小山社長と田代部長を刃物で刺した事件を伝える。
麻山老人は最初は岩中拳が誰だかわからない様子だったが、彼の実弟麻山礼二の三男だと知って驚き、そしてさらにあの事件の監禁された人の中に拳がいた事を知った。
拳は『長兄の義一と次兄の仁の復讐だ』と供述していることを聞いて、麻山老人は愕然としていた。
「何という事だ!礼二の一番下の子の拳にまでこんな事をさせてしまったのか!俺があいつらを一人で仕留めていれば、他の者は罪を犯さずに済んだものを・・俺が老いたせいで・・」と叫び、彼も泣き崩れた。
牧野警部補は
「あんたが暴力には暴力で応えるような指導をしていたからじゃないのか?」と言いたかったが、あまりの絶叫ぶりに拘置所の担当官が驚いて部屋に入って来たので、何も言えずに心の中にそっと仕舞った。
翌日、牧野警部補は丈一郎に直接この顛末を詳しく電話で伝えた。すると丈一郎は
「それだ!・・私も何かが引っかかっていたんだ、胸の奥の方に。剛くんの早く戻ってこいと言う要請を、本気で受け止めておけば良かったんだ。ああ、痛恨の極みだ!本当に申し訳ない」と嘆き、声を振り絞った。
警部補は、やはり丈さんも引っかかっていたんだと思い
「丈さん、あなたのせいではないですよ。警察の甘さだと思います。というか、私の油断だと思います」
「剛くん、これは麻山一族の『オメルタの掟』を、麻山仁も岩中拳も忠実に守り、実行したのだよ。彼らに脈々と流れる、忌まわしい『血の掟』なんだよ」
警部補は、その指摘に言いようのない恐怖を感じ
「これで終わりにしないといけない!」と強く心の奥底で誓った。




