166.ヒュヴィンカーの惨劇前夜
殿下商会の四人は、ヒト人形工房を燃やした後、情報収拾のためヒュヴィンカーの街を訪れる。この街は主要道路より外れた場所にあるが、古くからある街で歴史のある建造物も多い。
着いてすぐ、四人は手分けして仕事にかかる。隠れ家を見つける、この街の戦力を把握する、イジョラ側の手配状況の確認等々である。
人の目につかぬような動き方、目立たぬような立ち居振る舞い、そういったものは国や街によってより相応しい動きが異なる。
なので慣れぬうちは殿下商会程隠密術を得意とする者でも相応の緊張を強いられるものだが、最近はもうイジョラという国にも慣れてきているので、それほど負担ではなくなっている。
スティナは隠れ家にできる場所を三か所ほど確保した後、この街で一番偉い者のいる場所に忍び込む。
街長は中年の男で、歴史ある街の長らしからぬ精力的な動きで仕事をしている。
スティナの感覚から言うと、一番上がきちんと忙しい組織は大抵下もしっかりしてくるもので。
そういった面だけ見ればこの街は用心すべき相手ということになる。だが、スティナはその忙しさからまた別の匂いをかぎ取っていた。
『……いつもの、動きじゃない?』
いつも忙しいのではなく、今だけ忙しい、そんな不慣れな忙しさの中にあるように感じられたのだ。
スティナがこの街長を見るのはこれが初めてのことで、この街の状況なんてものも概況以外はほとんどわかっていない。だからこういう感覚はもう、それこそ女の勘だのといった言語化が難しいものである。
ただあながち勘だけといった話でもない。
街長の表情は優れず言動は苛立たし気で、彼はとても大きな心配事を抱えているように見えた。
この街長は平民である。イジョラの貴族は一般的には統治に直接関与しない。そうした面倒な雑事は平民に任せてしまうのが常である。
この仕組みのせいで街長の動きを抑えても貴族の動きが見えてこないので、貴族の動きを知りければまた別の場所に忍び込まなければならない。
だがこの二つに繋がりがないわけではない。例えば、街長に意に染まぬ話を押し付けられるのは、大抵の場合で貴族である、とか。
スティナにも自分たちがやらかしたこと、アルト王子の派遣した軍を蹴散らし、国の重要機関であるヒト人形工房を焼いたということがどれほどの事件かは理解できている。
その件で何かこの街長に無理難題が押し付けられている、なんて想像もできるのだ。
だが、街長の指示の内容は犯罪者の捜索に人員を出せだのといった話ではなく、高級品の手配や賄賂の確保といった内容で、兵だの軍だのといった話は一切出ていない。
『偉い貴族が来てるのは間違いない。でも、それだけ……?』
スティナたち殿下商会への対策をしているようには見えない。イジョラがそこまで間抜けな相手だとスティナは思っていない。
間抜けは確かにいるが、間抜けがいても国が回るのはそれを補助する誰かがいるからなのだ。
そして何より不可思議なのは、高級品や賄賂を贈る相手は偉い貴族が連れてきた従者たちであり、その貴族がどこにいるかはこの街長すら知らないということだ。
ここがイジョラでなければ、この奇妙な行動も状況の読めぬ馬鹿が好き放題しているだけ、と見切っていたかもしれない。だが、ここはイジョラだ。イジョラ魔法王国なのだ。
スティナの知識にない魔法も存在するし、それがどういった効果を持つのか、どういった発動制限があるのか、全くわからぬ状況ではわずかな油断が命取りになりかねない。
スティナは魔法をなめてはいない。何せスティナはこのイジョラで最も強力な魔法を二つも、その目にしているのだ。溶岩の魔法、そして忍び寄る影、どちらもまともに相手をしたらスティナでも命の危険がある、凶悪な魔法であった。
どちらの魔法もイジョラでも使い手などほとんどいないような魔法らしいが、そういった魔法を使うほどの相手だと、敵には認識されているはずなのだ。
『居場所特定されたら、それだけで何かされそうなのよねぇ。オスヴァルドさんに聞いた川の流れを変える魔法とか、使われたらさすがに防ぎようないわよそんなの』
川の流れを変え激流で敵を流し殺す魔法、らしい。灌漑工事ではなく敵を攻撃する手段としてこれを用いるとか、この国の魔法使いは絶対にまともじゃない、とスティナは思ったものだ。
だが、四人の本気の隠密行動を、見破れる者なぞそうはいないだろう。先の戦はもちろんわざとこちらの居場所を教えてやったのだ。このまま忍び殺せるだけ殺し、後は不死だとかいう王を試してやるのもいい、なんてことをスティナは考えていた。
地下室へと続く入口の前に、十人以上の魔法使いたちが集まっている。
幾人かは涙を堪えた顔で、その男が地下へと降りていくのを見守っている。
涙を堪えられぬ者が、大声で怒鳴った。
「いいか! 絶対死ぬんじゃねえぞ! お前なら絶対できるからな! 俺らみんな待ってんだからな!」
男の声に我慢がきかなくなったのか他の者も声を張り上げる。
「気合いだ! 気合いで耐えるんだぞ! 絶対諦めんじゃねえぞ!」
「……どうか、どうか生きて……戻って……」
「後の心配はいらん。お前はありったけで挑んでこい」
「おお、どうか、どうか息子をお守りください……」
皆の声を受け、男は力強く頷く。
「行ってくる。役目は必ず果たしてみせるから、後は頼んだぞ」
皆の声援を背に受けて、男は扉を閉めると地下室への階段を降りていく。
恐怖がないわけではない。だが、この重大な仕事を任された使命感が、男の足を先へと進めていた。
地下には既に三人の魔法使いが待っていた。
儀式に必要な全てはこの三人が揃えていてくれた。三人共、男よりもずっと地位の高い者たちだが、三人は皆男を気遣う視線を向けている。
三人の内で最も地位の高い男が問う。
「いいか」
「はっ! 直ちに始めます!」
「うむ。我らが見届けてやる。存分にやれい」
「お任せください!」
男は呼吸を整え、描かれた魔法陣の中に立つ。
一度頭の中で儀式を全て行なってみて、最後までの工程を今一度確認する。問題ない、完璧に実行できる。
詠唱を開始した。
魔法陣がこれに反応して輝き、三人の魔法使いが用意した触媒を乗せた机ががたがたと揺れ始める。
詠唱は続く。
机の上の触媒に、青白い炎が着くと瞬く間に触媒全てが燃え尽きる。
その瞬間、男の目、耳、鼻、口の端よりたらりと出血が起こる。男は歯を食いしばってこれに耐えている。
三人の魔法使いは彼を手助けしない。いや、できない。今下手に手を貸せば、彼等も巻き込まれて死の危険を負わなければならなくなる。しかも、だからといって男の負担が軽くなるわけでもないのだ。
そしてその瞬間が来た。
男は堪らず絶叫を上げ仰向けに倒れる。両耳を手で覆い、視線は虚空を睨んだままで。
急ぎ駆け寄る三人、内の一人が男の口元に耳を寄せると、彼はかすれるような声で、辛うじて言葉を発した。
これを聞いた男は喜色を露に声を張り上げる。
「良くやった! 貴様は完璧に務めを果たしたぞ! 見事だ!」
その男は大急ぎで地下室より外へと駆けていく。残った二人が倒れた男の呼吸を確認する。男の意識は失われていたが、呼吸はあった。
「急いで運ぶぞ!」
「おう! これなら命は助かるだろう!」
「うむ! まっこと良き魔法使いよ! こんな所で失われてたまるものか!」
上で心配する仲間たちのもとへと彼を運んでやる。
扉から出ると、すぐに彼らが男を取り囲むが、男の命があると知るや皆が歓喜の声を上げる。
部屋を出てすぐ、報告を待ち構えている貴族のいる廊下から、最初に飛び出していった魔法使いの声が聞こえた。
「報告いたします! 敵四人組の所在はヒュヴィンカー! ヒュヴィンカーの街におりまする!」
アイリ・フォルシウスは幼年期の一時と山籠もり期を除き、人生のほとんどを裕福な環境で過ごした。その鍛錬は修羅のようなものではあったが。
だからこそというべきか。行き倒れや飢えて死ぬ者といった極端に貧しい者とはあまり縁のない生活をしてきた。
もちろん記録上はそういった存在がいることも知っているし、豊かなカレリア国内であっても飢えて死ぬ者がいるということも理解はしている。
だからもし見かけたのが死体であったのなら、アイリも哀れに思いはするが足を止めることはなかっただろう。
だが今、アイリの目の前に倒れ薄い目でアイリを見上げているのは、まだ生きている、まだ間に合う、そんな子供であった。
つい先日、たくさんの子供を斬ったことが影響しているかどうかは、それこそ当人にもわからない。だがアイリはその子供を、素通りすることができず足を止めてしまったのだ。
そんな自分に驚きつつも、止まってしまったのならば仕方がない、と嘆息しつつ子供に手を伸ばす。
「どうした? 立てんのか?」
手を差し伸べる誰かがいることに驚いた顔の子供。アイリは言葉を続ける。
「これ、返事をせぬか。腹が、減っているのか?」
子供は無言のまま、じっとアイリを見つめている。恐らく、なんと答えていいかわからないのだろう。
仕方がない、とアイリは子供の額に手を当てる。
熱はない。両脇に手を入れ引っ張って立たせる。立てはするようだ。
「どこか、連れていってほしい所はあるか?」
アイリが腰を落とし、子供に目線を合わせる位置で問うも返事はない。
代わりにアイリの後方より声がした。
「青! どうした青!」
駆けてくるのはこの子供より少し年上の少年。少年はアイリの側まで来ると、怯えた様子で問うてきた。
「あ、あの、青が、どうし、ました?」
アイリは少年の方に振り向く。子供の顔をよく見るために被っていたフードは退けてあった。
「ああ、家族か? ならばちょうどよい、コレが倒れておったので……」
駆けてきた少年もまた、ぼうとした顔でアイリをじっと見ている。
いつものか、とアイリは嘆息しつつフードを被り直しながら腰を上げ立ち上がる。青と呼ばれた子供はまだ足元がふらつくようなので、アイリは抱えてやることにした。小脇に。
「おい、運んでやるからこれの家に案内しろ」
その声で我に返った少年は、真っ赤な顔でアイリの言う通りに先行する。
「は、はいっ……す、すっげぇ。めっちゃくちゃ綺麗な人だっ」
こういった反応もよくあるもので、アイリは慣れてしまっていたが、青がぼうとしていたのはそれとは少し違うように感じられた。
小脇に抱えられた青はアイリに運ばれながら、ぼそりと呟いた。
「やった、女神様が、迎えにきてくれたんだ。ボク、いい子にしてたから、来てくれたんだ」
「いきなり諦めるな! 私がわざわざ運んでやってるのだからそんな簡単に死ぬでないわっ!」
アイリが子供を届けた先は、街の外れにあるひどく古びた神殿であった。
歴史のある建造物のようだが、何せ保存状態が悪すぎる。長い間誰からも見向きもされてこなかったのだろう、今にも崩れそうな建物だ。
「……というか、コレ、もう何年ももたんだろ」
支柱ともいうべき石の柱に大きなヒビが入っており、ちょっと大きな嵐でも来たらそれだけで潰れてしまいそうだ。
神殿には八人の子供がいた。一番小さいのは今アイリが抱えている子供で、他はもう少し大きいのから、アイリと同い年ぐらいの者までいる。
子供たちを見ればすぐにどういう状況かはわかる。栄養不足だ。必要な量の食事をとれていないのだろう。
アイリを案内してきた少年、白という名の彼にアイリは問う。
「お前たち、生活はどうしている? 収入はあるのか?」
アイリの美貌はとてつもない金になるものだ。だが、その偉そうな態度とあまりに美しすぎるが故に、そういった発想が子供たちにはできなかった模様。
まるで貴族に命じられたかのように素直に、白が答える。
「いつもは、みんなで手分けして、道を歩く奴から金をすりとってくるんだ」
「……そうか。あまり、稼ぎはよくないようだな」
「う、うん。西区の奴らとかに縄張り取られてからはもう、ほとんど稼げない場所でしか働けなくなっちゃって……」
アイリは炊事場を借りると、壺に溜めてあった水を使ってお湯を沸かし始める。
そして白に向かって銀貨を一枚放り投げる。
「わっ、こ、これ、銀貨じゃん」
「それで何か食えるものを買ってこい。選択は任せる」
「い、いいのか?」
「青とやらに声を掛けた時からこうなるのは諦めておったわ。いいから行け、今日は運が良く間抜けからすり取れたとでも思え。その間にこちらで簡単な食事の準備をしておく」
うん、と急いで走り出す白。アイリの気が変わらぬうちに、ということであろう。
アイリは持っていた保存食である干し肉を沸いたお湯の中に放り込み、じっくりとこれがほぐれるのを待つ。
「確か、何かの本で読んだが、飢餓状態の者にいきなり重い物を食わせると死ぬんだったか。おい、青。これを食べて死んだらすまんな」
実に雑な対応であるが、青の方も青の方で弱々しい声で答える。
「……食えるものなら毒だって食う」
「それは食えるとは言わん。あと、毒だとか失礼なことを言うな。これは私もよく食べているものだぞ」
干し肉をじっくりと煮込み、十分にほぐした後でこのお湯を飲ませる。
買い物に行った白を除く残る八人が羨ましそうにこれを見ていると、アイリは苦笑しながら首を横に振る。
「白が戻るのを待て。こんな病人食みたいなのではなく、普通の食事を買ってくるだろうからな」
それを聞いたスープ紛いを飲んでいた青は、とても嫌そうな顔をした。