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「今すぐ着ます」ゆきのは鼻をすすり上げながら言った。「めしは……」「後です!」
今のところ、鏡は洗面台にしかない。彼女は箱を持って立ち上がると、あっという間にサニタリースペースに入ってしまった。
ふはぁ、とめぐみが大きく息をついた。それから、キッチンで出汁が煮立っているのに気づいて慌てて火を消しに行く。
「……びっくりした」
「あたしもだ」
「……制服、かぁ……ねぇ、みずきお姉ちゃんもあんなだった?」
「高校に入るとき? う~ん、どうだったかなぁ」
やがて脱衣所の扉が軽く開く音と玄関の扉が開く音が重なった。出かけていたさおりがちょうど帰ってきたところだった……ただいまの声が、直後に突拍子もない調子に変わった。
「や~んナニソレかわいーカワイイ~っ!」
「ありがとうございます~っ!」ゆきのの返事も、合わせてハイテンションだった。
「スんゴイ似合う~! ゼッタイカワイイ~ッ!」さおりがゆきのの背中を押しながら、LDKに入ってきた。「ねぇスッゴイよコレ!」
ゆきのは照れながらも、部屋の中で何歩か歩いては、くるんと一回転することを何度か繰り返した。さながら即席のファッションショーだった。
確かに、カワイイ……とは思う。あたしが通ってた高校のに比べれば段違いだ。金ボタンのついた、裾が長めの濃紺のジャケットに、プリーツの深いスカート。胸元にあしらわれる藤色の大きなリボンがキュートで、目を引くアクセントになっていた。
スカートの裾が翻る。ゆきのは本当に嬉しそうだった。
「イイって! サイコー! ゆきのぅ、モテるよゼッタイコレ!」
「いーなー、あたしも着たぁい!」
そんなことを言いながらさおりとめぐみがゆきのを捕まえようとしたが、彼女はさっと身をかわすと自分で自分の体をぎゅっと抱きしめてぺろりと舌を出した。
「ダメです! 私のです! ふたりともサイズが合わないでしょ!」
……そーいやあの制服作るとき、誰が採寸したんだろう? まぁ、サンフラワーだろうな、などとくだらないことを考えながら、座椅子に腰掛けてぼうっと見ているだけのあたしにも、ゆきのは感想を求めてきた。
「ねぇ、みずきさん、どうですか!」
「あ……あ、あぁ、似合ってると思うよ」慌ててお世辞めいたことを言った。お世辞ではなく本当に似合っているのだけれど、取り繕ったみたいだと自分で思った。……でも、ゆきのは自分の世界に入ってしまっていて、気づかないようだった。
心からにじみ出る幸せな笑顔で、言う。
「私、これを着て学校に行くんですよ! 行くんです! 毎日! 学校!」
大きく手を広げ、また何度か回転してみせる。ふわりと裾が翻る。胸元のリボンが揺れる。……まぶしすぎて直視できなかった。
やがて「夏服もあるんです~っ!」ゆきのはまたサニタリースペースに駈けていく。「見せて見せて!」めぐみが追いかけていった。
……嵐が去り、あたしは大きくため息をついた。「……何が楽しいんだか」
「エー、楽しくない、あんた? カワイーじゃん、ゆきの。いーなー、制服ー」さおりがジャケットを脱ぎながら、あたしの隣にどすんと腰を下ろした。……ってぇか、さおりはこれから入る職場が制服着用だろうに。「……あんた、ガッコー制服だった?」
「制服だったけど、だから?」
「どんなん?」
「高校は紺のセーラーだった。襟がなんかでかくてダサいってんで不評紛々」
「あたしなんかグレーよ。いーなーゆきのうらやましー! あたしもあーゆーデザイナーズブランドみたいなの着てみたかったぁ」
「そうかぁ?」
あたしの気のない反応に、さおりが眉をひそめた。「あんた、うれしくない?」
「何が?」
「ビックリしたあたし、ゆきのあんなニコニコでさぁ。マジメくさってるばっかかと思ったら、あんなとこもあんだなーと思って、あたしスッゴイうれしいんだけど」
「あたしは別に……」
「そっかなー。もーちょい喜んであげなよー」
……そうは言われてもな。あたしはため息をついた。ほんとうに、いったい何が楽しいのかよくわからなかったのだ。
ゆきのは、制服によって自分の自由───たとえば単純に、服装を自分で決める自由を奪われることに気づいていないのだろうか。それとも、不自由に飛び込んでいきたいと、本気で思っているのだろうか。
けれどあたしの目には、この世の春を謳歌する嬉しそうなゆきのの顔が焼きついて、なかなか離れていかなかった。
サンフラワーがブルーローズを説得したのは正しかった。擬似的に社会に組み込む、という方針は、あたしたちに大きな活力を与えていた。
ヒトかモノかを選択するクリスタルの誘いのことは、あたしたちの記憶からしばらく消えてしまった。学校に普通に行って、会社に普通に行ける。サンフラワーが整えてくれたさまざまな準備は、自分がモノであることを見えなくするに十分な効果があった。
そうしてお互いの「社会的立場」が決まることで、結果的にギャップが生まれ、よく知ること、少し知ること、知らないことを分け、話題を形成する。一時期あたしたちを悩ませた話題不足はいつしか消えていった。もう、お互いの過去を詮索して苦しむことはない。現在と未来を語れる。
だが、あたしには次第に、ゆきののまばゆい未来が逆に重荷になっていった。
学校に行く、ということに関しては、とかくめぐみよりもゆきのの方がはしゃぎっぷりが数段上だった。普段は冷静で、顔色もあまり変えない彼女が、学校の話になると顔を紅潮させるのだ。
入院生活だったとは聞いていたが、どうやら小学校の頃からまともに登校していないらしかった。ほとんどは病院内の養護学校。彼女のたっての願いで普通の学校に通学した一時期も、教師が病院に来て、何やかや教科書を読んで、それで出席扱いにする、そんな措置を取られることが多かったらしい。体育はむろんダメ、遠足や修学旅行も不許可、たまーに登校すると、クラスメートに忘れられていることの方が多いくらいで、ひどく肩身の狭い思いをしたそうだ。
まして中学になると、投与された薬剤の影響で髪が抜け、皮膚はまだらになり、思春期を迎えた彼女自身が人前に出ることを厭うようになった。
彼女にとって、何の障碍もなく学校に行けることは、夢であり奇跡だった。それがかなうなら、悪魔にだって魂を売ると、ゆきのはそこまで言い切った。
あたしは醒めた目でその様子を見ていた。気持ちは大事にしたいと思っていたが、ローズフォースになったこと自体悦びではなかったから、むしろ、たかが学校に行けるという理由ですべての抵抗を終わらせてしまったゆきのに許せないものを感じたのだ。そう、あたしにとって学校は、たかが、っていう存在だったから。
高校ってどんなところ? 部活? 学食? 先輩後輩? しきりに訊きたがるゆきのをなだめすかすのが、苦痛だった。あたしたち四人の中では、配慮をいちばん知っているはずの彼女が、こればっかりはまったく頓着なく無邪気だった。
めぐみはむろん中学も高校も知らないし、さおりはとっくに忘れたと言って逃げ出した。ゆきのはあたしにしつこくつきまとい、高校の生の情報を引き出したがった。正直、ウゼェとしか思えなかった。
ほんとうに、あたしはいつから高校にまじめに行かなくなったんだったっけ。入学直後は、あれほどでないにせよやる気満々だったはずなんだ。少し考えてみたけど、きっかけなんか何もなかった、という結論に落ち着いた。そもそも入学したときのやる気というのがほんとうのものだったかも思い出せない。「新入生は希望に満ちあふれていなければならない」というルールに従ったまで、だったような気すらする。
けれどあたしは、その枷から逃れようとはしなかった。出席日数が足りる程度には行ったし、補習授業も受けて進級し、受験というコースに乗ることを決めて卒業まで通い続けた。なぜ……なんだろう。卒業とは定められたルールだろうか。それとも、学校というシステムに、あたしが手に入れられなかった何かが組み込まれていたのだろうか。
ゆきのが絶望に駆られることがないよう、今はただ祈る。




