苦虫(9)
草に囲まれた視線の先には青。
一瞬、此処は何処かと思ったけど、草と土の強い匂いと共に、僕の感覚は少しずつ自分へと戻っていった。
僕は溜め息をつく。
何か長い夢を見ていた気がする。だけど、それが何か思い出せない……。
でも……やさしい夢だった気がした。
どれくらい眠っていたんだろうか?
空の変わらぬ色を見て、それほど長くは眠っていないと思う。
僕は時計を見た。
針はジッと動かない。壊れてしまっていた。
けれど、困りはしなかった。
こんな所だからバスの止まる時間は少ない。確か、あと昼過ぎと夕方。
昼過ぎのバスに乗れなくても、夕方には間に合うのだから。
……帰ればいい。
僕は、起き上がって服を見た。
ずぶ濡れで土や草が張り付いていて、カバンは水を随分溜め込んでいて重い。カバンの中の水を出して、服を手で払い退けていると、僕の視線は川へ向かっていた。
口許を固く閉じ、目を逸らす。
僕は、帰り道を歩き始めた。
途中、千里の墓にもう一度手を合わせた。
紫の花が一つは錆びた円筒に、もう一つは地面に横たわっている。
大輔の紫の花と、僕の紫の花……。
僕は、横たわっている花を持って帰る事にした。
帰り道、日が昇った為か、暗かった林の道に少し光が指していた。
僕の背中に太陽の暖かい光があたる。目の前にある影をぼんやりと見ながら歩いた。
大きな蟻が列に沿って動く。乾いた土から伸びてる雑草。時折、林の葉を揺らす音。
そして川の音は少しずつ、遠ざかっていく。
横道を過ぎて田圃道を抜けると、コンクリートになった。
道路端の白線の上を伝って歩いた。石ころが何度か靴の先に当たる。
バス停留所の古い小屋。その中の赤いベンチに座る。体が、ぐったりと重く感じて前屈みに俯いくと、手に持った花の香りが強く鼻に付いた。
僕は、顔を逸すと赤いベンチの錆びた所を見ていた。所々プラスチックは剥げていて、鉄を剥き出しにした部分は錆び付く。長い間、何度も何度も雨に打たれて。
そんな事を考えていると、遠くからバスの近づいてくる音が聴こえた。
昼過ぎのバスは、まだ行ってはいなかったらしい。……。
バスは停車するとドアを開けた。
立ち上がって、階段に足をかけて乗ろうとした時、誰かが降りて来るのが見えた。
僕は、呆然と見入ってしまった。
その降りてきた女性に。
白いワンピースに。
彼女は、こっちに向かって来る。
僕は、彼女を見た時の姿勢のまま、動けなかった。
彼女は僕を一度見ると顔を俯かせて、そのまま僕の背中を通り抜けて行く。
僕が彼女を目で追い掛け続けていると、彼女は一度振り返り、そして僕の方を向いて立ち止まった。
彼女の視線は僕とは合わずに、僅かに下の方へ向けられていた。
「あの……その花……。」
僕は、手に持っている花を見た。
「これは……。」
「もしかして千里を知っていますか?」
彼女から千里という言葉を聞いて、僕は、さらに驚いた。
そして、少し間を置いてから答えた。
「……知っています。」
彼女は何か考えてる様に思えたが、暫くしたあと僕に言った。
「少しお話し出来ませんか?」
「………。」
「駄目ですか?」
「……いや大丈夫です。」
バスの警笛が鳴り響いた。
「ちょっと待ってて下さい。」
彼女は、そう言うとバスに乗り込んで行った。
彼女が降りると、バスはドアを締め動き出した。
「歩きながら話しましょ。」
僕は、彼女の後ろを付いて歩いて行った。




