168.禁術、北極族の呪詛
ヒュヴィンカーは古くからある街で、かつては多数の貴族が住んでいたこともあり、古いながらも立派な建物が多く立ち並ぶ街だ。
それは地上の建物だけではなく、地下には大規模儀式を行えるような巨大施設も存在していた。
地下に広がる大きな空き地。魔法でもなくば大地の下にこのような巨大な空洞を作り出すのは難しかろう。
その中心に二人の男が立っているが、空洞のあまりの大きさに、まるで小さな虫がちょこちょこと蠢いているようにも見える。
圧巻なのは、この空洞の大きさだけではない。
空洞の床一杯に描かれた巨大な魔法陣だ。魔法使いにすら理解が難しいような難解な術式が描かれており、それらが幾重にも幾層にも積み重ねられ床に刻み込まれている。
その精緻さと複雑さは、この価値を知らぬ者ですら触れるのを躊躇うような、見事な出来栄えであった。
魔法陣の中央に立つ初老の男と中年の男。
中年の男は初老の男に言いつのる。
「どうか! どうかお考え直しください! ここは実験施設でも人里離れた山中でもないのです! この真上には多数の人が今も住んでいるのですよ!」
初老の男は面倒そうに中年の男に言う。
「だからなんだ。陛下より特級儀式魔法の使用許可は出ておるであろう」
「だからとわざわざこのような場所で! よりにもよって北極族の呪詛なぞという恐ろしい術を用いずともよいではありませんか! 敵を打倒する術式ならば他に幾らでも……」
「人が多いからこそ北極族の呪詛が最適なのであろう。何故そんな当たり前のことがわからんのだ」
「ヒュヴィンカーには八千以上の民がいるのですよ! この儀式を行なってしまえばその全てが失われてしまいます!」
「だーかーら、それがなんだというのだ。わからん奴だな。大体だな、北極族の呪詛はイジョラ史においてもまだ使用例は十もない。しかもだ、これまでは最大でも小規模の街一つ、千人程度でしか行なったことのない術だ。それを、ヒュヴィンカーの地下魔法陣を用いることで数千人の規模で実施できるのだぞ。お主も魔法使いならば何故これに興奮せぬのか」
「それが多すぎるというのです! 魔法の巻き添えで数十人が死傷するなんていう規模ではないのですよ! さすがにこれは陛下もお許しにはなられませんでしょう!」
「あー、あー、あー、なるほど、貴様はそこが気になっておったのか。馬鹿め、だから貴様は未熟なのだ。陛下が広域攻撃魔法や特級儀式魔法の許可を出したことの意味を、貴様は全く理解しておらん」
「……いみ、ですか?」
「使っていい、ということは当然、それが生み出す最大被害を許容するということだ。敵が街中に隠れているのなら、街ごと広域攻撃魔法で吹き飛ばせとおっしゃっておるのだ。そこまでしてでも殺さねばならぬ敵だという意味だ。その程度察しろ、馬鹿者めが」
絶句する中年の男。
わかったならさっさと手伝え、と儀式の最終調整に入る初老の男。
その一手一手が、ヒュヴィンカー八千の民の命を奪う一歩一歩であると理解している中年の男は、信じられぬ顔で後ずさる。
「おい、まだわからんの……」
中年の男ではこの初老の男は止められぬ。魔法使いとしての技量も覚悟も違い過ぎる。だが、だからと八千の民を殺す儀式に手を貸すような恐ろしい真似をする決断もつかぬ。
彼は後ずさったまま、悲鳴を上げて初老の男のもとより走り去る。
「へ? あ、いやおい待て! ちょっと待て! 貴様本気で逃げるのか!? おいこらこれ残り全部ワシにやらせる気かこの馬鹿者があああああああ!」
初老の男の悲鳴にも似た声は中年の男には届かなかったようで。かといってあの中年の男は初老の男とは別派閥の魔法使いだ。
手柄を独占するのはよろしくない、と今回の儀式に際しヒュヴィンカー地下魔法陣に入ることを許された立場の者を他所の派閥より助手として迎え入れたのだ。
これが自分の派閥の者であれば魔法を使ってでもやらせるところだが、他派閥の者にそんな真似もできない。
せっかく他派閥に配慮してやったというのに、こんな使えない馬鹿を寄越すとは、と憤慨しながら初老の男は儀式の準備を続けるのであった。
スティナがその時を迎えたのは、この街に外部より来た偉い魔法使いが今どこにいるかを探っている最中であった。
古神殿を出たアイリはこちらに合流しており、手が足りないから手伝えと言われ、隠れ家で待つイェルケルとレアの食事は自分たちでなんとかするでしょ、と放置が決定していた。
スティナとアイリもまた、昼の青空があっという間に夜空に変わり、禍々しい厄災でも降ってきそうな空模様を、唖然とした顔で見上げていた。
ただこちらの二人がイェルケルたちと違うのは、きちんと、かつ当たり前に、身を隠しながらそうしていたことである。
スティナは今も怪しく蠢く空の黒文様から目を離せぬままアイリに問う。
「これ、例の魔法使いの仕業だと思う?」
「どうだかな……その地下魔法陣の場所の心当たりはもうないのか?」
「平民でありかを知ってる人間いないみたいだし、ここになきゃ私にももうお手上げよ。今すぐ殿下たちと合流して逃げ出した方が良さそうじゃないこれ?」
「それが、間に合うのか? こんな派手な真似してなお我らに逃げる余裕を与えるような、そんな間抜けとは思えんが」
わらわらと、道路に二足歩行狼があふれ出してくる。
スティナとアイリの二人は、外より来た魔法使いが宿泊していると思しき建物まで突き止めていたのだが、魔法使いの姿は見えず。
見渡す限りにいた人間全てが二足歩行狼へと変化してしまったのを見て、スティナはアイリと顔を見合わせる形になると予想しながらアイリを見て言った。
「なるほど、なるほど、ね。人を化け物にする魔法と。んで、これを使って私たちを殺す、か。あの化け物、かなりヤるわ。油断したら……ってアイリ? 何よその顔?」
「ん? 私の顔がどうした?」
「どうしたじゃないでしょ。ちょっとちょっと、何があったのよアンタ。アイリのそんな顔、私初めて見たわよ」
青ざめた顔色で、瞳は小刻みに揺れている。それはまるで、アイリ・フォルシウスが怯えているかのような、そんな表情であった。
「だ、大事ない」
「いやいやいやいや、これ以上の大事なんてちょっと思いつかないわよ。今日のびっくり天気に相応しいありえないもの見せてくれちゃってまあ。いったい……」
そこで言葉を止めるスティナ。常ならぬ様子のアイリもまたそちらに目を向ける。
外より来た魔法使いのための宿泊施設の側に、悲鳴を上げる男の姿を認めたのだ。その男は周囲の人間が皆狼になっている中、人間の姿を維持したままであった。
「嘘だ! 嘘だ! こんなのは嘘だ! ほ、本当にやるなぞと! 中央の魔法使いはいったい何を考えているのか!?」
近くの人狼たちはその男、中年の魔法使いを見つけるなりそちらへと殺到していく。
その動揺しきった言動はともかく、魔法使いとしてはなかなかに優秀な男のようで、迫りくる人狼たちに対しぴたりの間で全ての人狼を巻き込めるよう炸裂する炎弾の魔法を撃ちこみ撃退する。
スティナは舌打ちした。
「あの魔法でも無理なの? あれ、相当外皮固いわよ」
中年の魔法使いの魔法は、その爆発で煉瓦造りの壁をぶち破る威力があったのだが、まともにもらったはずの人狼たちは吹っ飛ばされはしたものの、これといった損傷もなく立ち上がってくる。
スティナはアイリを促し中年魔法使いの前へと飛び出した。
「君たちは!?」
「手を貸すわ。だからいったい何が起こってるのか、教えてもらえないかしら」
少し不安はあったが、口八丁で人をどうこうするのはスティナの方が得意だ。
この場はアイリに預けるのが最適である。
「後頼むわよ」
「任せろ。適当に始末したら……すぐ追いつく」
スティナはすぐにこの男を小脇に抱えると、壁を蹴って屋根の上へと飛び上がっていく。追いすがらんとする人狼たちはアイリが食い止めている間に、スティナはさっさと男を連れ安全圏へと離脱していった。
落ち着いて話せる場所、屋根の上でかつ周囲の道路からは見えない影になっている場所に身を潜めたスティナと中年の男。
中年の男はとても驚いた様子であった。
「なんたる身体能力。その人ならぬ美貌といい、もしかしてお前はヒト人形か?」
「こんな好き勝手動けるヒト人形がいるもんですか。まあ、当たらずといえども遠からずってところでもあるけど」
なんて適当に話を合わせるスティナ。
自身の知識、常識が通じる感じを受けた中年の男は、とても安堵した様子であった。
「そ、そうだな、すまない、失礼なことを言った」
「まあいいわ。それより、何が起こってるのか貴方、わかる?」
中年男は驚き目を見開いた後、自分の内で理由を見つけて勝手に納得する。
「北極族の呪詛を知らんのか? ああ、そうだな、まだ若い魔法使いには教えられておらんかもしれん。名前ぐらいは聞いたことがないか? 特級儀式魔法、北極族の呪詛だ。それもヒュヴィンカーの地下魔法陣を用いた特別強力な術だ」
強力な儀式魔法の影響を受けぬ者となれば、通常は相手を魔法使いであると認識するものだ。
強い意志の持ち主には魔法は通じぬものであるが、そういった手法で魔法を防ぐのは少なくともイジョラでは一般的ではないし、そもそも平民には強固な自我が魔法を防ぐなんて話は伝わっていない。
「あー、聞いたことはある、けど、どんなのか覚えてない」
「……いや、まあ、恩人に説教をするのもなんだし私からくどくど言うつもりもないが、儀式魔法の有名どころは覚えておかぬとお主の師も困るであろうに」
「そ、それは後にして。それよりもどういう魔法なのか教えてよ」
「うむ。これは呪詛の名の通り、魔法の影響下にある者を人狼へと変化させる儀式魔法だ。ヒュヴィンカーの地下魔法陣を使ったこともあり、とんでもなく強力な個体になってしまっているな。……なんということだ、魔法が発動した以上、最早全ては手遅れだ。ヒュヴィンカー八千の民は皆助からぬ。漂う黒き呪詛を体内に取り込んでしまった以上、遅かれ早かれ皆人狼と化し死に至る。このような無茶を、よりにもよって中央の魔法使いが行なうとは……」
中年男の声に、驚いた顔で問い返したのは、いつの間にか追いついてきていたアイリであった。
「おい! その話は本当か! 元に! 元に戻すことはできんのか!」
妙にうろたえているアイリに、スティナも中年男も目を丸くする。
中年男は何を言っている、といった顔で答えた。
「身体を変化させる魔法が不可逆であるというのは、何よりも先に教えられているはずだろう。そもそも身体を変化させれば内部器官構造と身体性能に大きな乖離が発生してしまうのだから、仮に戻せたところで生じた無理が元でいずれかの器官が大きく破損し死に至るというのは、身体変化魔法を間違っても自分に使ったりせぬようどこでも真っ先に教えることだと……」
とある可能性に気が付いた中年の男は、そこまで言って言葉を止める。
そんな中年男の様子に気付いていながらもスティナはまずアイリに言った。
「何か、気になることがあるの?」
「……い、いや、問題はない。優先順位を誤るようなことはない」
「いーえ、間違ってるわよ貴女」
「何?」
中年男を放置でスティナはじっとアイリを見つめる。
「私たちは、私たちの全員が、自身の納得を優先することを認めてる。ねえ、私たちは全員、自分たちが戦場で死ぬことに納得してる。でも、だからこそ、納得したままで死にたいとも思うわ。貴女が納得できないことができたというのなら、それをきちんと解消しておかなきゃでしょ。結果がどうあれ」
くすりと笑うスティナ。
「私はすぐに向こうと合流するわ。だとしたら、貴女のそれで誰かが死ぬとすれば、最初に死ぬのはきっと貴女よ。自分で選んで自分が死ぬんだから、それは納得できることでしょう?」
苦々しくアイリは笑う。
「納得なぞできるものか。我が最大の望みは主のために死ぬことだ」
「それ以外の全てがどうでもいいっていうんなら、貴女がそんな顔するわけないじゃない。何が貴女をそうさせるのか、後で話聞かせなさいよ、ものすごく興味あるわ」
すまん、とフードを深く被って走り去るアイリ。
スティナに聞こえない場所まで一気に走りながら、アイリは呟く。
「……そうだな、話を、聞いてくれスティナ。私にも何故こんな真似をしてるのか、よくわからんのだ」
そして残された二人。スティナと中年男。
中年男はとある可能性に気付き、スティナは中年男がその可能性に気付いたことに気付いている。
「ま、さか……お前は……」
「そ、殿下商会よ。よろしく、ね」
何が起こっているのか、いったいコレは何者なのか、数はどれほどいるのか、増援はあるのか。
何もかもがわからないことばかりでは、勢いで迎撃するわけにもいかず。イェルケルとレアは二人並んで、街中を走って逃げていた。
「でんかっ! でんかー! この街! 人口どれくらいだったか! 覚えてるー!?」
「万を超える街ではなかったはず! だとしても数千はいるだろうけどさ!」
「数千!? さすがに! あの狼もどき数千は死ねる!」
「全員が狼もどきになってるかもわからんけどな! というかこれこの街だけの話なのか!?」
「怖いことっ! 言うなー!」
レア言うところの狼もどきとは既に交戦している。
その際、皮膚の硬さが予想以上で、レアは二体目で、イェルケルは三体目で剣を折ってしまっていた。
自分の方がもった、ということでイェルケルがふふんと鼻を鳴らすと、レアはイェルケルの尻を蹴飛ばしていた。三騎士の中で最もイェルケルに対し気安いのは間違いなくレアであろう。
そしてこの人狼が相手であると、兵士とは違って武器の補充がきかない。
素手だと倒すのに手間はかかるし人狼は続々増えるしで、こりゃいかんと二人は一時退却することにしたのだ。
まだ人狼は各個の判断で動いている。これが集団で集まり軍として機能するようになったら、さしものイェルケルたちも尻尾を巻いて逃げるしかないだろう。それほどの戦闘力を持つのだ。
そして人狼はそうするやもしれぬ、と思えるだけの知性を持っていた。
言語を介した意思疎通は絶望的だが、人狼同士では雄叫びを用いた交流が可能らしい。
イェルケルは頭を抱えたくなる思いでぼやく。
「連携取ってくるのは時間の問題だな」
「だったらその前に少しでも潰しておく?」
「……なあ、レア。コイツらってさ、みんな兵士でもなんでもない、平民、だよな?」
「多分、ね」
「つくづく、私はこの国の魔法が嫌いなんだと思うよ。なあ、オスヴァルド殿が言ってたよな。魔法は不可逆で、特に身体を変化させるような魔法は一度変えてしまったら元には戻らないし、大きな変化をさせてしまえば三日ともたなくなるって」
「覚えてる」
「この状況を見越して教えてくれてたのかもな。……時間制限あるんなら素直に逃げておくさ」
下を走っているから追いつける、と相手は思うのだ。
程よい建物が見えると、イェルケルとレアは壁を蹴ってこれを登っていく。
建物の上は下から見れば死角が多く、視界を切ったうえで二人が移動すれば振り切るのも難しくはないだろう。
「でっ! でんか! あれ! 見て!」
レアの驚きの声につられてそちらを見るイェルケル。
視線の先では、追ってきていた人狼たちが一斉に、イェルケルたちを真似たのか壁を蹴って建物の屋根へと飛び乗ってきていた。
「な、な、な、なんだそりゃああああああ! そんなんアリかああああああ!」
これまで何度も他人に言わせていた台詞を叫びながら、イェルケルたちは本気で逃げにかかるのであった。