5-04
フライングローズから部屋に戻ってみると、パジャマ姿のゆきのだけがリビングにいて、ちゃぶ台に肘を置いて座り込んでいた。めぐみは寝たようだった。さおりは風呂らしく水音が聞こえてくる。
クリスタルの誘いのこと。まずゆきのに言わなくてはいけない、と思っていた。クリスタルと話しているときによぎったゆきのの感覚。彼女は今の生活をどう思っているのだろう。サンフラワーに反駁したあの意志を、今も持ち続けているだろうか。
彼女が独りでいる今が、話をするいいチャンスだと思ったが、彼女の表情は思いがけず暗かった。携帯電話を握りしめたまま、どこか遠いところを見ている。
ゆきのはあたしに気づくと、顔をこちらに向けないまま、言った。
「もえぎさんに、電話したんです。携帯電話手に入ったからって」
「……それで?」
「そしたらみずきさんの話になって」ゆきのはぽつりと言った。「あんまりああいう人とつきあわない方がいいよって、言われたんです」シトリンめ、そういう搦め手を使うかよ。
でも、一連の行動はすべてシトリンの独断のはずだ。戦闘専門の精神体が他人の陰口を言って何になるっていうんだ? ……理由があるとすれば、彼女の言ったとおりのことしか思いつかない。シトリンは女子高生を堪能したくて、ゆきのを良い友達だと思っていて、そしてあたしのことを悪い友達だと思っているのだ。電話で陰口を叩くのは女子高生的生活の一部分かもしれないが、……それにしたってヤマトナデシコを標榜するヤツのすることかね。
「ゆきの、あたしはいいけど、そういう話はあまり当人にするもんじゃない」
「そう……なんですか」
当人がいなけりゃ好きにすればいいことだが。「誰が誰に陰口を言ったなんてのは気持ちのいいもんじゃないからさ」
「覚えておきます」
あたしもちゃぶ台に片頬杖をつく格好で座り込んだ。……ゆきのと目は合わせずに、言った。
「……いいトコのお嬢さんには、大型バイクに乗る人間はみんな暴走族に見えるんだよ」我ながらうまいごまかしだった。ごまかし方がうまくったってちっともうれしかないが。「よくある偏見さ。あたしゃそんなことで凹まないから、気にすんな」
彼女の周りに、あたしも含めて、いくつもの嘘やごまかしがひしめいている。彼女の輝く未来は、気づかぬ無知に支えられている。シトリンはその無知を利用し、あたしもその無知に荷担している。
あたしはうなだれた。あたしの中では答えが出ている。停滞か変革か。ならば変革を選ぶべきだ。それが最良の選択なんだ。多くの人が苦しむ、戦いの未来になる。とても重たい、重大な選択、重大な責任だ。けれど、それは望ましい未来なんだ。あたしたちは希望の光になり、地球は滅亡から救われる。
でも、ゆきのは停滞を選択した。
「ローズフォースである自分」を最も容易に受け入れたのは彼女だった。ブルーローズの言葉に最初に反応したのも彼女だった。ゆきのの方が断然頭はよくって、今の状況を断然理解していて、それでいて思考はポジティブだ。彼女の判断が正しいに決まっている。そしてあたしとゆきのの判断は異なる。
……今すぐ答えを出す話じゃない。ただただ学校に行ければいい、そのためなら停滞のまま地球が滅びたってかまわない、そんなゆきのの考えを変えるために、説得する余裕は十分にある。ロウシールドは一朝一夕で壊せるものじゃないだろう、ゆっくりと心構えを整えればいい。
そうだ、それに彼女の体のこともある。サンフラワーは彼女を廃棄してしまうかもしれない。けれど、クリスタルのもとに在れば決して廃棄はされないのだ。シトリンとも、きっともっと仲良くなれる……。
あぁ、どう考えても言い訳だ。あたしは自分の判断に、何とかしてゆきのの同意と保証を取り付けようとしているだけなのだ。判断の根拠を、ゆきのに求めている。彼女と同じ意見でないと不安で不安でたまらない。
けれどあたしには、彼女の判断や思想を支える無知が、決して傷つけてはならない宝物のようにも見え始めていた。あたしなんかが触れると、たちまち砕けてしまいそうだった。話しかけることすらためらわれる。このままでは、どうにも答えが出そうにない……。
───凹まないと言ったくせに、いつしかあたしはゆきの以上に物憂げな表情をしていたらしい。少しあたしの顔を覗き込んでから、彼女はころりと朗らかな表情に変わり、また話しかけてきた。
「みずきさん───みずきさんには申し訳ないですけど、私、進路相談もとても楽しみです。いつ頃訊かれるんですか?」
ふぅ、とあたしは息をついた。器用なのか無理をしているのか、よくわからない。でも、進路相談が楽しみというのは本気なんだろう。
「前期後期で分かれてるんだよな?」「えぇ」「だったら、本格的にやるのは前期の成績が出てからじゃないかな。十月くらいじゃない?」
「そうなんですか……ずいぶん先なんですね。でも、今から考えておいた方がいいんですよね。何を訊かれるんでしょう?」
「そりゃあ……将来何をするとかしないとかって話さ」あたしは苦笑した。「大丈夫、いろいろ言われて不愉快な思いをするのは、あたしやさおりみたくデキの悪い連中だけさ。ゆきのは頭がいいから楽しい話になるよ」
答えながら違和感があった。頭が悪かったからイヤだったのか? 親や教師の心証はともかく、夢を語るだけなら馬鹿でもできる。あたしにはそれさえできなかった。夢を失ったイマドキの若者とひとっくくりにされるのはたやすい。夢を失ったのはひとつの結果であって、悪し様な指摘は何の解決も導かない。
「なぁゆきの……あたしたちに、本当に将来の夢が語れると思うか?」
「わかりません」ゆきのはそう答えた。「進路相談って、未来のことを話すところかもしれませんけど、私にとっては現在なんです。答える中身はどうだっていいんです、本当に福祉関係って言ってしまうかもしれません。でもそれもこれも、新しい経験なんです」
少しはしゃいだように言って、やっぱり物憂げなあたしに気づいたのか、ゆきのは少し背を丸めた。
「みずきさんは……そんなに、学校が楽しくなかったですか」
「学校っていうより……ひとつひとつ、新しいことを覚えていくたびに、苦しみ、っていうか心の重しが増えていく、それが現実ってもんだって気がするんだ」
「そんな」ゆきのは驚いたように言い、そして続いて出てきた言葉はとても優しい声だった。「知らないことを知るのって、とても楽しいですよ。みずきさんにもこの気持ち、もっと分けてあげたい」
───彼女は、やっぱり、宝物だ。学校とは輝きを増すための研磨の手段であって、傷つくことなどないと信じているのだ。あたしは天井を見上げた。環状の白色蛍光灯が、ただただ眩しかった。
そのとき、風呂から上がったさおりがバスタオルで身を包んだ格好でリビングに顔を出した。
「ねー、もうガス切っちゃっていい?」
「つけといて、あたし入るから」あたしは答えながら、その姿をしげしげと見た。なんで胸元にあんなに角度があるんだろう。あたしなんかバスタオルがただの筒にしかならんのに。───さおりは悩みなさそうだよなぁ。あれくらい他人の目を引けるボディラインだったら、学校生活ももう少し楽しかったのかな? まさかね。
「なぁ」「なに?」「さおりはさぁ、学校って楽しかった?」
「んー」さおりはちょっと考えてから答えた。「忘れてんのよ、ホント。───タノシーことってすぐ過ぎるじゃん? だからいらんことばっか覚えてない?」
「あー、そうかも」
「タノシーことタノシーことタノシーことっていっぱい追っかけちゃうとさ、薄まっちゃわない? 忘れんのよ、それで。───それでいーって。ガッコー楽しかったよ、あたしは」
「私は、忘れたくないです。楽しいことも、辛いことも、みんな大事な思い出にします」
優等生の模範解答を、さおりはけらけらと笑って簡単に否定した。「ムリムリムリ。覚えてらんないってー」
さおりくらい気楽な心持ちでいられたらどんなにいいだろうな。ふぅ、とあたしは大きく息をついて、立ち上がった。
「もういいだろ。今日は疲れた、あたしゃ風呂入って寝る」
───風呂の中で水滴のついた天井をいつまでも見つめていた。
今日はいろいろなことがあった。暇だったはずなのに、たかだか半日で、いろんなものが脳の裏っかわにこびりついてしまった。そいつは湯に浸かってみても溶けも流れもしなくて、何も考えるまいと思えば思うほど頭ん中をぐちゃぐちゃにかき乱す。起きるときはなんでこういっぺんに起きるんだろうなぁ。
今夜のあたしはずっと、見た目にも機嫌が悪かったろうと思う。今も気が重くってしょうがない。重いなんてレベルじゃない。心臓の上っ面をナイフでそぎ落とされたような、痛みとも息苦しさともつかない感覚が、やけに涙腺を攻撃してくる。
誰に苦しめられたワケじゃない。ただ決断すべきことがらを突きつけられただけだ。なのに泣けてきそうだ。
あたしは───どうすればいいんだろう。
ダメだ。
繰り返される涙腺への攻撃に耐えかねて、あたしは湯船の中に潜った。
二週間、時間はある。少し、自分の中で整理しよう。そう考えるしかなかった。整理のつくめどなんか何もなかったし、そもそも整理をつける必要があるのかさえ判然としなかったけれど、そう考えるしかなかった。




