第9話_言葉の英雄
反響路の奥へ進むほど、弦の光は細くなった。さきほどまで、アイオンという名とアリオンという真名の間を震えていた一音は、今や夜明け前の蜘蛛糸のように頼りない。エノクは聖剣の柄に手を添えながら歩いた。剣は抜いていない。だが、背中にあるだけで、弦の光が完全に途切れるのを防いでいるようだった。ティンカーベルは腰で黙っている。さきほどまでなら何か言ったはずだ。だが、今は喋る剣でさえ言葉を選んでいる。ここから先は、余計な一言で壊れる場所なのだ。
周囲は道ではなかった。黒い星の反響が作った、名の狭間だった。足元には星の船の金属板が見えたかと思えば、次の瞬間には乾いた草の丘になり、そのまた次には古い酒場の床へ変わる。壁のない場所から笑い声が聞こえ、消えたはずの歌が風に混じる。旅の吟遊詩人アイオンとしての記憶、真言の英雄アリオンとしての記憶、そしてそのどちらでもない、逃げる者の記憶が重なっている。どこにも完全な嘘はなく、どこにも完全な真実はなかった。
イーサーが星図板を見つめ、低く言った。
「近いです。弦の反響が一点に収束しています。ただし、黒星核の名層反応も強い」
「要するに」
テイルが竜剣を担ぎ直す。
「アイオンがいる。でも、カオス側にも見つかりかけてるってことか」
「はい」
「面倒くせぇ」
「同意します」
イーサーが素直に答えたので、ハルナが小さく笑った。
「空の長老が雑な感想に同意した」
「状況が、精密な言い換えを許しません」
「それはそれで成長かも」
そんな短いやり取りのあと、誰も続けなかった。軽口は必要だ。だが、今の軽口は橋の板のようなものだった。踏み抜かないように渡るための、細い板。
アリアは黙って歩いていた。彼女の双剣は鞘に収まっているが、指はいつでも抜ける位置にある。怒っている。エノクには分かった。だが、その怒りはヤクシャへ向けたものとは違う。裏切られた怒り。心配させられた怒り。仲間を勝手に遠ざけた相手へ向ける怒り。そして、逃げる者の気持ちが分かってしまうからこそ余計に腹立たしい怒りだった。
イリスは記録帳を抱えていた。顔はいつもより硬い。彼女はアイオンの名を、アリオンの名を、何度も記録し直している。未確認から真名へ。偽名から中間の名へ。逃亡から追跡へ。彼女にとって、名はただの呼び方ではない。魂が帰るための灯であり、記録されなければ消えてしまう輪郭だ。その彼女が今、最も強く怒っている。エノクは、それを感じていた。
やがて、道の先に小さな劇場のような場所が現れた。
客席はない。舞台だけがある。古い木の床、一本の椅子、譜面台、そして天井のない空。舞台の上には、黒い星が大きく近く見えている。星の船の内部とつながっているのだろう。空の奥には、無数の帰還者の影が眠る棺の列がぼんやりと浮かび、さらに深くには黒星核の拍動が赤黒く脈打っていた。
その舞台の中央に、アイオンがいた。
いや、今はもう、その名だけでは足りなかった。彼は帽子を脱いでいた。外套もいつものように気取って羽織ってはいない。竪琴を抱え、椅子に腰かけることもなく、ただ立っている。顔は疲れ切っていた。千年を笑ってごまかしてきた者が、笑い方を忘れたような顔だった。
エノクたちを見ると、彼はほんの少しだけ口元を上げた。
「本当に来てしまいましたか」
アリアが一歩前へ出た。
「来るに決まってるでしょ」
「安全ではありませんよ」
「あなたを追う道が安全なわけないでしょうが」
「それは、まあ」
「まあ、じゃない」
アリアの声が低くなった。
「勝手にいなくなって、長い言い訳を残して、自分だけで黒星片の本流に向かって、それで追うなって? 何様のつもり?」
アイオンは軽く肩をすくめようとした。だが、その仕草は途中で止まった。いつもの癖で逃げかけ、逃げる場所がないと気づいたようだった。
「元・七英雄様、でしょうか」
彼は自嘲した。
アリアの目が鋭くなる。
「その言い方で、また逃げるつもり?」
沈黙。
アリアはさらに踏み込んだ。
「あなたは、自分を笑えば少し許されると思ってる。自分で自分を軽く扱えば、こっちがそれ以上責めにくくなるって知ってる。そういう逃げ方、腹が立つのよ」
アイオンは目を伏せた。
「手厳しいですね」
「まだ優しいわ」
アリアは双剣を抜かなかった。抜かずに、言葉だけで斬った。
「ヴェルナを失って逃げたあたしが言う。逃げたこと自体を責めてるんじゃない。逃げたあと、戻る場所を勝手に決めなかったことを怒ってるの。あなたは、私たちがあなたをどう扱うか、勝手に決めて逃げた。英雄として期待される。罪人として裁かれる。許されるのが怖い。支えられる資格がない。全部、あなたが勝手に決めたことでしょう」
アイオンの指が竪琴の弦に触れた。だが、鳴らさなかった。
テイルが後ろで小さく唸る。
「俺が言いたいこと、だいたい言われた」
ハルナが囁く。
「まだ殴ってないだけ優しいよね」
「殴るのは後だ」
「まだ諦めてない」
イリスが一歩前へ出た。
その瞬間、空気が変わった。アリアの怒りは炎に似ていた。イリスの怒りは、もっと静かだった。けれど、静かな分だけ深い。彼女は記録帳を抱えたまま、アイオン――アリオンを正面から見た。
「私は、あなたを許しません」
アイオンの顔がわずかに強張った。
「イリスさん」
「私は、あなたが怖かったことを理解できます。封印の場で声が出なかったかもしれないことも、千年間名前から逃げたくなったことも、少しは想像できます。私はあなたほど重いものを背負ったことはありません。だから、その痛みを簡単に裁くつもりはありません」
彼女の声は震えていた。だが、止まらなかった。
「でも、許しません。名を呼べる者が、自分の名を隠したことを。名を封じる真言を持っていた人が、自分の名を一音欠けた場所に置き続けたことを。誰かの名が消える痛みを知っていたはずの人が、自分の名を消えかけのまま放置したことを」
アイオンは何も言わない。
「私は、黒い炎に焼かれた人の名を呼びました。死者の都で、名を縛られた人たちの名を呼びました。帰還者たちにも名があったはずだと感じました。なのに、あなたは自分の名を自分で曖昧にした。アリオンであることを怖がって、アイオンという名で生きた。それでも、その名で私たちと旅をした。どちらも本当なら、なぜ私たちに選ばせてくれなかったのですか」
アイオンの唇が震えた。
「選ばせる?」
「はい」
イリスは帳面を開いた。そこには、アイオン、アリオン、両方の名が記されている。
「あなたをアリオンとして責めるか。アイオンとして怒るか。仲間として追うか。七英雄として必要とするか。そういうことを、私たちに選ばせてくれなかった。あなたは、自分がどう見られるかを怖がって、私たちの言葉を聞く前に逃げました」
その言葉は、舞台の中央でアイオンを縫い止めた。
「名を呼ぶ者は、相手が応えるかどうかを待ちます。あなたは、呼ばれる前にいなくなった。私は、それを許せません」
アリスが小さく、けれどはっきりと言った。
「置いていったから」
イリスは頷いた。
「はい。置いていったからです」
アイオンは、ようやく口を開いた。
「私は」
声が出なかった。彼は一度息を吸い、もう一度言おうとした。だが、言葉は喉で止まった。真言使い。名を扱う英雄。誰よりも言葉を使えるはずの者が、今、言葉を失っている。
エノクはゆっくり前へ出た。
「僕も、責めます」
アイオンは顔を上げた。
「エノク」
「あなたは、僕たちに言いました。英雄として追わないでくれって。七英雄アリオンを取り戻すために追わないでくれって。分かります。僕も、アベルのように死ななければいけないと思っていました。王家の血や聖剣や鍵に、自分の名前を押し潰されそうになりました。だから、英雄として扱われるのが怖い気持ちは、少し分かります」
エノクは背の聖剣へ触れた。
「でも、僕はランバード城で選びました。アベルのように死ぬんじゃなく、エノクとして生きると。だから、あなたにも言います。アリオンとして死ぬ必要はありません。でも、アリオンという名を、死んだ名にしないでください」
アイオンの目が揺れる。
「私に、その名を持つ資格が」
「資格の話は、もう聞きました」
エノクの声は強くなった。
「資格があるから名前を持つんじゃない。名前を持ってしまったから、そこから何をするかを選ぶんです。僕は、王家の血を持ってしまった。鍵を持ってしまった。聖剣も得ました。でも、それを罰にしないと決めました。あなたも、アリオンという名を罰にしないでください」
アイオンは黙った。
黒い星が頭上で脈打った。舞台の奥、星の船の棺の列から、かすかな囁きが漏れる。名を持たぬ帰還者たちの声。帰る、名を、王へ、混ざる、眠る。カオスの名層は、アリオンの真名に反応していた。彼が名乗れば、危険が増す。それは事実だ。だが、彼が名乗らなければ、名封じの真言も戻らない。どちらを選んでも怖い。千年前と同じ狭間が、またここにある。
アイオンは竪琴を抱え直した。指先が弦へ触れる。音はまだ鳴らない。
「私は、逃げました」
彼は言った。
誰も茶化さなかった。
「封印の時だけではない。その後も、ずっと。アリオンと呼ばれるたびに、あの一拍へ戻るのが怖かった。自分の音が欠けた瞬間へ戻るのが怖かった。私が言葉を発すれば、また世界を壊すのではないかと思った。だから、言葉で人を笑わせ、言葉で煙に巻き、言葉で自分を隠した。言葉の英雄などと呼ばれた者が、言葉を逃げ道にした」
イリスの目が潤んだ。だが、彼女は視線を逸らさない。
「はい」
アイオンは苦笑した。
「肯定されると、痛いですね」
「痛く言いました」
「そうでしょうね」
彼は顔を上げた。そこには、いつもの軽薄な仮面が少しだけ残っていた。だが、その下で初めて、別の顔が見えていた。アリオン。真言の英雄。失敗し、逃げ、千年間一音欠けた名で生きた者。
「私は、アリオンです」
その名が舞台に響いた瞬間、黒い星が大きく揺れた。星の船の奥から、いくつもの影が顔を上げる。帰還者たちが、名の響きに反応している。イーサーが星図を展開し、ハルナが遮断具を作動させ、テイルが地面のない舞台へ竜気を叩き込み、アリアが黒い影と真名の間へ双剣の白線を走らせる。イリスが帳面を開き、名が敵へ奪われないよう祈る。エノクは聖剣を抜かず、ただ柄に手を置いて光を支えた。
アイオン――アリオンの顔が苦痛に歪んだ。
「やはり、危険ですね」
「それでも名乗った」
アリアが言う。
「一回分は評価するわ」
「一回分だけですか」
「当然」
ほんの少し、場に息が戻った。
だが、アリオンはすぐに首を振った。
「私は、まだ完全には戻れません」
テイルが眉をひそめる。
「おい」
「戻ると口にするのは簡単です。アリオンと名乗ることも、今はあなた方が支えてくれたからできた。ですが、真言を完全に鳴らすには、私自身があの時の一拍を見なければならない。封印の場で、私は何を恐れ、何を選び、何を選べなかったのか。そこからまだ逃げています」
エノクは黙って聞いた。
「今、無理に完全復帰すれば、私はまた真言を歪めるかもしれない。カオスの名層に利用されるかもしれない。だから、今ここで全てを戻すとは言えません」
イリスが厳しい声で問う。
「また逃げるのですか」
アリオンは目を閉じた。
「いいえ」
その答えは、弱かった。だが、逃げの響きではなかった。
「逃げません。ただ、戻る準備をします。アイオンという名も、すぐには捨てません。そこには、あなた方と旅した私がいる。アリオンだけへ戻れば、それもまた逃げになる。七英雄の名で、アイオンとしての旅をなかったことにする逃げです」
アリスが小さく頷いた。
「外殻を脱いだ後も、中にいた時間は消えない」
「はい」
アリオンは彼女を見て、静かに言った。
「あなたに言われると、重いですね」
「重く言った」
「皆さん、本当に痛いところを突くのが上手になりましたね」
ハルナが腕を組んだ。
「逃亡者追跡料に含まれてるから」
「請求は後で」
「利子つき」
「覚悟します」
アリオンは深く息を吸った。そして、エノクたち全員へ向き直った。
「約束します。最終決戦では、アリオンとして立ちます」
その言葉に、黒い星がまた揺れた。だが、今度は彼の声も震えなかった。
「カオスの名を封じる場で、私はアイオンではなく、アリオンとして真言を鳴らす。欠けた一音を戻す。その結果、私が裁かれるなら裁かれます。許されないなら、許されないまま立ちます。ですが、今度は沈黙しません」
イリスはじっと彼を見た。
「その約束を、記録してもいいですか」
アリオンは少し笑った。
「怖いですね」
「記録します」
「ええ。お願いします」
イリスは筆を取った。
アリオン。真言の英雄。名を隠し続けてきたことを認める。最終決戦ではアリオンとして立ち、名封じ真言を鳴らすと約束。
彼女はそこで止まり、さらに書いた。
アイオンとして旅したことも、消さない。
アリオンは、その文字を見て目を伏せた。
「ありがとうございます」
「感謝で済むと思わないでください」
「はい」
「私は、まだ怒っています」
「はい」
「でも、呼びます」
イリスは帳面を閉じた。
「アイオン。アリオン。あなたが振り返れる名で」
アリオンの唇が震えた。今度は笑みではなかった。言葉にならないものをこらえる表情だった。
エノクは一歩近づいた。
「戻ってきますか」
アリオンはしばらく黙った。全員が待った。急かさなかった。言葉の英雄が、自分の言葉を選ぶ時間を。
「まだ、あなた方の真ん中へ戻るには怖い」
彼は正直に言った。
アリスの肩が少し落ちる。
「でも」
アリオンは続けた。
「完全には離れません。少し先を歩きます。黒星片の本流を探り、名層の変化を知らせる。必要な時には戻る。今度は、追える音ではなく、こちらから届く音を残します」
テイルが腕を組む。
「また距離を取るのか」
「はい」
「逃げじゃないんだな」
「逃げにしないよう、努力します」
「努力って便利な言葉だな」
イーサーが小さく咳払いした。
「私もよく言われます」
ハルナがにやりとする。
「逃亡者と空の長老、努力仲間」
「不名誉な組み合わせですね」
アリオンが苦笑し、イーサーもほんのわずかに目元を緩めた。張り詰めた空気に、小さな穴が空いた。まだ笑える。完全ではないが、それでも。
アリアはアリオンの前へ立った。
「最後にひとつ」
「はい」
彼女は手を伸ばし、彼の胸倉を掴んだ。全員が息を呑む。だが、彼女は殴らなかった。ぐっと引き寄せ、真正面から言う。
「次に黙って消えたら、斬らないけど本気で殴る」
「……斬らないのですね」
「斬る相手じゃないって言ったでしょ」
「光栄です」
「光栄じゃない」
アリアは手を離した。
「それと、あなたが何者かを決めるのはあなた。でも、私たちがあなたを何と呼ぶかまで、勝手に決めないで」
アリオンは深く頭を下げた。
「はい」
舞台の奥で、黒星核の拍動が強まった。長居は危険だった。イーサーが星図を確認する。
「反響路が不安定化しています。ここから出る必要があります」
アリオンは竪琴を構えた。今度は、音が鳴った。完全なアリオンの真言ではない。アイオンの旅歌でもない。その中間、けれど以前より少しだけ真名へ近い音。弦が一本、欠けたままではなく、震えながら戻ろうとする音だった。
白い道が開く。
「行ってください」
アリオンは言った。
「私は少し後から」
テイルが目を細める。
「またか」
「今度は、本当に少し後です」
アリスが不安そうに見る。
「置いていく?」
アリオンは彼女の目線に合わせるように少しかがんだ。
「いいえ。先に道を見ます。戻る音を、こちらから鳴らします」
アリスはじっと彼を見て、やがて小さく頷いた。
「嘘だったら、怒る」
「はい。怒ってください」
エノクは最後に彼を見た。
「アリオン」
その名で呼ぶと、彼は少し肩を震わせた。けれど、今度は逃げなかった。
「はい」
「アイオン」
その名で呼ぶと、彼はいつもの旅人のように少しだけ笑った。
「はい」
「どちらでも、戻ってきてください」
アリオンは竪琴を胸に抱き、深く頷いた。
「戻ります。今度は、言葉の英雄としてではなく、言葉から逃げない者として」
一行は白い道へ踏み出した。背後で弦の音が鳴る。黒い星の拍動に呑まれそうになりながらも、その音は確かに彼らの背を押した。エノクは振り返らなかった。振り返れば、また不安になる。だから前を向いた。
それでも、耳は聞いていた。
アリオンの音が、消えずに続いていることを。




