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アルティエル戦記  作者: 秋月キアラ
エピローグ
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序章 聖天使と七英雄

「さあ、耳を貸せ、火を囲む者たちよ。酒杯を置けとは言わぬ。だが、杯の底を覗き込むよりは、古い星の話を聞く方が、今宵は少しばかり値打ちがある」


 そう言って、老いた吟遊詩人は竪琴を膝に置いた。場末の酒場であった。壁には煤が染み、天井の梁には乾いた薬草と獣肉が吊るされ、暖炉の火は赤く、窓の外には冬の雨が細く降っている。旅商人、傭兵、神官見習い、荷運びの若者、酔い潰れた老人。名も身分も違う者たちが、火のまわりで肩を寄せていた。詩人は一度だけ弦を鳴らした。細い音が、酒場の天井に触れて震える。


「語るは、アルティエル暦の始まり。聖天使が地に降り、七英雄が大魔王を封じたという、ありがたくも古くさい話だ。神殿の聖典では白く輝き、王侯の年代記では金に飾られ、子ども向けの絵巻では、悪い魔王が一太刀で退治される。……だがな、そういう話ほど、歌にすると少し面白くなる」


 客の一人が笑った。


「爺さん、聖典に怒られるぞ」


「聖典はここに飲みに来ん。来たら一杯おごってやる」


 笑いが起きた。詩人は目尻を細め、また弦を鳴らした。今度は低い音だった。笑いはそこで静まった。


「まず、こう覚えよ。むかしむかし、大陸には二つの大きな名があった。北の白城ランバード。南の黒鉄シオゥル。白き旗と黒き旗は、長く長く争っていた。王は王の正義を語り、皇帝は皇帝の秩序を語り、兵は槍を磨き、母は息子の名を祈り、子は父の仇を覚えた。誰もが、この戦はどちらかが勝てば終わると思っていた」


 そこで詩人は声を少し落とした。


「だが、空は人の都合を待たぬ」


 彼は弦を三度、短く弾いた。


 ――夜の布を、黒き針が裂いた。

 ――星ではない星が落ちた。

 ――船ではない船が来た。

 ――神々の座より外なるものが、地に触れた。


「占星術師は流星だと言った。神官は天罰だと言った。魔導師は未知の星辰だと言った。だが、古い水読みだけが震えて言った。あれは星の船だ、と」


 酒場の若い荷運びが、思わず身を乗り出した。


「星の船って、本当に船だったのか?」


「絵巻では船だ。聖典では黒き神殿。シオゥルの軍記では空中要塞。古い民謡では、死んだ星の棺桶。さて、どれが正しいと思う?」


「爺さんは?」


「わしは、どれも少しずつ嘘で、どれも少しずつ本当だと思っている」


 詩人は片目をつむり、語りを続けた。


「星の船は、大陸の中央へ落ちた。山は鳴り、森は倒れ、川は逆さに泡立ち、夜は黒い昼となった。その船の扉が開いた時、そこから現れたのは王であり、怪物であり、神像であり、影であり、亡霊であった。見る者の恐れによって姿を変えるもの。名を名乗ったのではない。世界に名を押しつけたもの」


 詩人の声が、わずかに太くなる。


「大魔王カオス」


 その名に、暖炉の火がぱちりと鳴った。誰かが無意識に聖印を切る。


「カオスの炎は黒かった。家を焼くだけではない。名を焼いた。墓標の文字を剥がし、祈りの帳面から墨を消し、母に子の名を忘れさせた。兵は倒れ、国境は崩れ、白旗も黒旗も同じ灰をかぶった。そこでようやく、ランバード王とシオゥル皇帝は同じ卓についた。卓の上には白き旗と黒き旗。だが、誰も勝利の話などしなかった。皇帝は言ったと伝えられる」


 詩人は声色を変え、低く威厳を含ませた。


「名を失う大地に、帝冠など飾れぬ」


 次に柔らかく、しかし芯のある声で言う。


「王は答えた。ならば、我らはまず、大地の名を守らねばならぬ」


 詩人は竪琴をかき鳴らした。


 ――白き城と黒き鉄、

 ――二つの旗は雨に濡れ、

 ――昨日の敵が同じ壁に立ち、

 ――魔王の名を拒むため、

 ――人は人の名を呼び合った。


「その連合の先頭に立ったのが、ランバードの王子アベルであった。聖典は彼を、光より清き騎士と書く。絵巻は彼を、恐れを知らぬ美丈夫として描く。だが、古い兵の歌では少し違う」


 詩人は弦を静かに鳴らした。


 ――王子は夜ごと陣を歩いた。

 ――眠れぬ兵の名を聞いた。

 ――震える槍の柄に手を置いた。

 ――「殿下は怖くないのですか」

 ――「怖い。だから前へ立つのだ」


 酒場が静まる。


「アベルは強かった。だが、無敵ではなかった。血潮野で暗黒剣ヤクシャと打ち合い、その刃に胸を貫かれた。王子は死の川のほとりに立ったという。向こう岸には、彼が救えなかった兵たちの灯が揺れていた。彼が渡ろうとしたその時、白銀の翼が降りた」


 詩人は一度だけ、澄んだ音を鳴らした。


「聖天使アルティエル」


 女神の名を聞き、神官見習いが姿勢を正す。詩人はそれを見て、少し優しく笑った。


「聖典では、アルティエルは完全なる救いの光として描かれる。だが、古い歌ではこう言う。彼女は勝利を告げに来たのではない。名を呼び戻しに来たのだ、と」


 詩人は、女の声のように静かに語った。


「アベル・ランバード。まだ、あなたの名は呼ばれています」


 その言葉の後、少し間を置いた。


「アベルは戻った。死より苦しい戦場へ。アルティエルは彼に告げた。一人の剣ではカオスには届かない。世界に眠る力を呼び集めよ、と。かくして王子は旅に出る。神殿の壁画なら、ここで七つの光が天から降る。だが、歌ではそうはいかない。英雄とは、たいてい面倒な相手だ」


 客たちがまた少し笑った。


「はじめに現れたのは、傀儡子シモン。命なきものへ耳を澄まし、壊れた人形に『まだ眠っているだけです』と言った男。次に、龍神湖の竜王ザッハ。人の愚かさを嫌いながら、それでも大地が泣くならば立つと告げた竜。剣神阿修羅。刃で境を定め、斬るべきものを見誤るなと王子に言った女。機械使いダイダロス。世界の理を折り畳む箱を作り、『希望を入れる場所か、犠牲を入れる場所か、まだ知らん』と笑った技師。盲目の賢者ヨシュア。目を閉じたまま星と沈黙を聞き、倒すだけでは足りぬ、閉じ、鎮め、忘れず、呼びすぎてもならぬと語った者」


 神官見習いが眉を寄せた。


「待ってください。それで六人では?」


 詩人は指を止めた。


 火の音だけが残る。


「よく数えたな、坊や」


「七英雄でしょう」


「ああ、七英雄だ。年代記はそう記している。聖天使アルティエルを加え、七つの名は満ちる。白き聖騎士アベル、傀儡子シモン、竜王ザッハ、剣神阿修羅、機械使いダイダロス、盲目の賢者ヨシュア、そして聖天使アルティエル。神殿の壁画にも、王都の広場の石像にも、そう刻まれている」


「では、何かおかしいのですか」


 詩人は微笑んだ。


「いや、何も」


 そう言って、彼は弦を一本、爪で弾いた。かすかな音だった。誰かが耳を澄まさなければ聞こえないほどの、消えかけた音。


「ただ、古い旅歌の中には、時おり妙な節が残っている。誰が歌ったのか分からぬ一節だ」


 彼は目を伏せ、ほとんど囁くように歌った。


 ――七つの椅子に、六つの影。

 ――白銀の翼は、椅子の外。

 ――弦の音ひとつ、風に消え、

 ――名を呼ぶ口は、夜に閉じた。


 神官見習いが息を呑む。


「それは、どういう意味ですか」


「さあな」


 詩人は軽く肩をすくめた。


「古歌には、意味の分からぬ節が混じるものだ。写本師は誤記と呼び、神官は異端の余白と呼び、王侯は都合の悪い行を削る。わしはただ、古い弦の音は消しすぎると歌が痩せる、とだけ思っている」


 その言葉のあと、詩人は再び声を張った。今度は誰にも分かる、伝承の調べである。


「さて、七つの光はそろった。聖天使アルティエルは白銀の翼を広げ、七英雄は星の船へ向かった。黒い炎は大地を焼き、魔王の軍勢は空を覆い、名を失った死者たちは墓より立ち上がった。竜王は大地を押さえ、剣神は呪いの刃を断ち、傀儡子は壊れた武具へ最後の歩みを与え、機械使いはパンドラボックスを開き、盲目の賢者は沈黙の奥に道を読んだ。聖騎士アベルは傷だらけの身体で魔王の前へ立ち、聖天使アルティエルはその名を守った」


 詩人は強く弦を鳴らした。


 ――箱よ、開け。

 ――箱よ、閉じよ。

 ――肉を眠らせ、炎を鎮め、

 ――名なき闇を、名ある世より遠ざけよ。

 ――白銀の翼、剣に降り、

 ――七つの光、闇を封ず。


「その時、パンドラボックスは閉じた。大魔王カオスの肉体は封じられ、黒い炎は凍りつき、星の船は沈黙した。アベル王子は剣を支えに立ったまま息絶え、アルティエルの翼は天へ消えた。聖典は言う。聖天使は勝利の空へ昇り、七英雄は世界を救った、と。人々は泣き、鐘を鳴らし、焼けた神殿の祭壇を白布で覆った。その年より暦は改められた。アルティエル暦元年。世界が名を取り戻した年である」


 老詩人はそこで弦を止めた。


 酒場の誰もが、しばらく黙っていた。暖炉の火が薪を噛み、外の雨が窓を叩く。やがて、酔っているはずの傭兵が低く言った。


「それで、魔王は完全に滅びたのか」


 詩人は答えなかった。代わりに、竪琴の弦を一本だけ鳴らした。先ほどと同じ、消えかけた弦の音だった。


「伝承では、そうだ」


「伝承では?」


「今宵語ったのは、聖典と年代記と広場の石像が語る話だ。白く磨かれ、金で縁取られ、子どもに聞かせても怖すぎぬよう整えられた話だ。だが、大地の奥には黒い傷が残る。古い歌には、消された節が残る。壁画の端には、誰のものとも知れぬ弦の印が削り残されている」


 神官見習いが小さく訊いた。


「では、本当の話は?」


 詩人は笑った。


「本当の話は、いつも遅れてやってくる。人が、都合のよい歌だけでは足りなくなった頃にな」


 彼は立ち上がり、竪琴を背負った。外の雨は止みかけていた。


「今は、こう覚えておけ。聖天使アルティエルは地に降り、七英雄は大魔王カオスを封じ、世界は救われた。そう、伝えられている」


 扉を開ける前に、詩人は振り返った。


「だが、伝えられた話が、すべての名を残しているとは限らない」


 それだけ言って、老いた吟遊詩人は夜明け前の道へ消えた。酒場の火はまだ赤く、客たちはしばらく誰も動かなかった。やがて神官見習いが、自分の小さな帳面を開いた。今聞いた名を、忘れないように書き留めるために。


 アベル。シモン。ザッハ。阿修羅。ダイダロス。ヨシュア。アルティエル。


 そして彼は、なぜかその下に、小さな空白を一行だけ残した。

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