表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/24

20 漂流

すごく久しぶりになってしまいました

 劇場にシモーヌを迎え入れた頃、季節はゆるやかに移ろおうとしていた。


 つい先日秘密裏に行われたご令嬢のお引っ越しは、オリオールの采配によってつつがなく行われた。シモーヌには「支度をしておく」と言ったロクサーヌだが、実際のところは特に何もしていない。オリオールによろしく頼むと告げたくらいだ。

 実はそのお願いすらも無意味で、アルベールやシモーヌの実家であるユボー家から再三頼まれていたオリオールは、「バーメイドはしなくていい」と冷たく命じてロクサーヌを自室に閉じ込めた。


 シモーヌによる誘拐――ロクサーヌの失踪はオリオールの心労を加速させたようで、帰るなり支配人室に引っ立てられ、散々彼に説教された。だから十分に罰は受けたと思っていたロクサーヌは、支配人のこの仕打ちに肩を落としたのだった。

 こうして暇になったロクサーヌは、客を取る時以外は刺繍をして無聊を慰めている。それを見たリリアーヌはまたロクサーヌが()()()()なったと騒いだが、酒を飲まず大人しくしているのは歓迎なのだそうで、今は刺繍糸を調達してくれたりと協力的だ。


「それで、あんたはどうするのさ?」


 リリアーヌからのぶっきらぼうな問いに、ロクサーヌは針を止める。


「何もできないわねえ。仕事がなければ部屋から出られないもの」


「そうじゃなくて。あの〝王子サマ〟の愛人の肩を持ったら、あの騒がしい婚約者が黙ってないんじゃないの?」


 げんなりした顔で言うリリアーヌに、ロクサーヌも同意する。しかし、のんきに「そうねえ」と笑ったのが気に入らない年下の同僚は、不機嫌顔だ。


「ただでさえあんたの周りはごちゃごちゃしてるのに、自分から厄介事を持ち込むのはあんたが馬鹿だからだ。でも、あの女の鼻っ柱をぺしゃんこにしてやりたいってのは、あたしも分かるよ」


 あの女はどこぞの飲んだくれと変わらぬ下劣な品性のくせに、娼婦を見下している。リリアーヌは、ロクサーヌと目を合わせたままそう言い切った。その〝飲んだくれ〟に相当腹を立てているのだ。

 しかし睨まれたロクサーヌは笑みを深める。そしてついには「鼻がぺしゃんこになったら、大変ね」と声を上げて笑った。


「……あの女もあんたの図太さには負けるわ。それにあの()()()もなかなかだよ。こんなとこに身を寄せて、あのろくでなしとよろしくやろうっていうんだろ? 親は泣いてるんじゃないの」


 借金返済のために劇場に駆け込んだリリアーヌは、複雑そうだ。普通の貴族のご令嬢は自ら望んで娼婦の中に紛れたりしないし、それは庶民であっても同じで、好き好んで身を落とす馬鹿はいない。しかし、そんな馬鹿なことをしたシモーヌ本人は毎日元気にしているそうだ。

 胡散臭そうに見てくるリリアーヌに、ロクサーヌはまだおかしそうに笑いながらささやいた。


「ねえリリアーヌ。わたしはただ、楽しく生きたいだけなのよ」


 穏やかな言葉に潜む毒に気づいて、リリアーヌは顔をしかめる。しかし、手助けはしないと釘を刺すだけに留めてくれた。それで満足なロクサーヌは、にこにこと機嫌よく刺繍を再開した。




 ◇




 久しぶりに訪れた王宮は、記憶の中にある姿よりも荘厳さを増しているように見えた。ただ、朽ちぬ光輝宮とも呼ばれるこの場所は、〝ヴィクトリーヌ〟だった時にはもっと重苦しく感じていたようにも思う。


「久々の王宮に怖じけたのかな?」


 目線はよこさずにそっとささやかれ、ロクサーヌは声の主に向き直る。相変わらず品の良い格好をした壮年の紳士は、口髭の下の唇の端をほんの少し上げた。その横顔は彼の娘とは似ていない。そしてこのクロード・ユボー伯は、娘のシモーヌのように素直な性格ではない。それなのに時折驚くほど娘に似た澄んだ眼差しを向けてくるので、彼がこちらを見ないのはありがたいとロクサーヌは内心で苦笑する。


「――いえ、記憶に違わぬ光輝宮を前にして、感慨にふけっておりました。ここは美しいままなのですね」


 庶民に落ちたからといって、今さら怖じけたりしない。言外にそう示したロクサーヌに、ユボー伯は満足げに頷いた。


「よろしい。では、行こうか。……そなたを使役せねばならぬのは忍びないが、許せ」


 彼は侍従一人を伴って先行し、その後を荷物を抱えたロクサーヌがしずしずと続く。今のロクサーヌは娼婦ではなく、ユボー家のお仕着せをまとった侍女だ。今日は栗色のかつらをつけ、体は昔よりも痩せてしまったので、王宮の誰も正体を見破れないだろう。


(――ただ、本当にうまくいくのか分からないわね)


 アルベールを口実に王宮に参上したユボー伯の真の目的は、王太子テオドールだった。シモーヌの不遇は周知の事実なので、その父親が元凶であるアルベールを訪ねるのは不自然なことではない。しかし、王太子が厄介者のアルベールの元を訪れるのだろうか。


 劇場で持ちかけられたこの策は、テオドールとロクサーヌが対面し、揺さぶりをかけることで達成されるという。ユボー伯はアルベールの態度が変わらないことに業を煮やし、その兄であるテオドールに標的を変えて娘を援護するつもりらしい。弟よりは良心のある兄につけ入る隙があると見たのだ。


 テオドールは結果的に罪人を妃に迎えずに済んだ被害者だが、リベ家や王妃派の瓦解の余波は大きく、未だに彼と距離を置く者も存在するという。その中には古参の貴族もいるので、彼らからの支持を得られないままでは即位後も盤石とはいえない。そしてバシュレ家に権が偏っている今、テオドールと王家はアルベールの醜聞に頭を痛めている。


 そんな王太子だが、そろそろ後ろ暗い過去を払拭したい時期なのだとユボー伯は言った。それには、無軌道な弟王子の行状を兄として正すのがちょうど良いのだとも。それを聞いたロクサーヌはにんまりと笑ってしまった。

 その大切な時期を狙ったように婚約を破棄したアルベールに始まり、婚約者の座を奪い取ったマリアンヌが足繁く顔を出し、それにシモーヌまでもが加わった王宮はさぞ賑やかだったのだろう。娘の行動を黙認していたユボー伯が語った当時の様子は、彼の軽妙な語り口も相まって実に愉快だった。


 曰く、気分でころころと未来の伴侶をすげ替えた代償は、王家の人間といえども払っていただかねばならない、ということらしい。だから彼は、自分の娘が無断で外に出かけるばかりか娼婦を拐かそうと、王太子に何度も助力を願おうと止めなかった。クロード・ユボーは、シモーヌの父として王家に憤っていたのだ。

 そんな父親の心情とテオドールに娘の不遇を直訴する計画を打ち明けられて、ロクサーヌは彼の手を取ったのだった。


 勝手知ったる王宮の通路を歩きながら、ロクサーヌはわくわくしていた。侍女らしからぬ軽い足取りになりそうなところを、抱えた荷物のおかげで何とか落ち着きを保っている。だから前方のユボー伯の足が止まったことに少し遅れて気づいた。続いて鼻をかすめた芳香に、思わず顔をあげそうになる。どうやら、王太子妃セリーヌと行き合ってしまったようだ。


「ユボー伯。本日はどのような用件で王宮にいらしたのかしら? あなたのご令嬢は、こちらにはおられませんよ」


 優雅な声で、しかしたっぷりと嫌味の込もった言葉をかけられた伯は、朗らかに第四王子への贈り物を持参したのだと応じた。彼はシモーヌがテオドールを訪ねる度に王宮に上がっており、用もなく押しかけるのは王子の婚約者という立場を盾にするマリアンヌくらいだったところに、「婚約を反故にされた哀れな娘と、それを迎えに来た父親」としてユボー親子も加わったのだ。王太子妃としてはさぞ鬱陶しいのだろう。


「娘が心痛のあまり王太子殿下にお縋りしてしまったことにつきましては、申し開きのしようもございません。両殿下には、折を見て親子共々お詫びに伺う心算(こころづもり)でおりますが……」


 このクロードからの申し出に、セリーヌの声が一段低くなる。不快感を隠そうともしていない。


「無用です。そのようなことに心を割く必要はありません。それよりも、ご令嬢のようにあなたもしばらく静養なされるのがよろしいのでは?」


「おお、お気遣い痛み入ります、殿下」


 当分顔を見せるなと言われても、ユボー伯は一向に堪えていない。それをセリーヌがどんな顔で眺めているのか見られないのが残念だ。ロクサーヌは目を伏せたまま視線をずらしてみるが、見えるのはやはりセリーヌの美しい絹の裾ばかり。ここで侍女の正体が露見しては台無しなので、セリーヌが去るのを彫像になったつもりで見送った。


「……さて、行こうか」


 楽しそうに呟いた主人に、侍従――誘拐の折にシモーヌの傍にいたあの男だ――は一瞬だけうんざりした顔をした。彼はユボー家の使いで度々劇場に来ても決してロクサーヌの客にはならないのだが、こんな顔をされると労いたくなる。視線が合ったので口元だけでほほ笑むと、あの時のようにすっと目を逸らされてしまったが。


 その後は官吏や侍女とすれ違うくらいで、厄介な人間の目につくことなくアルベールの居室にたどり着いた。

 美しい彫刻の施された扉に、蔦を模した金の取手。かつての〝ヴィクトリーヌ〟がこの王宮で唯一心を軽くして開いていた扉の先に、求めていた人物が立っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ