第九話 陥落
頭が真っ白になった。衝撃を受けた右腕がズキンズキンと痛む感覚だけがリアルだ。それ以外の感覚はもう非現実のものと捉えたい。どうしようもなく自分があまちゃんだったことを理解した。反省はもう過去のものに成り下がってしまって、なんの機能もしなくなっていたようだ。焦燥感が俺の脳内を支配する。今の俺は虎の尾をわざと踏んづけて怒らせてしまった状況に等しい。寝ていた虎の尾だ。
熊魔物はもう今度ばかりは逃さないと言った目つきでこちらを見ている。汗がたらりと垂れる。狼以上に対処法がない。俺にはあの熊の攻撃は一切見えない。見えないということは避けることができないということだ。さっきはたまたま刀でうけることができたが、それでもこの有り様だし、今度は受けられる気もしない。そうするとやはり逃げの一択になるのだが、きっとそれすらもあいつは許してくれないだろう。一秒たりとも熊は俺以外を見ることがない。本格的に俺を狩るつもりらしい。
低い警戒音を熊魔物が鳴らす。俺はその声を聞いて体を緊張させた。勝負は一瞬でつく。俺は死ぬわけにはいかない。強くならなくてはいけない。刀を強く握りしめた。カウンターを仕掛けるしかない。俺にできるのはそれだけだ。ブナから盗んだ体捌きと狼との死闘で手に入れた『周辺探査』を組み合わせたカウンターだ。うまくいくかどうかもわからない。でもやるしかないんだ。俺は歯を食いしばった。
熊魔物はぐっと構えた。くる!俺は全力で目を見開き、熊の動きの全てを見通そうとした。だが何も見えない。もうなす術もなく俺は目を瞑った。くるはずの衝撃はこない。
「目を…瞑ったら…ダメ」
ボソボソと聞こえる声に驚き、目を開けるとそこには倒れ伏している熊魔物と小さな少女がいた。
身長は俺より十センチほど小さいくらいだろう。見た目は幼女然としていて、この光景にアンマッチだ。だが纏うオーラは一流のそれだ。つり目がちのめにむっすりとした口元。一見するとひどく無愛想で、怒っているように見える。でもボソボソと伝えてくれた言葉の端々には全く怒りはこもっていなかった。
「目を…瞑ったら…ダメ」
カーっと顔が熱くなるのを感じた。俺は恐怖に負けて、敵の前で目を瞑ったのだ。恥ずかしくてたまらなかった。だがそれよりも今この状況の意味の分からなさをどうにかしたい。
「これは君がやったの?」
俺は熊魔物を指差す。なかばありえないと思いながらも一応聞いておく。状況的には彼女がやったのだろうが、如何せん信じられない。いかに魔族であろうと体が大きくないと筋力がないだろう。こんな俺より小さな少女が熊魔物を打倒しうるほどの筋力を持っているとは思えない。
「……」
彼女は言葉を発することなく、コクリとうなずく。あまり言葉を発したくないのだろうか。それと衝撃の事実が証明されてしまった。となると彼女は一体どうやって熊を倒したのだろう。
彼女と相変わらず目が合うことがない。彼女は服の裾をもじもじといじり続けている。目線はウロウロと忙しなさげに動いているが、決して目は合わない。
「どうやってあいつを倒したんだ?」
彼女はパクパクと口を動かすが、その口は声を紡がない。壊れた人形のように動いていた。顔は真っ赤で一生懸命だ。俺はこんな人間にあったことがないから対処がわからない。そもそも俺のあったことのある人間と魔族は数えるほどしかいない。俺の小さい人生経験の中で出会ったことのない種類の人がいてもおかしくはないかと自己完結する。とりあえず何かを伝えようとしているのだけは伝わっている。
「悪い。全然わかんない」
彼女は大袈裟に目を見開く。ショックそうな表情を隠そうともしない。すぐにワタワタと慌て始める。また何かするのかと思ったら、また話し始めた。
「ごめん…人間の聞こえる…周波数帯じゃなかった…」
俺には彼女が何を言っているのかさっぱりわからない。きっと俺の頭の中の疑問がわかったのだろう。
「気にしないで…私のミス」
彼女の語り口は朴訥としている。愛想がないようにも聞こえるが、その瞳はまっすぐに俺を見つめて、何かを伝えようとする意思をひしひしと感じる。その目には聞きたいと思わせる何かが宿っているような気がする。
「それで、どうやって倒したんだ」
先ほどの質問を再度聞いてみる。謎が多い少女である。そもそもまず彼女が敵か味方かもわからない。だが俺は彼女の纏うオーラが敵のそれではないと感じ取っていた。カンと言われればそれまでだが案外俺はこれを信じていた。熊の纏うオーラには赤色が入っていたし、狼にも赤色が入っていた。だがブナには緑色が入っていた。この少女にも薄く緑色が入っている。この色が何を指すものなのかは全くわからないが、俺はブナを信用している。そのブナと同じ色が入った少女を信用するのはそう難しいことではない。だから俺は此の少女を敵とは認識できないでいた。
「どうって…」
彼女は小首を傾げる。その仕草は愛らしい。俺にもそんな感情が宿っていたことに驚く。彼女のその仕草は守ってあげたくなるような本能を突き動かす何かを持っていた。
「ただ峰打ちしただけだよ」
彼女はポンと腰にある刀を軽く叩く。信じられなかった。俺より小さい少女が俺が倒せそうもない熊魔物を一撃で倒してのけるなんて。でも悔しさはあまり感じなかった。ただちょっとした憧憬の念が浮かんだ。俺のこれまでしてきた鍛錬もそう簡単なものではなかった。素振りは気が遠くなるし、重いし、痛い。ああ言った鍛錬を俺以上にしていたのだろうから単純にすごいと思った。
「すげぇな」
だからその一言がぽろっと口から漏れたのも必然だった。彼女はそれを聞くと嬉しそうにニンマリと笑い
「ありがとう」
と頬を染めて、いった。その彼女の仕草はやっぱり可愛くって、俺も顔が熱くなるのを自覚した。
楽しく読んでいただければ幸いです。気に入っていただけたら何かしらしていただけると私嬉しくて泣きますし、メッチャ書きます。