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忍に頼まれただけで、部屋を見る理由など千佳は知らない。言葉に詰まり、口を半開きにしたまま数秒間固まった千佳はとっさに理由をでっちあげた。
「もしかしたら氷菓が私の部屋にいるんじゃないかと心配になりまして。だから氷菓がいるかいないかを確かめるために見せてほしいんです」
「ま、いいですわ」
四季の気のない返事に従って彼女のしもべ達が壁の穴に手を触れる。壁を背にしてベッドに足を伸ばす氷菓の映像に、千佳は目を見開いて言葉を失った。
ぬいぐるみの形をしたしもべのクマァを横に置き、氷菓はひざの上に乗せた袋からポップコーンを手づかみで食べている。ベッドの上には食べかけのケーキやアイスバーやプリンが放置されている。四季の遠視には気づかず、氷菓はうつむいたままポップコーンを食べ続け、食べるそばからぽろぽろとベッドにこぼしている。大ざっぱな性格であることがよくうかがえた。
「千佳も僕と同じ考えだったみたいだね。氷菓が千佳の部屋で待ちかまえているかと思ったが、やはりそうだったか」
忍の声に応じる余裕がまったくない。千佳はそこまで考えていなかった。消えた千佳達を探して幽世の街をうろついているとばかり思っていたのだ。
「なんで!? ど、どうして!? 氷菓が私の部屋にいるの!?」
「おや、分かってたんじゃないのかい? 氷菓はトラを尾行して瑠璃の居場所……つまり千佳の部屋をつきとめたんだ。千佳の部屋で待っていればいずれ千佳と、その仲間の瑠璃も戻ると読んだんだろう。仮に瑠璃が戻らなくても千佳から瑠璃の居場所を聞き出すことができると考えているかもしれないな。とにかく、この状況では千佳の部屋には帰れば向こう側の思うつぼだ」
「…………」
「トラはもう戦えないし、瑠璃もあのザマだ。瑠璃の能力は氷菓に通用しないのは判っているし、勝てないのは明白だ。部屋を捨ててしばらくここに身を隠すしかないな。聞いてるのかい、千佳?」
色々な思いと感情が胸の中に渦巻いていて、千佳は忍に返事をするどころではなかった。穴の中の氷菓に目をくぎ付けにしたまま呼吸も忘れ、おののき震えることしかできなかった。
氷菓のすさまじさは瑠璃とトラの二人を手玉に取った一方的な戦いを見て嫌というほど記憶に焼き付けられている。今は氷菓は幽世側で大人しくしているが、もしも彼女がその気になれば現世側の千佳の家をまるごと破壊するなど造作もないことだ。
千佳の部屋も、育った家も、それらに刻まれた思い出の数々の何もかもが失われる。それどころか両親が仕事から帰ってくれば氷菓は躊躇無く殺すだろう。殺されなくても千佳を操るための人質にとられる可能性は高い。もしも桃香が家のドアをノックすれば桃香にまで危険が及ぶ。
四季は約束以上の協力などしない。そんな分かりきっていることでさえ衝撃のあまりに千佳の頭から消し飛んだ。
「行儀の悪い幽姫ですこと。猟犬どころか駄犬ですわね。生まれと育ちの悪さがうかがえますわ」
椅子に座ったまま、壁の映像に目を向けて軽蔑の表情を浮かべる四季。そんな四季の前に千佳はかけよってひざまずき、彼女の左手を両手でつかむ。
「お願いです四季さん! 氷菓をなんとかして下さい!」
「なんとか?」
四季は白けた顔のまま、千佳に冷たい目を向ける。
「私の部屋から、家から、氷菓を追い払って下さい! 瑠璃はあんなだし、もう頼れるのは四季さんしかいないんです! 今は幽世にいるけど、現世に行って家や家族に何をするか……!」
「めんどうだから嫌ですわ。それに千佳、いきなり頼み事をするなんて不躾ですわよ」
「おい、もうやめろ千佳!」
とげを含んだ四季の声も、肩の上の忍の忠告も、パニックにおちいった千佳には届かなかった。
「千佳。手が痛いわ。いいかげんに離して下さらない?」
「どうか、どうかお願いします! 四季さんならできるでしょ!? 私達、友達でしょ!?」
四季の胸ぐらを掴んでがくがくと揺さぶる千佳。そんな千佳に、四季はあきれたと言わんばかりにため息をつく。
突然千佳の両腕が動かなくなった。驚いた千佳が振り向けば、左右の腕に一体ずつ……四季のしもべがしがみついていた。
背中の羽をはばたかせてハチドリのように宙に静止するしもべ達に腕の動きを封じられ、そのまま四季から強引に引きはがされる。小さい身体のくせに信じがたい怪力だった。
腕を止める二体に加えてもう二体のしもべが飛来し、千佳の足元に着地して両脚を抱きとめる。たったそれだけで千佳は足を動かせなくなった。まるで両腕両脚を見えない壁に固定されてしまったかのようにびくともしない。
「ねえ、千佳。わたくし、美しいものが好きなのですわ」
木の枝で編まれた椅子から立ち上がった四季が千佳のほおに左手を添える。
「それに、俗なものも好きですわ。低俗は悪くない。この身が世俗に染まって堕落するのを感じとるのはぞくぞくしますわ。でもわたくし、醜いものは大嫌いなの」
目を見つめたまま薄く笑う四季に、千佳の顔から血の気が引いていく。人の姿をした巨大な化け物に全身をつかまれているかのようだった。
「今の貴女はお世辞にも美しいとは言えませんわ。わたくしには少々醜いもののように見えるのだけど……千佳はどうお思いかしら?」
「し、き、さん……」
恐ろしさのあまりに口が震えて声が出せない。とぎれとぎれに名前を呼ぶだけで精一杯だった。
「花は美しいから愛される。花の蕾はどんな素敵な花を咲かせるだろうと期待を抱かせる。変わった体質の千佳がどんな花を咲かせるのかと思って目をかけてきたというのに……その結果がどこにでも咲くつまらない花ではこれまで愛でてきた甲斐がありませんわ」
千佳のほおに当てられた四季の手は首へと滑り、五本の指が大蜘蛛の脚のように動いて首筋をさする。
「だから千佳。あまりわたくしを失望させてほしくありませんの。もしも千佳の育て上げた花が醜くて悪臭を放つようなものだとしたら」
首に触れていた四季の手がゆっくりと左胸へと移動する。そこは千佳の心臓の真上で、四季は指をとんとんとリズミカルに動かした。
「わたくし、怒りで花を摘み取って握りつぶしてしまうかもしれませんわ」
微笑みながら語りかける四季の声色や目はいつもとまったく変わらない。それが千佳には恐ろしくてならなかった。
これまでの四季との付き合いで彼女の性格はだいたいつかんでいる。淑女のような外見と言葉遣いでありながら、そのじつ四季の本質はわがままな子どもに近い。気まぐれで、遊んだ末に飽きた玩具にはもう見向きもしない。次の面白そうな玩具を見つけに行くだけ。
目の前の四季を見つめたまま千佳は呼吸をすることを忘れていた。金縛りにでもあったかのように指先さえ動かせず、心臓まで止まってしまったかのような錯覚を抱いていた。それほどまでに今の四季の威圧感は大きすぎた。
「たかが人間ではこれ以上先へは踏み込めませんわ、千佳」
「――たかがって、どういう意味ですか?」
左胸から手を離す四季に、千佳は震えた小声を返す。
「幽姫の力量からすれば一人の人間など花壇を這うアリやダンゴムシのような小虫に等しいのですわ。一匹のアリがどうあがいても人間には勝てないでしょう? それと同じように一人の人間がどう頑張っても幽姫相手に勝てるものではありませんの。周りをうろちょろするのが関の山」
戦闘不能におちいった瑠璃とトラをかつぎ、氷菓から逃げることしかできなかった無様な姿を千佳は思い出す。胸の中に重くて固いものが詰まったような息苦しい気持ちだった。
「千佳があの瑠璃の呪いを吸って少々力を上げたところで……結局は同じこと。アリやダンゴムシのような虫けらが少しはましなカマキリや大クモになったようなものですわ。カマキリやクモでは人間を驚かすことはできても、殺すことなどできはしない。踏みつぶされてお終いですの」
四季の言うことは正論だ。氷菓との絶望的な力の開きなど痛いほどに分かっている。だからこそ反論できない正論は千佳の心に突き刺さる。千佳はうつむいて悔しさに歯を食いしばった。
「ふふっ。それでもまだ続けたいという気がお有りのようね。健気で可愛らしいこと」
四季は千佳のあごに左手を添え、上を向かせる。身動きの取れない千佳は強制的に四季の顔を見させられる。
「千佳。貴女の今のおかしな状況をよく考えてごらんなさい。瑠璃という、溜まった呪いで壊れかけの幽姫を拾っていっしょに住み……」
向こう側であおむけに倒れたままのぼろぼろの瑠璃に千佳の視線が向かう。
「そんな幽姫由来の首飾りを下げて……」
肩の上の忍がぴくりと反応するのが千佳にも伝わってきた。
「あんな猫のような姿をした幽姫と手を組んで……」
飴の中に封印されたままのトラに顔を向けて四季が失笑を漏らす。
「わたくしの庭園に身を隠し……」
幽世の一画に創られた四季の幻想的な庭園。季節は冬だというのに花々に満たされて春のように暖かく明るい。その空間を見せつけるように四季が右腕を横へ広げる。
「半身を人でないものへ変えてまで幽姫の氷菓と敵対している。それらがどれだけ人間の日常からかけ離れたことなのかお分かり? 普通の人間達からすれば千佳が身を置く状況は異常以外の何物でもないでしょう」




