15-25 アデル・オブ・シリウス
遙か昔。
世界は“アーキテクト”によって創られ、そこで人間は平和に過ごしていた。
だがある時、深淵の闇から魔王が現れた。
魔王は人の世を滅ぼし、やがて人間を、人と獣に分けてしまった
人は魔王への永遠の隷属を強いられ、獣は地上で永遠の苦しみを与えられることになった。
終わらない絶望と苦しみでのたうつ世界に、やがて、獣を従えた1人の王が現れる。
アーキテクトより授けられし聖なる王冠を戴く。
その者こそは、人の王。
魔王がもたらす、あらゆる絶望を打ち払う獣の主。
それすなわち、獣たちを楽園へ導く光。
ーー南方獣人族の旧い口伝よりーー
◇◇◇
漆黒の空へ、吸い込まれていく――――。
そう感じた。
ミスター・ジョーは、飛行タイプの異常存在に胸を貫かれたまま、天高くまで連れ去られていた。眼下に見える都市の夜景は、どんどん遠ざかっていく。高速で下から突き上げられているため、頭上から叩きつけるような風を感じている。その風圧によって手足を動かすこともできず、ただ、星1つない宇宙の果てに押し込まれていくようだ。
落下すれば絶対に助からない距離。
怪物はそこを目指して、ジョーを持ち上げているのだろう。
それから放り投げるつもりなのだ。
ジョーが自由落下で地面に叩きつけられ、無残な潰れた肉塊と化すのを見届ける。
言葉を発しない異形の相手であっても、考えていることくらいは読めた。
「……こりゃ……致命傷だね……!」
自分の死が近いことを、確信する。
何度目かの吐血をし、自らのダメージを冷静に分析する。心臓を一突きにされることは、かろうじて避けられた。だが片肺は貫かれ、潰されたのだろう。だから吐血が止まらないのだ。そして重要な血管も傷つけられた。まるで水道管が破裂したように、すごい量の出血が、傷口の胸から溢れ出ているのが見える。
今にも意識を失いそうな激痛の中で、ジョーは懸命に意識を留め続ける。その耳には、地上で戦う仲間たちの、絶望の無線が飛び交っているのが聞こえてきた。
『もう前線が保たない! 敵の数が多すぎる!』
『ぎゃああ! 俺の足が! 足がああ!』
『これ以上の戦線維持は無理だ! 撤退命令は出ないのか!』
『殺せないバケモノどもを相手に、あと何十分と戦うなんて無茶だ!』
『指揮官が?! 指揮官が死んだ?!』
『おしまいだあ! 人類はもう、奴等に喰われて、みんな殺されちまうんだあ!!』
兵士たちが保護した、市民たちの声も混じって聞こえる。
『逃げ切れない! このままじゃ私たち、この都市の爆破に巻き込まれて死んじゃう!』
『あの子は?! あの子は無事なんですか?!』
『ママー! パパー! どうしておへんじしてくれないの!?』
『どうか、どうかこの子だけは殺さないで! ああ、やめて! 食べないで!!』
『誰か、誰か助けてええ!!』
赤ん坊の泣き喚く声。生きたまま食い殺されていく人々の阿鼻叫喚。逃げ惑い、混乱と悲しみの渦中にある人々の慟哭が、兵士たちの無線に混じって聞こえてくる。人類の未来が、今まさに潰えてしまおうとしている。ジョーは、それを肌で感じていた。
「……まだ無線が通じる距離にいるうちに……起爆を……!」
今にも意識を失いそうな激痛の中で、ジョーは懐に潜ませている起爆スイッチを取り出そうともがく。盟友であった、今は亡き男。エレンディアの反帝国活動を取り仕切っていた、ブラックバードの形見。そのスイッチを押せば、機甲都市ラーグリフの各所に仕掛けられた衝撃爆弾が起爆し、都市を一気に崩壊させ、瓦礫の山に変えることができる。
血濡れた手で取りだした、スティック状のそれを握りしめ、ボタンの上に指を置いた。
「……くっ!」
躊躇ってしまう。
本当であれば、もっと善戦して敵軍を足止めし、都市を守ろうと戦っている人々が撤退した後で、起爆させる手はずだった。だが、その頃には、もうジョーは生きていないだろう。今こうして、ジョーが起爆スイッチを持っている以上、爆弾はジョーにしか起爆できない状況だ。そして、まだ意識が残っている今この時でなければ。死んだ後では、もはやスイッチを押すことはできなくなる。
起爆させるなら、今この瞬間しかない。
だが押せば、逃げ遅れた市民たちだけでなく、弱い者たちを守るために立ち上がった、勇気ある地上の仲間たちごと巻き添えにして、犠牲にするしかなくなってしまうのだ。それが、ジョーに起爆を躊躇わせる理由だ。共に戦ってくれている人々へ報いることもできず。それで良いのか。
「腕に……力が……」
入らなくなっている。
迷っているうちに、手にしていたスイッチを握りしめる力が失われ、取り落としてしまった。
足下の景色と共に遠ざかっていく切り札を見下ろし、ジョーは苦笑してしまった。
「……ここまでかい」
もはや自分が、地上の戦いに寄与できることは、何もなくなった。
これまでの長い戦いを、思い出してしまう。
帝国の理不尽に家族を奪われ。故郷も奪われ。何もかも失った。
そこから戦いを始め、仲間が増え。
永遠とも思える戦いの中に身を置いてきた。
たった1人ぼっちで。予想よりも長く。
本当に、長い間を戦場で過ごしてきた。
「私のかわいい坊や……やっと会いに行ける……」
今は亡き面影が、霞んでいく視界の中に見えた気がした。
不思議と死の恐怖はなく。懐かしさと、不思議な安堵で胸が満たされた。
もしかしたらようやく、ただの母親の顔になれているのかもしれない。
遠のいていく意識の中で、ジョーは残された者たちの武運を祈った。
勝ち目のない戦いだが、諦めなければ、きっと活路はある。
それを信じ抜いていたからこそ、ジョーは強までを生き延びられたのだ。
「…………!」
暗くなっていく視界の中に、光が溢れたように見えた。
それは死にゆく者にだけ見える幻覚か。
ジョーは、目に見えたモノに涙した。
◇◇◇
炎の明かり。漆黒の闇を背負った空の下では、それだけが、人々のすがる輝きである。たとえそれが、絶滅の危機と、異形の軍勢によってもたらされた、破壊の傷跡であったとしてもだ。都市を紅蓮に染め上げる火災の光だけが、転移門へ向かう避難バスの、行き先を照らす輝きになっている。
すすり泣き。
あるいは不安を口にする避難民たちの声。
囁くようなそれらを耳にしていると、重苦しい気持ちにさせられる。
運良く席に座れた田中と岸本は、隣り合った席だった。
「田中さん、もうすぐです……! 本当にもうすぐなんです……! だからどうか……頑張って……!」
「……」
ここへ来るまでの道中、諦めそうになっていた岸本の手を引いて、連れてきてくれた田中。
そのシャツの腹部は血が滲んでおり、庇うように傷口を押さえている。
痛く、苦しいのであろうことは、青白い顔を見ていればわかる。
息絶え絶えで、田中は喋ることもできずに脂汗をかいている。
「僕なんかを庇って……こんな怪我を……! どうして……! どうしてこんな……!」
「……世界が終わりそうだっていうのに……あなたは他人に、希望を語れる人だ……」
「!」
岸本を心配させぬようにと、懸命に微笑んでいるのだろう。
喋るのがツラいであろうこと。無理をしているであろうことは、見てすぐにわかった。
それでも田中は続けた。
「料理はできない……戦う勇気もない……。集団の中で、あなたが担える役割はない……自分は無価値だなんて……そう思っているかもしれません……。けれど、考えてみてください……私だって、あなたと同じだ……。このバスに乗り合わせている、たくさんの知らない人たちだって……きっとそうだ……。だとしたら……この人たちは、集団の中で役割を持たないのか……価値なんてないんだと、思いますか……?」
「……」
「それは違う……。少なくとも、あなたは他人を励まして……未来を信じさせることができる人だ……。あなたの”優しさ”で、私は救われたと言ったでしょう……」
「田中さん……!」
「優しさは、この世界を良くするものだと思うんです……命懸けで、守る価値がある……!」
ふと、バス内が騒がしくなる。
ざわめきの声。
近くの席に座っていた親子連れ。
あるいは負傷した老父。
寄り添う男女。
それら全員が一方向を、窓の外を見上げている。
「ママ! 空に、大きなお船がきてる!」
最初に声を上げたのは、年端もいかぬ少女だ。
岸本と田中も、周囲の声につられ、窓の外を見上げた。
天高く舞い上がっていく火の粉。地上を焼く災禍の炎。
それらが闇夜の空に、いつの間に現れたのかもわからない、巨大な翼を浮かび上がらせていた。
かなりの高度を飛んでいるのであろう、三角形上の大船。
あまりの巨体さ故に、その姿は高高度に在っても、依然として大きく見える。
「あれは…………まさか、空戦艦ザハル?!」
「ザハルって……たしかベルセリア帝国の、アルテミアの旗艦じゃんか……!」
「ベルセリアが、助けに来てくれたの……?!」
ざわめきが大きくなっていく。
憔悴していた人々の眼差しに、光明が戻り始めていた。
唐突に、その場にいた誰しものAIVに、緊急チャンネルでの通信が入る。酷くノイズがかった、風切り音にまみれた音声。そこに確かに、レジスタンスのリーダーである、ミスター・ジョーの声が聞こえた。
『野郎ども……ついて来たら……見せてやるって、言っただろう……』
ジョーは迷いなく断言する。
『希望を……!』
◇◇◇
空戦艦ザハル――――。
建造以来、ずっと大空を飛行し続けている人造物。空を漂うことで有名な、太古の弩弓空戦艦である。少し前には、空中学術都市と呼ばれ、一般市民たちの暮らす街であったが、今ではアルテミア・グレインを乗せる、ベルセリア帝国の旗艦として改修されている。武器弾薬を大量に搭載し、今しがた静かに、機甲都市ラーグリフの上空へ空間転移を終えたばかりである。
《――――転移後の原子安定率、良好。転移目標との座標誤差、0.1パーセント以内》
ザハルのオペレーターたちが、次々に感嘆の声を漏らす。
《すごいぞ……! 転移門なしで、本当に超長距離の空間転移を成功させてしまった。しかも、全軍。全兵器ごとだぞ!》
《転移演算の一部を”暗算”で担当したということだが、これが設計者の力というものなのか……!》
AIV通信を経由して、それが少女の耳に届いていた。
上部甲板に位置する、強化特殊ガラスのドームで覆われた森林公園。
その中央に特設されたステージに1人、少女は立っている。
美しく整いすぎた顔立ち。決意を秘めた青の眼差し。精巧な白い肌は、ウエディングを思わせる純白のドレスによって包まれている。花冠を戴くヴェールをかぶり、周囲に展開されたホログラム画面が映し出す、地上の悲惨な戦況を見渡し、心を痛めた。
《アデル様。目標地点の上空へ到達しました。全員、配置についています。いつでも作戦を開始できますよ》
「……報告、ありがとうございます、ラントさん」
少女、アデルは、率いる全軍に向かって、AIV通信で語りかけた。
「ラーグリフの都市は、私たちの足下で、今まさに陥落し、滅亡しようとしています」
殺すことができない異常存在の大軍によって、押し潰されるように侵略されている大都市。火の手が上がっていない場所を探す方が難しいほど、破壊され、蹂躙され尽くされている。その悲惨な現実を、アデルは口にした。
「けれど、この死に瀕した街の中でも、いまだ諦めず、必死に戦っている人たちの息吹を感じます。敗戦濃厚な死地であるのにも構わず、自らの意思でそこへ残り、数少ない仲間たちと共に、弱い人々を守るために立ち上がっている人々がいる。光のない、滅亡の闇に覆われた空の下で、勇気を振り絞り、恐るべき怪物たちに立ち向かっているのです。勝利によって、地位や財産を得られるわけではありません。彼等の戦いの理由は、私利私欲ではありません。過去の因縁も、立場の違いも、全てを捨て去り、戦えない者たちの剣となり、盾となることを選んだ。ただそれだけ。人類の守護者となる道を選んだ勇士たち」
アデルの言葉は、全軍放送で流され続けた。
それは、彼女が率いる戦士たちのみならず、地上の人々全てにも配信され、降り注いでいく。
「勇気ある同胞たちよ。我々も選びました。我々は誓います。人の未来を賭けた。星の行く末を賭けた。この絶望の戦場で、共に肩を並べ、愛する者たちを守る盾となり、そのために血を流すことを」
鼓舞する言葉。
それを聞いている兵士たちが、勇ましい声を上げて応えているのが、無線を通じて聞こえてくる。
沸き立ち、高揚する戦意を束ねるべく、アデルは告げた。
「夜空の先に未来を信じ、剣を手に漆黒の中を進もう。暗く冷たい夜の中で、人の火の熱を灯し、切り拓こう。地上の同胞たちよ。勇気ある人々よ。私はここに宣言します。この深い夜の中で、あなたたちの戦いは、決して孤独ではないのだと。私の名は、アデル・アルトローゼ」
語るアデルの頭上に、青白い光を放つ王冠が形成されていく。
罪人の王冠――――。
人工惑星の中枢システムへアクセスする権限は奪われていても、その強力なEDEN介入機能は健在である。その力を発動し、アデルは胸元で静かに両手を合わせ、祈るように目を閉じ、俯いた。
「世界を覆う、この絶望の暗闇を――――焼き尽くす者」
アデルの宣告と同時に、天から眩い光が降り注いできた。
ラーグリフの都市全域。それどころか、地平線の向こう、遙か遠くまでを照らし尽くす光量。
まるで太陽のように輝き、地上が昼を取り戻したかのように明るくなった。
それは、星1つなかった漆黒の空に、たった1つ生じた、強烈な光点。
青白い光を灯す、明星。
まるで伝説にうたわれる希望の光だ。
それを目撃した人々のAIV通信には、数え切れないほどに、同じ言葉が溢れ始める。
天狼星――――。