9.8
「もうそろそろ湖だな」
「ああ、文献にはそうあった」
「そこに神様がおわすのだろうか」
人間たちはそれぞれに胸を弾ませ、森の奥へ奥へと歩を進めた。
やがて、木ばかりだった視界が拓けると、太陽が燦々と降り注ぐ湖に出た。そこで人間は対面する。
「なっ……」
誰もが言葉を失った。
緑色のがさがさの肌に、短く不恰好な形の手足。耳は歪に尖っており、口はその耳と耳を繋ぐかのように裂けていた。唯一美しいと言えそうな空色の瞳も、ぎょろりとしてどこか不気味だった。
人々は驚愕した。
ナノに。
ナノは敵意もないため、ただただ真っ直ぐに入ってきた人間を見つめた。凍りついたように動かない人間を、自分の容姿に驚いているのだろうな、という達観した思考回路で見つめていた。
一方の人間はといえば、ようやく思考回路が戻ってきて、最初に思ったことは、
「そんな、まさか……」
「まさか、こんな醜悪なイキモノが神様であるはずがない!」
神様がいると思っていた期待への裏切り。それに対する、ナノに対しての八つ当たりの感情だった。
ある人間が叫んだ。
「お前、神域を侵したなぁっ!?」
ナノは言われた意味がわからなかった。だが、意味をわかったところで、思い込みも甚だしいと一笑に伏さざるを得ないだろう。
神域とは神様の住まう領域。聖域とも言えようか。人間はこの森を神様の住処だと思っていた。故に、ナノのことを神様の住まいに勝手に侵入した不埒者だと謗ったのだ。もしここが本当に神域ならば、勝手に侵入したのは彼らも同じことであろうに。
ただしここは神様の住まいなどではない。ナノの居場所だった。ここにいるだけで、人間に何の害も与えていないというのに、何故謗られなければならないのか、ナノは戸惑った。
人間はナノが何か言いかけたのを聞こうともせず、ナノに襲いかかった。武器などなくても、こうも明らかな体格差がある。故に人間が負けることなどあり得ない。
それに、ナノは抵抗をしなかった。どんなに人間が攻撃してこようと、ナノにとって未だ人間は敵ではなかったのだ。
なぶられていくナノ。体格がお世辞にもいいとは言えないナノをいたぶるには、青年をいたぶったのの半分の時間もいらなかった。あっという間に立てなくなるほどまでぼろぼろにされる。
ぼろ雑巾のようになったナノを捨て置いた人間は、ふと、緑の箱に気づく。色とりどりの花で飾られたカルの棺だ。人間はその蓋に手をかける。
「だめっ」
ナノは薄れた意識を覚醒させ、叫ぶ。それに呼応してか、バラの花が揺らいだ。
「痛いっ」
見れば、バラがその棘で蓋に手をかけた人間を刺していた。箱の纏う光魔法も微かに抵抗しているようだ。ナノに害を与えたことにより、光魔法が作用し始めたのだろう。
大人たちが痛みやら拒絶の光やらに阻まれる中、ひょい、とついてきていた一人の子どもが蓋に手をかけた。
蓋は、まるで重みなど存在しないかのように易々と開けられた。子どもの純粋な好奇心には、光魔法も反応しなかったのである。
中には死んだときから傷が塞がった以外は変わらぬ姿のカル──目は閉じられているが、ナノと見た目はそう変わらない、ゴブリン。
「うわぁっ」
人間は驚きのあまり、その箱を突き飛ばす。棺は何人もの手によって勢いよく突き飛ばされたため、近い湖の方へと落ちていく。
「いやああああああああっ」
ナノは悲鳴を上げ、傷だらけの体になど頓着せずに、湖へ駆けた。ざぱん、と音がして、箱が沈んでいく。花びらを散らしながら。
「カルっ、カル──!!」
ナノはカルに、棺に手を伸ばし──そのまま湖へと落ちていった。空色の目は水に痛んだが、そんなことはかまわない。がむしゃらに沈みゆく棺に向かって泳いでいく。
どのくらい潜ったかわからない。日の光がかろうじて射し込む場所で、ナノはようやく棺に触れることができた。
けれど、棺を持って浮上することはナノにはできなかった。もう、ナノには一人で浮上する力すら残っていなかった。
カルと離れずに済んだ安心からか、感じるのを放棄していた苦しみが彼女を襲う。胸が苦しく、息もできず、頭が回らず、そのまま棺ごとナノは湖の水底へ落ちていった。
これが、原初にして最後のゴブリンの死だった。
青年がその森に辿り着いた頃には、全てが終わっていた。村人は神はいなかった、と帰ってきた。それ以上を語ろうとしないことに業を煮やし、青年は森へやってきたのだ。
神様がいないのは当然だ。神様がいるのは空の上で、森にいるのはナノという最後のゴブリンだけなのだから。
ナノがどうなったのか。それだけが不安で、湖を訪れてみると、そこには緑の棺が二つ。
恐る恐る、青年が開けてみると、片方には以前見たカルというゴブリンが眠っていた。
そして、もう片方には。
「っ……」
青年は息を呑んだ。
空色の目を虚ろに見開いたままのナノが濡れそぼった状態で横たわっていたのだ。カルの棺も濡れていたから、湖にでも落ちたのだろうか。
そう考えると、何が起きたのか、容易に想像がつく。
ナノが湖に落とされた後、カルも落とされたか、逆か。青年は、後者の可能性が高いと読んだ。ナノはきっと、最後までカルを守ろうとしたのだろうから。
悄然とした琥珀色の瞳で、二つの棺を見つめた。これから自分は何を成すべきか、考えた。全てを知る自分に、何ができるのかを。
ナノのように、毎日花を捧げ続ければいいのだろうか。──否、それではまた神様が過ちを起こしたときに同じ悲劇が起こってしまう。
同じ悲劇を繰り返さないためには、どうしたらいいだろうか。
しばらく、考えた青年は、家に帰り、紙に文字を書き列ね始めた。
『昔々あるところに、二人の優しい小鬼がいました。けれど人間は小鬼の優しさを知らず、小鬼の醜さを罵って、小鬼と仲良くなろうとしませんでした。
やがて小鬼が一人、死にました。もう一方の小鬼は片割れを想って、花を捧げ続けました。
けれど、やがてその小鬼も殺されてしまいました。ただ醜いというだけで。神様の恩恵を妨げる存在として人間から嫌われて殺されたのです。
小鬼は人間に抵抗しませんでした。人間に嫌われたくなかったからです。
けれど、人間は小鬼を好きになることはなく、小鬼を殺してしまいました。
そんな小鬼の存在を悲しく思った旅人は、小鬼の誤解を解くために旅を始めました。
少しずつ、少しずつ、みんなが小鬼を好きになるように、祈りながら』
何年、何十年と語り継がれる昔話。これを書いた旅人はいずことも知れぬところで消息を絶ち、物語だけが、そこに残った。
光魔法の封印の結界で、ある花畑の傍らに二つの緑の棺が置かれていることは、誰も知らない。
ゴブリンという存在は消え去った。代わりに優しい小鬼の物語が人から人へと語り継がれていった。
優しい小鬼が実在したなら、と人々は願うようになる。
もし、そんな小鬼が実在したなら、今度は二人で平和に暮らせるといいね、と語る声に、子どもが頷いた。