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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
第6部 アルティエルの名
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第1話_星の船へ

 白麦原の夜が明けた時、空は朝にならなかった。東の山並みは薄く光り、村の屋根には露が降り、黒く焼けた畑の向こうで鳥が一羽だけ鳴いた。だが、その声はすぐに空の黒い星へ吸われ、短く途切れた。太陽は昇っている。光はある。けれど、空の中央に開いた黒い星が、その光の意味を変えていた。夜が去っていないのではない。夜とは別のものが、世界の上に置かれているのだ。


 白麦原の井戸には、ハルナの組んだ仮封じの銀線が幾重にも巻かれていた。黒く濁った水は、それ以上村へ広がらない。テイルが夜通し霊脈を押さえ、イーサーが星図で反響を遅らせ、イリスが村人の名を一人ずつ記録し、アリスが子どもたちの夢に入りかけた黒い炎を弾いた。アリアは畑の端に立ち、黒い筋が新たな刃紋へ変わらないよう夜明けまで見張った。エノクは丘の上で聖剣アーク・リヴァイヴを背負い、遠くから届くアリオンの弦の音を聞いていた。


 勝ったのに、白麦の畑は白く戻らなかった。井戸も完全には澄まなかった。村人たちは生きている。名も多くは守られた。それでも、土には黒い傷が残った。大陸の各地にも同じ傷が生まれている。後の世で、この大陸は別の名を得るかもしれない。魔大陸。そう呼ばれる原因が、今まさに生まれている。エノクはその名を思い浮かべるたび、苦くなる。けれど、苦いからといって目を逸らすことはできなかった。


 村の外れに、一行は集まった。荷は少ない。星の船へ行くのに、旅の荷などほとんど意味をなさない。ハルナは工具帯をいつも以上に重くし、霊脈鉱の針と黒星核遮断具を布袋へ詰め込んでいる。彼女は何度も数を確認し、そのたびに顔をしかめた。


「足りない」


「何が」


 テイルが問うと、ハルナは即答した。


「全部。針も銀線も小鏡も浮遊石も、時間も睡眠も予算も足りない。あと安全確認も足りない」


「安全確認なんてできる場所なのかよ」


「できないから足りないって言ってるの」


 アリアが横から言った。


「今さら安全を求めるなら、地上に残る?」


「残らない。残らないけど、言う権利はある。危険手当を三倍にしてほしい」


「誰に請求するの」


「世界」


 テイルが鼻を鳴らした。


「世界が払うかよ」


「じゃあ、後世」


 ハルナの声は冗談に聞こえた。だが、目は笑っていなかった。父トルクが追った黒星核の構造。ダイダロスの工房で見つけた未完の設計。星の船へ入れば、その答えに近づく。近づきすぎれば、父のように戻れなくなるかもしれない。それを彼女自身も分かっているのだろう。


 イーサーは星図板を両手で持ち、空の黒い星を見上げていた。額の銀環には、ヨシュアから受け取った叡智と静寂の鍵が淡く光っている。彼の翼は畳まれているが、羽先が細かく震えていた。


「星外航路は、三つあります。黒星片を足場にして船へ引かれる道、霊脈を逆流して名層へ入る道、そして黒い星そのものの縁を渡る道」


「どれが一番安全?」


 アリアが問う。


「安全な道はありません」


「じゃあ、どれが一番まし?」


「黒い星の縁です。黒星片を足場にすれば帰還者の器化に巻き込まれます。霊脈を逆流すれば大地の傷をさらに広げる。星の縁を渡れば、私たちだけが危険を負う」


 テイルが腕を組む。


「つまり、地面を傷つけずに俺たちが傷つく道か」


「大まかには」


「分かりやすいな。気に入らねぇけど」


 イリスは帳面を閉じ、胸に抱いた。昨夜、彼女は白麦原の全員の名を記録した。まだ父の名を思い出せない若者の頁には、空白を残している。いつか一緒に探すと約束した空白だ。


「地上の名を守るために、星の船へ行くのですね」


「はい」


 イーサーは頷いた。


「ただし、船内では名そのものが攻撃されます。黒い炎よりも深く、帰還者の侵食よりも直接的に。特に、真名を持つ者、名を記録する者、王家の鍵を持つ者は狙われやすい」


 アリスが自分の胸元を押さえる。


「器の中の名も?」


「はい。あなたも危険です」


 アリスは少しだけ震えた。それから、小さく頷いた。


「分かった。怖い」


「怖いまま来るのか」


 テイルが訊くと、アリスは彼を見上げた。


「うん。怖くないふりをすると、混ざりやすくなる」


 テイルは少し困った顔をした。


「そうか」


「そう」


 アリアは双剣の鞘を確かめた。


「怖いなら、名前を呼べばいいわ。イリスが」


「イリスだけに任せないでください」


 イリスが少し怒った声を出す。


「皆さんも呼んでください。お互いに。名前は、私だけの仕事ではありません」


 アリアは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。


「そうね。じゃあ、アリス、混ざりかけたら呼ぶ」


「うん。アリアも剣になりかけたら呼ぶ」


「生意気」


「アリアが教えた」


「教えてない」


 そのやり取りに、少しだけ空気が緩んだ。


 その時、遠くから弦の音が聞こえた。


 全員が振り向く。白麦原の黒くなった畑の向こう、朝の光と黒い星の影が交わる場所に、一人の男が立っていた。帽子を脱ぎ、竪琴を抱え、いつもの外套を風に揺らしている。アイオン。いや、アリオン。けれど、彼の表情にはまだその二つの名の間にいる者の揺らぎがあった。


「おはようございます」


 彼は言った。


「こういう時、何と言えばいいのでしょう。お待たせしました、では遅刻を認めることになりますし、先に来ていました、では嘘が過ぎますし」


 アリアが歩み寄った。


「黙って立ってなさい」


「はい」


 アリオンは素直に黙った。アリアは彼の前へ立ち、しばらく見上げた。殴るのかと思ったテイルが半歩動いたが、イリスが袖を掴んで止めた。アリアは殴らなかった。ただ、アリオンの胸元を指で突いた。


「次に逃げたら、本当に怒る」


「もう怒っているのでは」


「もっと怒る」


「それは恐ろしい」


「冗談で逃げない」


 アリオンは表情を改めた。


「はい」


 イリスも彼の前へ来た。記録帳を開かず、ただ彼を見た。


「今日は、どの名で立ちますか」


 アリオンは少し迷った。けれど、逃げなかった。


「星の船へ入るまでは、アイオンで。船内で名層へ触れる時は、アリオンで立ちます。どちらかを消さないと決めました。まだ、うまく持てませんが」


 イリスは頷いた。


「では、両方で呼びます」


「ありがとうございます」


「感謝で済ませないでください」


「はい」


 アリオンは苦笑しかけ、すぐにやめた。以前なら、そこで軽口を重ねただろう。今は、言葉を逃げ道にしないよう、彼自身が一つ一つ止めているのが分かった。


 エノクは彼へ近づいた。背の聖剣が小さく鳴る。アリオンの竪琴も応えた。


「戻ってくれて、ありがとうございます」


「完全に戻ったわけではありません」


「それでも、ここにいます」


 エノクの言葉に、アリオンは目を伏せた。


「はい。ここにいます」


「それなら、行きましょう」


 アリオンは空の黒い星を見上げた。


「星の船は、城ではありません。魔王の玉座へ向かう道のように思って入れば、飲まれます」


「では、何ですか」


 エノクが訊く。


 アリオンは、しばらく答えを探した。


「墓場です。滅びた星々の墓場。帰る場所を失った者たちの倉庫。カオスが王となった棺。黒星核の鼓動で、死にきれなかったものを眠らせている船。そこに、私たちは入る」


 白麦原の人々が、遠巻きに一行を見ていた。彼らは何が起きるのか分からない。ただ、自分たちの畑を黒くしたものが空の向こうにあり、そこへこの者たちが向かうのだとだけ理解していた。老農夫セルクが、黒い筋の残る土を握りしめ、エノクへ頭を下げる。


「戻ってこいよ」


 それは王子へ向けた言葉ではなかった。聖剣の持ち主へでもない。ただ、自分たちの村で一晩を過ごし、名を守ると言った少年へ向けた言葉だった。


 エノクは頷いた。


「戻ります」


 言ってから、その言葉の重さを感じた。戻ると言うことは、死なないと約束することに近い。アベルのように死ぬのではなく、エノクとして生きると決めたなら、その言葉から逃げてはいけない。


 ハルナが空へ小型の星導杭を打ち上げた。銀色の杭は黒い星へ向かって弧を描き、途中で砕けて細い光の階を作った。イーサーが翼を広げ、星図でその階を固定する。アリオンが竪琴を鳴らす。完全な真名の真言ではないが、黒い星の縁を裂くには十分な音だった。イリスが聖印を掲げ、皆の名を一人ずつ呼ぶ。エノク。イリス。アリア。テイル。アリス。ハルナ。イーサー。ティンカーベル。アイオン。アリオン。呼ばれるたび、光の階に足場が生まれた。


 ティンカーベルが腰で言った。


「未熟者。最後に確認だ」


「何ですか」


「怖いか」


「怖いです」


「よし」


「よしなんですか」


「怖くない者から呑まれる場所だ」


 エノクは背の聖剣に触れた。


「では、怖いまま行きます」


「それでいい」


 一行は光の階を上った。地上が下へ離れていく。白麦原の黒く傷ついた畑、ヴェルナ旧街道、ランバード城の廃墟、遠い龍神湖、空中庭園セラフィアの淡い影、ガルドベルクの山脈、シオゥルの死者の地。すべてが大陸の上にあり、その大陸には黒い点と線が増えている。魔大陸の始まり。けれど、そこには名がある。エノクはそれを忘れないよう、空へ上がりながら見つめた。


 黒い星の縁へ近づくと、音が消えた。


 風もない。光の階も、足裏の感触を失い始める。ただ、アリオンの弦だけがかすかに鳴っている。イーサーが星図を開き、羽を広げたまま言う。


「ここから先は、世界の外縁です。呼吸の感覚が変わります。自分の名を忘れないでください」


 アリアが息を吐く。


「忘れようがないわ」


 アリスが小さく言う。


「忘れたら、呼んで」


 テイルが頷く。


「任せろ。大声なら得意だ」


「それは安心かも」


 ハルナが工具帯を抱え直した。


「声が届くならね。届かなくなったら、工具で叩く」


「また工具」


「信頼できる道具だから」


 黒い星の縁が開いた。


 それは門ではなかった。口に近かった。星の船の破れた外殻が、世界の空に食い込み、そこから内側の暗黒が見えている。外殻は黒い金属と白い骨のような物質でできていた。ところどころに巨大な文字が刻まれているが、地上の文字ではない。文字というより、傷を並べたもののようだった。縁の奥では、星屑のような光がゆっくり流れ、遠くから心臓の鼓動が聞こえる。


 黒星核。


 一度聞けば忘れられない拍動だった。大地の霊脈とは違う。生き物の心臓とも違う。滅びた星々の残響を一つの炉へ押し込み、無理やり鼓動させている音。聞いているだけで、自分の輪郭が少しずつ緩む。


 イリスが声を上げた。


「エノクさん。イリス。アリアさん。テイルさん。アリス。ハルナさん。イーサーさん。ティンカーベル。アイオンさん。アリオンさん」


 彼女は全員の名を呼んだ。自分の名も呼んだ。すると、黒星核の拍動で緩みかけた輪郭が戻る。イリスの額に汗が滲んだ。ここでは、名を呼ぶだけでも力を削られる。


 アリオンが静かに言った。


「ありがとう、イリスさん」


「まだ入口です」


「はい。分かっています」


 一行は、黒い星の縁を越えた。


 足元が変わった。光の階は消え、硬い床に降り立つ。床は黒い金属でできていたが、よく見ると金属の間に白い骨のような柱が埋め込まれている。壁はない。代わりに、無数の棺が並んでいた。透明な棺、黒い棺、機械の箱、石の繭、硝子の球。棺の中には、帰還者たちが眠っていた。人に似たもの、獣に似たもの、翼のあるもの、水のようなもの、機械と融合した魂、複数の影が一つの器に押し込められたもの。どの棺にも名札があった。だが、ほとんどは空白だった。


 アリスが立ち止まった。


「多い」


 声が震えていた。


 棺は通路の両側だけではない。上にも下にも、遠くの暗闇の中にも続いていた。星の船は軍勢を運ぶ船ではなく、墓場だった。滅びた星の民、肉体を失った魂、器だけ残された者、名を失って黒星核に縛られた者。それらが、死にきれず、眠りきれず、帰ることだけを命令として保持されている。


 テイルが低く唸る。


「こんなの、軍隊じゃねぇ」


 アリアが答える。


「でも、戦うことになる」


「分かってる。だから嫌なんだよ」


 ハルナは棺の一つへ近づきかけ、すぐに手を止めた。中には、黒い機械の腕と人の魂が絡み合った帰還者が眠っている。彼女はその構造を見たい衝動を必死に抑えていた。


「……父さんが見たら、どうしたかな」


 小さな声だった。


 イーサーが星図を展開する。だが、星図はうまく広がらなかった。船内の空間は地上の距離に従っていない。通路はまっすぐに見えて曲がり、棺の列は遠く見えてすぐ隣にあり、上と下が時折入れ替わる。


「内部空間、非地上式。城でも迷宮でもありません。棺の配置が航路を兼ねています」


「分かりやすく」


 テイルが言う。


「死者の並びが道です」


「最悪だな」


「はい」


 その時、棺の中の一つが光った。


 中に眠っていた帰還者の顔が、エノクの顔に変わった。エノクは息を呑む。棺の中の自分は、聖剣を胸に刺し、穏やかに眠っている。アベルのように死んだ未来。地下聖堂で見た幻と同じ誘惑が、船内で再び形を取った。


 ティンカーベルが鋭く鳴る。


「見るな」


「見ています」


「なら、名を言え」


 エノクは歯を食いしばった。


「僕は、エノク・ランバード。死ぬために来たのではありません」


 聖剣が背で光り、棺の中の死んだエノクは白い霧となって消えた。


 別の棺では、アリアがヴェルナの玉座に座っていた。手には赤黒い剣。すべてを斬り、敵を倒し、復讐を終えた顔。だが、その目に人の光はない。アリアは双剣の柄を握り、吐き捨てた。


「雑な誘惑」


 彼女は鞘の上から双剣を鳴らした。


「アリア・ヴェルナ。剣を握ったまま人でいる。そんな人形みたいな剣にはならない」


 棺の幻は割れた。


 テイルの前には、龍神湖が黒く染まり、竜王ザッハが沈む幻が現れた。テイルは一瞬硬直したが、すぐに大地のない床へ竜剣を突き立てた。


「テイル・ザッハリオン。親父の影で止まるかよ。湖は俺が守る。まだ死んでねぇ」


 幻は咆哮に砕かれる。


 ハルナの前には、父トルクが黒星核の部品となっている幻が現れた。彼女の手が伸びかける。父の声が言う。直せ。見ろ。知れ。ここまで来たなら、最後まで分解しろ。ハルナは歯を食いしばり、自分の工具を胸に押し当てた。


「ハルナ・ミャウレン。直すために見る。飲まれるために見るんじゃない。父さんが本当にそこにいるなら、あたしが勝手に決めない。まず、止め方を探す」


 父の幻は、黒い歯車の音を残して消えた。


 イーサーの前には、星図が広がった。地上のすべての名を切り捨てれば、黒星核への航路は閉じる。美しい解がそこにあった。大陸の一部を消せば、大多数は助かる。彼がかつて選びかけた答え。イーサーは羽を震わせながら、星図へ手を伸ばし、そして止めた。


「イーサー・セラフィム。見えるからといって、聞かずに線を引かない。別の道を読む」


 星図は崩れ、空白を含んだ新しい線だけが残る。


 アリスの前には、巨大な玉座があった。無数の魂と器が混ざり合い、その中心に黒いアリスが座っている。寂しくないよ、と声がする。アリスは震えた。イリスがすぐに彼女の名を呼ぶ。


「アリス」


 アリスは泣きそうな顔で頷いた。


「アリス。混ざらない。寂しくても、アリスでいる」


 玉座は遠ざかった。


 イリスの前には、黒い炎で焼かれた無数の帳面が積まれていた。名が多すぎる。呼びきれない。すべてを記録することなどできない。なら、最初から諦めろ。そう囁く声が、黒い炎の中から聞こえる。イリスは帳面を抱きしめ、涙を浮かべながら言った。


「イリス。全部は呼べないかもしれません。でも、呼べないことを理由に、一人目を諦めません」


 黒い帳面の山に、白い空白の頁が一枚生まれた。


 最後に、アリオンの前に棺が開いた。


 中には、千年前の彼自身がいた。封印の場で声を失ったまま、竪琴を抱えて膝をついている。黒星核の拍動が彼の喉を締め、カオスの声が囁く。


 また欠ける。


 また黙る。


 言葉の英雄よ、お前の言葉は世界を壊す。


 アリオンの顔が青ざめる。指が弦に触れるが、音が鳴らない。イリスが呼ぼうとした時、彼は片手を上げて止めた。


「大丈夫です」


 声は震えていた。


「いいえ、大丈夫ではありません。でも、逃げません」


 彼は竪琴を抱え直した。


「アイオン。アリオン。どちらも私。言葉から逃げない」


 弦が鳴った。完全ではない。だが、棺の中の沈黙した彼が顔を上げる。その幻は消えず、アリオンの背後に影として残った。まだ完全には越えていない。けれど、彼はそれを背負ったまま立った。


 船内の奥から、声が響いた。


 それは言葉ではなかった。だが、全員の頭の内側で意味になった。


 帰れ。


 混ざれ。


 名を捨てよ。


 境を捨てよ。


 我は、名なきものの王。


 我は、帰れぬものの帰還。


 我は、カオス。


 黒星核の鼓動が強まる。棺の列が一斉に光り、帰還者たちの影が身じろぎした。星の船そのものが、一行を認識したのだ。


 エノクは聖剣を抜いた。白銀の刃が暗い船内を照らす。ティンカーベルも腰で鋭く鳴る。


「みんな、名前を」


 エノクが言うと、イリスが頷いた。だが、彼女だけが呼ぶのではない。全員が互いの名を呼んだ。


 エノク。イリス。アリア。テイル。アリス。ハルナ。イーサー。ティンカーベル。アイオン。アリオン。


 名前が船内に灯る。滅びた星々の墓場の中で、地上の名が小さな火のように並ぶ。黒星核の拍動は強い。帰還者たちの眠りは浅くなっている。カオスの声は奥から呼んでいる。だが、一行はまだ立っていた。


 アリオンが静かに言った。


「ここから先が、本当の墓場です。カオスの肉体へ至る道、魂魄の眠る棺、名層の王座。その三つは別々であり、同時に一つです」


 エノクは頷いた。


「なら、全部へ行きます」


「簡単に言いますね」


「簡単ではないと知っています」


 エノクは聖剣を握り直した。


「でも、ここまで来ました。地上の傷を見ました。帰還者たちにも名があったことを知りました。アリオンの名も、アイオンの名も消さないと決めました。だから、ここで止まりません」


 アリアが双剣を抜く。


「墓場なら、弔う。玉座なら、叩き落とす」


 テイルが竜剣を担ぐ。


「大地に刺さった根を引っこ抜く」


 ハルナが工具を握る。


「黒星核の止め方を見つける。分解は、たぶん後」


「たぶん?」


 ティンカーベルが突っ込む。


「努力する」


 イーサーが星図を広げる。


「星外航路を読みます。切り捨てるためではなく、帰すために」


 アリスが胸元を押さえる。


「混ざらない。混ぜさせない」


 イリスが帳面を開く。


「名を呼びます。呼べるところから」


 アリオンが竪琴を構える。


「言葉から逃げません」


 エノクは、黒星核の鼓動が響く奥へ一歩踏み出した。


 星の船は、城ではなかった。勝利を飾る玉座も、魔王を斬れば終わる舞台もない。そこは滅びた星々の墓場であり、帰還者たちの眠る棺であり、カオスの名が再び世界へ戻ろうとする暗い子宮だった。


 その墓場の奥で、黒い王の声が笑った。


 名を持つ者たちよ、来るがよい。


 名は、砕かれるためにある。


 エノクは聖剣を前へ向けた。


「違う」


 彼は言った。


「名は、帰るためにある」


 その言葉を合図に、一行は星の船の奥へ進んだ。

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