帰る場所
砂漠のどこかにある街の話。
一番古い記憶は、暗く不衛生な路地裏だった。
物心ついたときにはすでに親はなく、物乞いをして生き繋いでいたところを隊商の商人に拾われた。
年齢も忘れそうになっていたけれど、七、八歳の頃だったと思う。
男だから力仕事くらいはできるだろうと言われて、隊商の下っ端で世界中を渡り歩く日々が始まった。
果てのない砂の大地、偉大な皇帝が治める交易都市、船が行き交う水上の街。
世界には色んな人種、言葉、建物があふれ、暗い路地裏にいたときには知らなかった景色が広がっていた。
けれど、どの街に行っても自分を待っている人はなく、行き交う人々の中のひとりでしかない。
世界は広かったけれど、結局自分の居場所はどこにもなかった。
そんな日々を繰り返しながら数年が過ぎたあるとき、いつものように荷物を運ぶ途中で、砂漠の中の防壁に囲まれた街に立ち寄った。
照りつける太陽と乾いた砂の大地が広がる外とは対照的に、壁の内側は山からの雪解け水に恵まれているおかげで緑があふれ、蒼天と砂の色ばかり見慣れていた目には眩しいほど鮮やかに映った。
隊商が多く立ち寄ることもあって街の中は活気づき、客を呼び込む市場の声を聞きながら、今日泊まる隊商宿へとたどり着く。
隊長たち大人は街の人々や、他の隊商と話をして盛り上がっているけれど、子どもの俺はラクダの世話をしてこいと言われて追い払われた。
仕方なく厩舎にラクダたちを連れていったとき、ふと歌声が聞こえてきた。
高い空を 鳥が舞う
山の頂 海の先
遥か遠くへ飛んでいく
その歌はまるで、自分のようだと思った。
山を越えて砂漠を横断し海も越えていく、自分のようだと。
「その歌……」
思わずそう呟いた瞬間、歌声が止まって木の下にいた人影が振り返った。
「うちのお客さん?」
「あ、うん……」
この隊商宿の娘らしい。
俺と同じ十歳くらいの年頃だろうか、はきはきとした声が良く通る。
「今歌っていたのって……」
「練習中なの」
大きな目を少しだけ細めて、にこっと笑った。
男ばかりの隊商で生活をしているから、異性とは縁がなくて少し落ち着かない気分になる。
「座ったら?」
けれど彼女は笑顔のまま、木陰を視線で示した。
少し迷って、彼女が座っている木の幹から少し離れた木陰の端に腰を下ろした。
木の葉が眩しい陽射しを遮ってくれるおかげで、木の下は少し涼しい。
彼女は俺の方を向きながら、口を開いてもう一度さっきの歌を歌ってくれた。
高い空を 鳥が舞う
山の頂 海の先
遥か遠くへ飛んでいく
果てのない 地平線
風にのって どこまでも
前だけ見つめ飛んでいく
先ほどの歌には続きがあり、雲一つない青い空に透き通った歌声が吸い込まれていった。
歌声のように、広い大空をまっすぐに飛んでいく鳥の姿が思い浮かぶ。
「良い歌だね……」
「私も好きな歌なの」
思わず呟いた言葉に、彼女はまたにこっと笑って言った。
その笑顔を見て、さっきよりもさらに落ち着かない気分になる。
「と、鳥が羨ましいな」
「鳥が?」
「俺、親がいなくて、隊長に拾われてからずっと荷物を運んでいるんだ。でも、鳥のように自由に生きてみたい」
歌の中の鳥と同じように俺も山も海も越えていくのに、鳥は俺と違って自由だった。
お客の荷物を運ぶ俺とは違い、自らの意思でどこまでも行く鳥。
鳥のように自由に飛んで自分の居場所を見つけに行きたいと、歌の中の鳥を羨ましく思った。
「でも、鳥みたいに色んな景色を見てきたんでしょう?」
「まあ……」
「聞かせて。私、この街から出たことないから聞きたいわ」
彼女はザフラと名乗った。
ザフラに請われて、俺は今までに渡り歩いた街の話をした。
果てのない砂の大地では、わずかな水を少しずつ分けて飲み、常に喉が渇いていたこと。
偉大な皇帝が治める交易都市では、バーザールが広すぎて隊商からはぐれてしまい迷いかけたこと。
船が行き交う水上の街では、不思議な祭りが開かれて賑やかだったこと。
俺が話すのを、ザフラは興味深そうに聞いていた。
隊商の下っ端として荷物を運んでいただけだけど、彼女が楽しそうに聞いてくれたことが、俺は嬉しかった。
ザフラはお喋りな性格らしく、自分のこともたくさん話してくれた。
この隊商宿の一人娘だということ、本当はお客とお喋りをしたら叱られてしまうから黙っていて欲しいこと、歌うことが好きなこと。
ザフラは高く飛んでいく鳥ではないけれど、木の枝で軽やかに囀っている鳥のようだった。
それから、ザフラはもう一度あの歌を歌ってくれた。
気づけば青い空はいつの間にか赤く染まりかけていた。
こんなにも長くひとりの相手と話をしたことなんて、今まで一度もなかった。
けど、俺はまた明日になれば荷物を運ぶため、歩き続けるだけの日々に戻る。
鳥のように風に乗るわけではなくて、決められた道を歩くだけだ。
もうザフラの歌声を聞くこともできないと思うと、心の中に穴が空いたような気分になった。
「もし、また会えたら、もう一度歌ってくれる……?」
別れ際に、俺はザフラにそう頼んだ。
また会えるかなんて分からない。
ひとつの場所に留まらず荷物を運んで色んな街を渡り歩く隊商。
けれど、ザフラはにこっと笑った。
「良いわよ。待ってるね」
その約束と彼女の笑顔を、俺はずっと忘れずにいる。
翌朝はもう彼女と会うことはできなかったけれど、あの歌をひとりで口ずさんだ。
この決められた道も、口ずさんでいると自由な大空に思えた。
ザフラの元へと飛んでいける鳥になれそうだった。
次に彼女と会うことができたのは、三年後だった。
初めて会ったときよりずっと大人っぽくなっていた。
俺もザフラもまだ成人はしていないけれど、もう子どもと言えるほど幼いわけでもなくて、異性が二人でいることなんて許されない年齢になっていた。
だから部屋の中で歌うザフラの歌声を、開けた窓越しに聞いた。
高い空を 鳥が舞う
山の頂 海の先
遥か遠くへ飛んでいく
果てのない 地平線
風にのって どこまでも
前だけ見つめ飛んでいく
ザフラの歌声は変わらず透き通っていて、歌声を聞いていると俺は鳥になれた。
これまで行った街の空を飛び回り、ザフラの元へだって飛んで来ることのできる鳥。
ザフラは歌い終わったあとに窓から顔を出して、昔と変わらずにこっと笑った。
それから俺はこの三年の間に回った街の話をした。
祈りの音が鳴り響く街のこと、渓谷に架かる橋を震えながら渡ったこと、宝石の名前を持つ優美な港町のこと。
ザフラはそんな話を真剣に、ときに驚き、ときに笑って聞いてくれた。
「ザフラ」
名前の通り花のような笑顔を向けてくれる。
「これ、歌のお礼。海岸で見つけたんだ」
俺は大切に仕舞っていたものを、ザフラに手渡した。
二年前に、ここよりもっと西にある港街へ荷物を運んだ際に、紺碧の海が広がる砂浜で見つけた貝殻。
爪くらいの小ささだけど、微かに赤みがかった色合いが綺麗だと思って、ザフラに見せたいと思い、割らないようずっと大切に持っていた。
二年たってようやく渡すことができた。
「私に?」
「ああ。綺麗だったから、ザフラにも見せたくて」
「ありがとう。こんな綺麗なもの、初めて見たわ。大切にするね」
小さな貝殻を、ザフラはまるで宝石のように両手で大事そうに持って喜んでくれた。
「ザフラ。また、必ず会いに来るから」
「うん。待ってるね」
三年前と同じ約束を交わす。
けれど、三年前よりもずっとザフラに会いたい気持ちは募る。
仕事が辛いときや隊長の厳しい叱責も、ザフラの歌声を思い出すだけで乗り越えられた。
あの歌を口ずさんだ夜は、ザフラの夢を見た。
またザフラに会える日を願って、山も海もどこまでも越えていった。
***
さらに三年後。
俺はあの歌の真実を知ることとなった。
「ザフラ……!」
思わず彼女の名前を叫びながら部屋の中に飛び込んだ。
「何であの歌のこと教えてくれなかったんだい!?」
問い詰めると、ザフラは不思議そうな顔で振り返った。
「急に何のこと?」
「あの歌!」
「どの歌?」
「君がいつも歌っていた、あの歌だよ!」
「ああ。あの歌ね」
のんきな返事が返ってくる。
でもこっちは、のんきではいられない。
「あれ、恋の歌じゃないかい……!」
思わず叫んでしまう。
初めて出会ったときにザフラが歌っていた歌。
何度も歌ってと頼んだあの歌。
「そうよ。え、知らなかったの?」
「鳥の歌だと思っていたんだ。恋の歌だなんて思っていなかったから、しょっちゅう口ずさんでいたじゃん……」
ザフラが歌っていたあの歌を、俺はずっと空を自由に飛ぶ鳥の歌だと思っていた。
けれど本当は鳥の歌ではなくて、恋の歌だということを知ったのが、つい今さっきのことだった。
「俺が歌うと隊長たちがニヤニヤしてると思ってたんだ……!」
「まあ、男性は歌わないね」
俺はザフラが歌っていた歌を恋の歌とは知らず、旅の途中でよく口ずさんでいた。
どうりで口ずさんでいたとき、隊長たちが生暖かい目で見てきたわけだ。
意味がようやく分かり、思い出すだけで恥ずかしくなる。
「何でいつも途中までしか歌ってくれなかったんだよ。だから俺は続きを知らなくて、ずっとザフラが歌っていたところばかり口ずさんでいたじゃん……」
「さすがに私も目の前で歌うのは恥ずかしいもの」
ザフラが少し頬を赤らめる。
意味を理解して俺も頬が赤くなる。
そんな俺を、ザフラが部屋の中から押し出した。
「ほら、隊長さんたちもわざわざお祝いに来てくれたんだから、早く戻らないと。私だって準備があるんだから」
「絶対からかわれる……!」
俺がそう言うと、ザフラは笑った。
押し出されて部屋を出ようとしたとき、ザフラに声をかけられた。
「ナシーム。帰ってきてくれて、ありがとう」
彼女の声が俺の名前を呼ぶ。
それが嬉しくて、少し照れくさくて、そして今までに抱いたことのなかった胸がいっぱいになるような感情が込み上げてくる。
小さく頷いて部屋を出ると、少ししてから歌声が聞こえてきた。
高い空を 鳥が舞う
山の頂 海の先
遥か遠くへ飛んでいく
果てのない 地平線
風にのって どこまでも
前だけ見つめ飛んでいく
西に東へ 飛び回り
いつか帰って 来る日まで
私はいつも待っている
目の前で歌うのは恥ずかしいと言っていたザフラの歌声を、背中で聞く。
初めて出会ったときに歌っていたこの歌には続きがあった。
自由に飛ぶ鳥の歌ではなくて、飛んでいく鳥を一途に待ち続ける歌。
この地方に伝わる歌で、主に結婚前の少女たちが口ずさみ、お祝いに歌われる。
明日、ザフラと結婚する。
歌の中の鳥のように、西に東へと渡り歩いて、ザフラの元を帰る場所と決めた。
会ったのはまだ二回しかなかったけれど、三年ぶりに会った俺の求婚を受け入れてくれた彼女には感謝しかない。
ただザフラが頷いてくれても、彼女の父親に認めて貰わなければならない。
そのためには何年かかっても説得してみせる――と思っていたら、予想外にすんなりと認めて貰えた。
親も分からない俺を大切な娘の婿に許してくれたのは、俺を拾ってくれた隊長の口添えのおかげだった。
いつからか恋の歌を口ずさみ始めた俺の気持ちを、隊商のみんなはずっと前から知っていたらしい。
水を汲みながら、ラクダに餌をやりながら、眠る前に口ずさむことを六年間も続けていたのだから、気づかれないはずがない。
真面目に働くよう厳しく教えたことを隊商のみんなが説明し、隊長が俺の親代わりとして保証人にもなってくれたおかげで、ザフラの父親にも認めて貰えた。
今は隊商から離れ、隊商宿を継ぐためにザフラの父親から厳しく教えを受けている。
今までとは仕事内容も違うので大変だけど、色々な国を渡り歩いて言葉を覚えたことなどは大分役に立った。
ここまで俺を育ててくれた隊長たちにはとても感謝している。
けれど、きっと明日の結婚式では、ひとりで恋の歌を口ずさんでいたことを話題に出されて笑われるのだろうと想像したら、穴を掘って埋まりたくなった。
でも、ずっとひとりだと思っていたけれど、実際にはひとりではなかった。
俺を拾ってくれた隊商のみんなのおかげで、俺は飛び方を知った。
そんな俺を、ザフラは待っていてくれた。
背中に届くザフラの歌声に乗せて、ひとりではなく一緒に口ずさむ。
俺の帰る場所は、ここにあった。
世話好きな隊長はナシームのことを「うちのチビ」と呼び、何歳になっても「うちのチビ」と呼ばれてしまう隊商宿を継いだナシーム。そんな光景を笑って見ているザフラです。
読んで頂きありがとうございました。




