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千佳がちらちらと視線で訴えても四季はそれをまるで気にする様子がない。自分自身の世界にひたり、穏やかな時を静かに楽しんでいるようだ。千佳が思った通り、四季には瑠璃と氷菓の争いを解決する気がまったくない。
千佳はよりいっそう重たい気持ちでひざを抱え、やっぱり四季をあてにはできないしどうにもならないと思い悩み、やがて氷菓への憎しみをたぎらせるようになった。
こんなことになったのも全部氷菓のせいだ。瑠璃が重傷を負って動けないのもトラが飴に封じこめられたのも、その原因は氷菓のわがままさにある。氷菓への怒りと憎しみでひざをつかんだ両手の指に力がこもる。
千佳にだって対抗意識ぐらいはある。テストの点数で負けたくないから勉強を頑張ったり、勝って嬉しかったり負けて悔しかったりするくらいはある。だが勝つために相手を騙したり、罠にはめたり、ましてや殺すことなどしはしない。氷菓はやりすぎだ。あまりにも非道いと千佳は思う。
目を閉じてあれこれと思ううちに千佳の胸に最後に残ったものは……恥ずかしさと後悔だった。最初にわき上がった氷菓への憎悪はそれらから目をそむけるためのごまかしに過ぎない。
いよいよ瑠璃が死ぬという土壇場になるまで千佳は何もできなかった。安全な屋根の上で戦いを眺め、足を震わせていただけだ。それに加えて瑠璃とトラを担いで氷菓から逃げていた時に口から漏らした無様な悲鳴を思い出すと恥ずかしさで死にたくなる。
瑠璃は千佳を守る剣になると言って戦いに命を賭けた。トラも氷菓を連れてきた責任をとって戦いに命を賭けた。そんな二人の仲間に対し、千佳は戦いから逃げることしかできなかった。強い後悔で胸が締め上げられ、自分への怒りで歯を食いしばる。
千佳は普通の人間ではない。呪いではじける寸前だった頃の瑠璃と同じくらいには動けて戦うことができる。だがその程度の力では氷菓の前ではお話にならないのだ。
千佳はひざから顔を上げ、正面の草木で出来た壁を見る。力の壁が邪魔だった。壁を破ってもっと先に進みたいと千佳は願う。氷菓に対抗できるだけの力が欲しかった。
戦いに勝利した氷菓はどうしているのだろうと、千佳は壁の向こう側のどこかにいる氷菓に思いをはせる。
氷菓は千佳のベッドに倒れ込み、あおむけになってぼんやりと天井を見つめる。窓の外の空は暗いままで、氷菓がいるのは幽世側の千佳の部屋だ。
「あーあ、退屈、退屈。クマァ、ここで待ってれば本当に瑠璃は戻ってくるの?」
「恐らくなぁ。あいつが帰る場所なんざ、もうこの部屋以外に残ってねぇよ」
ベッドのわきに置かれたクマァが「げげっ」と笑いを漏らす。
「へーんなの。人間と仲良くする幽姫だなんて。瑠璃っておかしいよね」
「ああ、変な野郎だなぁ」
「瑠璃を運んでいた人間の気配も、瑠璃も、トラも、いいところで全部完全に消えちゃうし。いったいどうなってるんだろうね。現世の方へ移動して逃げたわけでもないし」
「瑠璃の能力は剣を生み出すことだ。で、あの時はズタボロで何かをできる状態じゃなかった。トラの猫野郎は爪を武器にするだけが能の体力バカだ。しかも飴の中でおねんねしてる。当然、消えた事とは関係ねぇ。あの千佳って人間に幽姫の氷菓にも見破れない隠し芸があるとも思えねぇ」
氷菓はごろりと横向きになり、いら立ちにほおを膨らませながらクマァを見る。
「じゃあ誰の能力なのよ? クマァの分析じゃ容疑者ゼロだよ」
「……もしかすると氷菓の知らない幽姫の協力者がいるのかもなぁ……」
「……なにそれ。裏切り者のトラだけじゃなくて、そいつまで氷菓の邪魔をしてるの?」
「幽姫が私情で他の幽姫を狩るのは反感を買っても仕方がねぇ。人間でいうなら身勝手な殺人に当たるわけだしな。だからどっかの幽姫が氷菓のやり方に怒って瑠璃達に協力してても不思議はねぇな」
「他の幽姫が氷菓のことをどう思おうと、そんなの関係ないよ。氷菓が大事だと思うことをするのが一番大事なんだもん。氷菓にとって大切なのは瑠璃を殺して氷菓が上だと証明すること。戦いでは勝っても、瑠璃の息の根を完全に止めないと証明は完成しない」
「まぁ、顔も名前も分からない幽姫のことをあれこれ考えても仕方ねぇな」
氷菓はあおむけに戻り、小さくため息をついてぼんやりと天井を見る。
「ああ、暇。瑠璃達は今、どこで何をしてるんだろ」
「氷菓に見つからないどこかに身を隠して体力の回復を図ってるんだろうさ」
「瑠璃には負けない。簡単に勝てるってのはもう分かったよ。早く戦って終わらせたいなあ」
「たしかに瑠璃は問題ない。氷菓の能力で瑠璃の剣は無力化できるしな。瑠璃よりもむしろ、千佳って人間の娘の方が気になるんだが」
「えっ、どういうこと? クマァ」
「あんなガキに瑠璃と飴に入ったトラの二人をかついで走り続ける体力があるわけねぇ。いくら幽姫の身体が軽いっていってもあの足の速さは説明がつかねぇ。千佳は幽姫の氷菓からそこそこは逃げることができただろう? 恐らく、あいつは普通の人間じゃない。ただ者じゃねぇはずだ」
「だいじょうぶだよ。あんな人間に幽姫の氷菓が敗けるはずないもん。足だって氷菓の方がずっと速いよ。心配ないよ」
「……だといいがな。どういう経緯か知らねぇが千佳は幽姫の瑠璃とつながりをもっている。何か特別な能力とか幽姫側のコネをもってるのかもしれねぇ。油断はしない方がいいぜぇ」
「はいはい」
氷菓はのんきにあくびを漏らし、目の端に浮かんだ涙を両手でごしごしとこする。
「あの千佳って人間は不安材料だが、同時にこっちにとって好都合な存在だなぁ」
「ん? どうしてあの人間が?」
「瑠璃と千佳は行動を共にしてる。運命共同体ってやつかもなぁ。瑠璃の奴が千佳の剣になるとか言っていたのが良い証拠だ。相当千佳を大事にしてるらしい」
「ふんふん、それで?」
「千佳は幽姫でなく人間で、人間社会の一員だ。千佳自身の生活がある。当然千佳はこの部屋に帰りたくなる。だがそれはできない。なにしろこうして幽世側の部屋に氷菓が張ってるんだからなぁ。こんな当たり前のこと、わざわざあちらに教えなくても救いようのない馬鹿でない限り気づくだろ」
「うん。氷菓達が千佳の部屋の場所を知ってるのはもう伝わってることだしね」
「千佳が氷菓から逃れるためにはこの部屋や人間としての生活を捨てなければならない。だがあんな小娘にそんなことができるはずはねぇ。瑠璃も責任を感じて千佳の生活を取り戻そうとするはずだ。なにしろあの二人は切っても切れない仲間、運命共同体なんだからなぁ。つまり、この部屋で張っていれば千佳が瑠璃を連れて現れてくれるはずなのさ」
「あっ、そういうことか! クマァって頭良い!」
「今は動かず、ここで千佳と瑠璃が戻ってくるのをじっと待つことだな。そのうちあいつら、自分から罠に掛かりにやって来るぜぇ」
「げげげっ」と嫌らしく笑うクマァに、氷菓も無邪気な笑顔を返した。
気を失ったままの瑠璃の横に座り、千佳は彼女の身体をハンカチで拭いていた。傷口から流れ出た血を丁寧にぬぐい去り、戦いでほこりにまみれた顔や手足や衣服から汚れを落とす。
千佳の中での瑠璃はいつも傷ついている。道ばたで行き倒れていた瑠璃を見つけた時も、瑠璃はたまりにたまった呪いでふらふらのぼろぼろだった。瑠璃を失いそうになるたびに、いかに彼女が大切な存在かを千佳は思い知らされる。胸が強く痛み、死んでほしくないという切実な願いが頭の中のすべてを占めて離れてくれないからだ。
瑠璃の傷は瑠璃が命を賭けて生きている証だった。いつも裸の命を危険にさらしているから瑠璃はこうして傷だらけになるのだ。常にぬるま湯につかって生きている千佳達普通の人間は瀕死の傷や呪いなど負うことはない。瑠璃の生き方や覚悟の程を思うと、千佳は傷一つ無い自分の身体が恥ずかしくなる。
瑠璃はとても強い幽姫だ。幽姫の武器をもお菓子に変えてしまう氷菓と剣を操る瑠璃の能力の相性は最悪であり、そのせいで瑠璃は敗れた。だがそれでも瑠璃が強いことには変わりない。
瑠璃の強さの本質は体力や能力といった目に見える部分ではなく、もっと内側の深いところにあると千佳は気づいていた。瑠璃の強さの根源、それは不屈の精神だ。自分が正しいと思う規律に従い、それを決して曲げたり折れたりしない。不屈の精神が勝利への意志につながり、彼女の強さを支えているのだろう。
内側に秘めた強さと、外側の傷だらけの身体。強さと弱さという矛盾が瑠璃の中で同居している。今の瑠璃はもろく、危うく、今にも消えてしまいそうなはかなさに満ちている。雨上がりの空に浮かんではすぐに見えなくなってしまう虹のようなものだ。それが美しくもあり、同時に見ていて恐くなる。
「まるで夫婦か何かのように見えますわ、千佳」
「……ッ!」
四季のからかい声でずっと瑠璃を見下ろしていた千佳は我に返り、顔を赤く染めた。ささいなことですぐに赤面してしまう生まれついての癖が恨めしい。
四季の庭園に避難してから二時間近くが経った。氷菓は今ごろどうしているのだろうと思った千佳は、四季に頼んで氷菓がうろついていた道を壁の穴に映し出してもらう。
「……あれ? いない……?」
何もいない幽世の道路が映るだけで氷菓の姿はどこにも見当たらなかった。千佳達が消えた場所を見張っていると思いきや、氷菓はどこか別の場所へと移動してしまったらしい。
「千佳。幽世の千佳の部屋を映し出すように四季に頼んでくれ。僕が言うよりも彼女のお気に入りの君がお願いした方が聞き入れられるだろう」
肩の上に現れた忍が小さな声で耳打ちする。千佳は無言でうなずいた。
「……あのう。四季さん、幽世側の私の部屋を見せてもらえませんか?」
「どうしてですの?」
「どうしてって……」




