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間奏 セリーヌ2

 セリーヌは、正統な手順を経て婚姻を結んだ王妃との仲を最初から諦めていた。どう申し開きをしても、彼女から見たら自分は元の婚約に横槍を入れた対立派閥の娘だからだ。リベ家の没落とほぼ同時に成った婚姻は、セリーヌが王太子妃となる是非が問われる間もなく推し進められた。それを見つめる王妃の冷えた視線は、彼女の感情を如実に語っていた。

 その王妃よりも危険な王太后を後見に選んだのは、若さゆえの無謀だけではない。王太后であればテオドールが即位する頃には天に召されているか、少なからず衰えていると読んだからだ。力のない時には存分に利用させてもらい、いずれはその影響力を排除できると思い上がっていた。そしてそれが最も賢い道だと、その時のセリーヌは信じていた。


 ヴィクトリーヌというよりは、その背後のリベ候を疎んじていた王太后。そしてその影でうごめくバシュレ家が共謀して事を仕組んだのだと悟った時には、全てが決した後だった。その混乱から間を置かずにヴィクトリーヌの後釜に据えられた時のことは、生涯忘れられそうにない。子供だったセリーヌが夢に見た、ただ歓喜して受け入れるはずだったその瞬間を、決して逃れられない重い枷をはめられる運命の分かれ目のように感じたことを。


『必ずあなたを守るから、どうか私の伴侶となってほしい』


 テオドールは、そう告げてセリーヌの手に口付けた。愛しい人を妻に迎える男のものとは思えぬ硬い表情と乾いた唇の感触は、今も脳裏に焼き付いている。それでもセリーヌは、声を震わせて求婚を受け入れた。そして抱擁を受けた時に彼の体も自分と同じように震えていることを知り、触れ合い温もっているはずの肌が急速に冷えていく錯覚にまた震えた。テオドールもまた、リベ家の末路に戦慄しているひとりであったのだ。ヴィクトリーヌらが死罪だけは免れたのは国王の尽力の結果であり、王太后の意向に反するものだったが、心底安堵したことも覚えている。それは罪悪感からではなく、二人の幸せを血で汚されては堪らなかったからだ。しかし、セリーヌはすでに真っ白な花嫁とも言えなくなっていた。

 リベ家の没落という薄暗いものを背景に縁を結んだからには、テオドールの愛だけをよすがに生きることはもはやできないことを、セリーヌは本当の意味で覚悟した。それでも彼への愛が揺らいだりはしなかったが、テオドールの方はいつかセリーヌとバシュレ家を疎んじるのではないかという不安は今も胸の底に残る。だからテオドールには、王太后らの画策を知っていたのかと尋ねたことは一度もない。


 セリーヌは愛する人の心を得て、二人の仲が許される状況を作ることができた。自分の思い描いた通りになった。しかし、それに伴う犠牲を他者に払わせたという現実は想像していたよりもずっと重く心にのしかかり、婚姻が成立してからも気分は晴れなかった。

 皆に祝福されながら幸せな結婚をするはずだったのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。王太后に近づいたことが間違っていたのか。父の暗躍を放置したことが悪かったのだろうか。それとも、父への不安を漏らした時に慰めてくれた兄の言葉を信じ、任せてはいけなかったのか――。

 リベ家の没落はセリーヌにとっても想定外の出来事だったなどと、世の中の誰が信じるだろう。それでもセリーヌ自身は、ヴィクトリーヌの実家まで蹴り落とす必要などなかった。ヴィクトリーヌと争うことを迷わなかったのは、そうしなければテオドールと結ばれないからで、結ばれた後のことはセリーヌの埒外だったのだ。


 その後、リベ家の没落から一年ほどで当主夫妻が相次いで没したと耳にした時、セリーヌの胸中に真っ黒い染みのようなものが広がった。さらにヴィクトリーヌも後を追うように病死したと知り、その染みは決定的な濃い影となってセリーヌに付きまとうようになった。

 しかし、全てはもう過去のことだ。何をしたところで壊れたものは元に戻りはしない。リベ家は既になく、所属していた派閥もかつてよりも衰退した。そして王太后も近頃は病がちで、そろそろ政に干渉することは難しくなってきた。こうして歳月は過ぎていくのだ。

 今のセリーヌは二児をもうけて王太子妃としての地位を確立し、テオドールも将来の国王として嘱望されている。もはや暗い影など入る隙のない、輝かしい未来だけが待っているはずだった。それなのに、不意に過去の闇がセリーヌを捕らえた。

 ヴィクトリーヌ・リベ。彼女が劇場の娼婦として生きながらえており、そしてそれを他ならぬ夫が隠し立てしていたことに、セリーヌは二重の衝撃を受けた。


「……ヴィクトリーヌ。あの者が娼婦だなんて、冗談にもならないわね」


 夜も更けた寝室で、セリーヌはひとりつぶやく。


 つい先日、テオドールが手厚く支援している劇場の視察に同行を申し出たところ、妙に素っ気なく退けられた。それを怪しんだのは、女としての勘だ。涙まじりに「妻にも言えない事情でもあるのか」と何度も問い詰めたところ、セリーヌに甘い夫はついに口を割ったのだ。ヴィクトリーヌの名を出したテオドールの低い声は、セリーヌがあの日から付きまとわれている影を感じさせるのに十分だった。

 そして、苦虫を噛みつぶしたような顔で末弟の怪しげな行動についても明かしたテオドールは、ヴィクトリーヌの周囲をうろつく弟を探るために劇場に足を運ぶつもりだったとセリーヌに許しを乞うた。セリーヌも義弟には頭を痛めていたので、テオドールの気持ちは分かる。彼のおかげで王太子の結婚の経緯が再び取り沙汰されていて、非常に迷惑しているのだ。日頃から口うるさく小言を言っても一向に堪えた様子もないのがまた腹立たしい。さらに厄介なことに、アルベールは亡き王弟に面差しが似ているとかで王太后の後押しを得て、自らの婚約を反故にしたのだ。王太后を含めた過去を払拭し、即位に備えようというこの時期に何ということをしてくれたのかと、この時ばかりはセリーヌも淑女の顔をかなぐり捨てて激怒した。


 そんなセリーヌをあざ笑うかのように、アルベールは自由気ままに振る舞う。そして彼の新たな婚約者となった令嬢までもが、セリーヌの理解を超えた人間だったのには参った。マリアンヌと名乗ったその令嬢は、通り一遍の挨拶を終えた途端に王太子妃であるセリーヌに対して妙に馴れ馴れしい態度をとるようになったのだ。あの自信満々の顔を見ると、かつての幼かった自分が思い出されて不快な上に薄気味悪くてならない。よって、セリーヌは二人とはなるべく顔を合わせないよう注意を払うはめになっている。あの令嬢を前にすると、セリーヌの色々な我慢がぶつりと千切れ飛びそうになるのだ。

 しかし夫は、優秀な弟君達よりも手のかかる末弟がかわいいらしい。どうにも身内に甘いところのある夫を許さない妻ではないが、ただでは転ばないのもセリーヌだ。同じものを背負った愛する夫の心を晴らしたいという妻の真心を盾に、渋るテオドールからヴィクトリーヌと面会する約束を取り付けることができた。セリーヌの心に影を落とす象徴である彼女が生存しているのならば、過去と決別するためにも会うべきだと思い立ったのだ。


 そしていよいよ、明日が(くだん)の劇場を訪う日だ。

 かの令嬢は、そこでどのような人生を送ってきたのだろうか。セリーヌの知るヴィクトリーヌは、いかにもそのような華やかな場に似つかわしくないように思う。彼女はふっくらとした顔に、いつもどこかぎこちない笑みを浮かべていた。それでも所作に気品があり、立ち姿にはリベ家の娘としての矜恃が見えた。一方で、何を話しても当たり障りのない答えばかりが返ってくるとテオドールがこぼしたこともあった。だからきっと、無遠慮に触れてくる客をあしらうこともできないのではないか。生粋の貴族だったヴィクトリーヌと娼婦というものが、うまく結びつかない。

 あの茶会で出会って以来、セリーヌはヴィクトリーヌを見続けてきた。だから彼女が萎れていく様を、婚約者だったテオドールよりも克明に思い出せる自信がある。テオドールの心が彼女から離れるように仕向けたのは他ならぬセリーヌ自身だが、同じ貴族の娘として察せられることは多かったからこそ、戸惑うヴィクトリーヌに苛立ちを覚えた。彼女はどこまでも不器用で、セリーヌのように他人を利用して己を守ることすらできずにテオドールを失ったのだ。


 ヴィクトリーヌは所持していた薬草でセリーヌを害そうと画策したと断定され、王弟の件で捕縛された父親共々断罪された。それが単なる安眠を誘う薬草だったことも、テオドールに贈るために用意したものであることも、知っていた。しかし、その薬草で眠らせてセリーヌを拐かそうとしたという罪状は、セリーヌ自身に知らされぬままバシュレ家によって仕組まれていた。「ヴィクトリーヌの依頼で馬車を用意した」というならず者の男の証言によって、彼女は有罪となったのだ。


(それでもわたくしは、少しも後悔していない。過去の亡霊がわたくしを捕らえて放さないと思っていたら、生きていただなんて。お前の顔を見たら、娼婦など似合わないとあざ笑ってやるわ)


 夜の闇が破られ薄緋色に染まる頃、セリーヌはようやく窓辺から離れた。

せっせとシールを集めて応募した懸賞に当選しました。ああ、出せば当たるんだなあと嬉しくなりました。休日の朝、起き抜けの顔と頭で玄関先に出ることになったとしても……。ともあれ、郵便局の配達員さんに感謝。ありがたや。

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